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ラッパが鳴り響くとき

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民数記の目次

8. ラッパが鳴り響くとき

【聖書箇所】 10章1節~36節

はじめに

  • 民数記10章において初めて登場する二つの「銀のラッパ」。英語訳ではほとんどが「トランペット」(Trumpet)と訳されますが、今日のようなものではありません。しかもそれは今日見ることができません。神の指定で造られた二つの銀のラッパの製作もその吹き方も、その使用規定もすべて神によって定められました。そこには何一つ人間の考えや工夫の入り込む余地はありませんでした。まさに、イスラエルの神は「秩序の神」であり、その秩序に従うときにのみ、神の民はその存在の目的を果たすことができるようにされたのです。

1. 神によって造られた銀のラッパ(ハツォーツラー)

  • イスラエルの歴史においてはじめて吹き鳴らされた銀製のラッパ、その原語は「ハツォーツラー」(חֲצוֹצְרָה)。旧約では28回使われています。類似した「角笛」は「ショーファール」(שׁוֹפָר)で、約束の地に入ってから用いられるようになります。特に、有名な箇所としてはヨシュア記7章を参照。逆に、銀のラッパは約束の地に入ってからはひとたび姿を消し、ダビデの時代になってから主の契約の箱の前で主を賛美する楽器としてよみがえります。詩篇98篇6節には「ラッパと角笛の音に合わせて」とありますから、双方とも賛美の楽器として用いられていることを知ることができます。
  • ラッパの用途は、会衆や部族長を招集するとき、および、イスラエルの民を出発させる時の合図として吹き鳴らされました。その吹き方も、2本のラッパが「長く吹き鳴らされる」ときには、会衆を招集するときであり、1本のラッパが吹き鳴らす時には部族緒ぅたちの招集というふうに定められました。また、ラッパが「短く吹く鳴らされる」場合には、出発のとき、あるいは戦いのときというように定められていました。
  • ただし、ヘブル語原文には「長く」とか、「短く」という言葉はありません。新改訳で「長く吹き鳴らす」とあるのは「ターカー」(תָּקַע)、「短く吹き鳴らす」とあるのは、「ターカー」と「テルーアー」(תְּרּעָה)の両方が使われています。「テルーアー」は「ときの声、喜びの叫び、雄叫び、鳴り響く、歓声を上げる」という意味の名詞です。詩篇33:6には「新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫び(תְּרּעָה)とともに・・」とあります。
  • ユダヤ教のラビたちの解釈よれば、「テルーアー」(תְּרּעָה)は短い音を連続して吹くことだとしています(岩波訳の聖書註釈参照)。口語訳では「警報」、新共同訳では「出陣ラッパ」、岩波訳では「信号音」と訳されています。
  • オーケストラの中でとても小さな楽器の一つであるトライアングルというのがあります。他の楽器とはまったく音色が異なるので、わずか1個の音でもひときわ目立ちます。そのように、銀のラッパもイスラエルの民の中ではきわめて目立つ音色であったことを考えるならば、2本あるだけでも十分にその音を民たちは認知できたであろうと思います。主にある者たちが旅立つ(出発する)前には、必ず、神の「ラッパ」の音が鳴るのです(Ⅰコリント15:52、Ⅰテサロニケ4:16~17)。

2. 一年ぶりの旅立ちとその隊列の順序

  • 神の臨在としての「雲」が動くとラッパが鳴り響いて、人々は天幕をたたんで移動が始まります。その順序は、まず、先頭集団は、真っ青な布で覆った「契約を箱」が先頭にあり、それを運ぶケハテ族のレビ人、その後にモーセと祭司アロンとその子たちが続いたと思われます。そしてその後には、12部族の東側に宿営していた第一グループ(ユダ族、イッサカル族、ゼブルン族)、その後には牛車とともにレビ人のゲルション族とメラリ族が、その後に第二グループ(ルベン族、シメオン族、ガド族)、その後に聖所の器具を運ぶレビ人(コハテ族)、その後に、第三グループ(エフライム族、マナセ族、ベニヤミン族)、そして第四グループ(ダン族、アシェル族、ナフタリ族)と、整然と進んで行きました。それは実に麗しいものであったと想像します。

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3. イスラエルの民の休息の場所を捜された主

  • イスラエルの民が「三日の道のり」を旅して着いたところは、おそらく、「タブエラ」あるいは、「ギブロテ・ハッタワ」(קִבְרוֹ־הַתַּאֲוָה)という場所でした。
  • 民数記10章29~32節には、モーセの妻の兄弟と思われるホバブという人にモーセは道案内をしてくれるように頼んでいます。この箇所とこれまで神が雲によって導かれることを考えるとき、ここをどのように理解し、受けとめるべきか、十分な瞑想のポイントとなるように思います。神みずから道案内をされるので、人の知恵や経験に頼るのはおかしいと考える意見もあります。果たして、神に信頼することと、人の助けを受けることと矛盾するのでしょうか。
  • 私たちはしばしばこれは神の命令に違いないと思い込み、実は自分の願うことを行なっているかもしれないです。聖書のことばに一致していると思っても、実は解釈が違っているかも知れません。すでに出エジプト記18章ではモーセが義父イテロの助言を謙虚に聞いて、自分の責任をほかの者に委ねています。したがって、信仰の先輩や友の助言は大切です。謙虚に人の助けを仰ぐことは決して不信仰ではないと思います。むしろ「自分は神に祈って、神に従っている、信仰によって歩んでいるから大丈夫」と一切の助言を無視して高慢になってしまう危険を考えるならば、人の助言に謙虚に耳を傾ける姿勢は大切と言えます。
  • しかも、32節では「主が私たちに下さるしあわせを、あなたにも分かち合いたいのです」とあります。義兄弟は在留異国人です。その彼から助けてもらうと同時に、神の祝福を共に味わおうとしています。果たしてホバブは一緒に行ったのかどうか定かではありません。いずれにしても、すべて(助言も含めて)は神の導きの中にあることをモーセは十分に心得ていたと信じます。33節にはイスラエルの民に休息の場所(「メヌーハー」מְנוּחָה)を捜す主の恩寵が記されています。

【新改訳改訂第3版】民数記 10章33節
こうして、彼らは【主】の山を出て、三日の道のりを進んだ。【主】の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所を捜した。


2012.1.25


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