ヨブの最後の弁論(3)「ヨブの昔と今」
22. ヨブの最後の弁論(3) 「ヨブの昔と今」
【聖書箇所】29章1節~30章31節
ベレーシート
- 29章と30章は実に対象的です。29章では「昔の月日」についてヨブ自ら想起して語っており、30章では「しかし今は」(30:1)「それなのに、今や」(30:9)「今」(30:16)とあるように、ヨブの「現在の状況」を語っています。しかもその文体はヘブル詩の特徴である「パラレリズム」による表現法で一貫しています。
- 惨めな境遇にある人がかつての幸福を思い起こすなら、通常は、さらなる苦痛を覚えるものです。しかしヨブ記においては、過去と現在はそれぞれ自立性をもったものとして受けとめられています。つまり、ヨブにとって祝福に満ちた過去は、神が祝福の意志に基づいて与えた神のあかしであり、他方の不幸な現在も、神の意志に基づいて与えられている神のあかし(つまり、自分自身が原因ではない苦難の境遇)として受けとめられています。それゆえ、30章19節で「神は私を泥の中に投げ込み、私はちりや灰のようになった。」と語っているのです。
- ヨブにとっての最大の関心事は、自分に対する神のかかわり方です。ヨブの三人の友人たちは苦難の原因がヨブ自身の隠れた罪の結果にあることをなんとか理解させようとしました。しかし彼らの言葉はヨブにとっては的外れであって何の慰めにもなりません。むしろ、ヨブは沈黙を守る神に対して抗議し、必死に訴え続けているのです。
1. 29章に見るヨブの「昔の日々」の回想
- かつての神の祝福がいろいろな比喩的表現によって表わされています。
29章3節
あのとき、神のともしびが私の頭を照らし、
その光によって私はやみを歩いた。
●「ともしび」も「光」も、神の祝福と導きの比喩的表現です。
29章6節
あのとき、私の足跡は乳で洗われ、
岩は私に油の流れを注ぎ出してくれた・・。
●「乳」も「油(オリーブ油)の流れ」も神の祝福の豊かさを描く比喩的表現です(申命記32:13~14参照)。
29章20節
私の栄光は私とともに新しくなり、
私の弓は私の手で次々に矢を放つ。
●「弓」は力の象徴。創世記49章24節では「たるむことのない弓」という表現でヨセフの祝福が預言されています。そして、「矢」は弓の力による繁栄と隆盛を表わす比喩的表現です。
- 「神が私を守ってくださった」とするその祝福の内容は、以下のとおりです。
(1) 神との親しい交わりがヨブの家にあったこと。そして繁栄の日々を送っていた(2~6節)。
(2) ヨブは町の指導者として(社会的指導者として)重んじられており、人々から尊敬されていた(7~11節)。
(3) ヨブに対する人々の敬意は、ヨブが社会における弱者を顧み、適切な保護を施したからである。ヨブは盲人の目となり、足なえの足となり、貧しい者の父としての存在として輝ける顔をもっていた(12~25節)。
2. 30章に見る悲惨な現実ー「神の沈黙に対するいらだち」
- ヨブの現在の悲惨な現実を表わす比喩的表現
30章29節
私はジャッカルの兄弟となり、
だちょうの仲間となった。
●「ジャッカル」は狼の一種。「ジャッカル」も「だちょう」も荒地に住み、その泣き声は物悲しい声であることで知られている。ヨブの心境を表わす比喩的表現です。ミカ書1章8節では、サマリヤが陥落したことで、神ご自身がその悲しみを「わたしはジャッカルのように嘆き、だちょうのように悲しみ泣こう。」と語っています。
30章31節
私の立琴は喪のためとなり、
私の笛は泣き悲しむ声となった。
●「立琴」も「笛」も本来は人々の喜びを表わす楽器です(ヨブ記21:12)。ところが、それがヨブにとっては悲しみを表わす楽器となったことを述べています。
- ヨブは神へのいらだちを、27節で以下のように表現しています。
【新改訳改訂第3版】
私のはらわたは、休みなく煮えたぎる。悩みの日が私に立ち向かっている。
【新共同訳】
わたしの胸は沸き返り/静まろうとしない。苦しみの日々がわたしに襲いかかっている。
(1) 「はらわた」「胸」と訳された原語は「メーアイム」(מֵעַיִם)で、「腹、内臓、腸、胎内」を意味します。ヘブル人たちの感情は「心」ではなく「内臓」だということが分かります。
(2) 「煮えたぎる」「沸き返る」と訳された原語は「ラータハ」(רָתַח)で、旧約では3回(ヨブ30:27/41:31/エゼキエル24:5)しか使われていない語彙です。
2014.7.1
a:6514 t:4 y:3