****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ラッパの祭りとその預言的意味

6. ラッパの祭りとその預言的意味

ハグ・ハッショーファーレット

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ベレーシート

【新改訳改訂第3版】詩篇81篇1~4節
1 われらの力であられる神に喜び歌え。ヤコブの神に喜び叫べ。
2 声高らかにほめ歌を歌え。タンバリンを打ち鳴らせ。六弦の琴に合わせて、良い音の立琴をかき鳴らせ。
3 われらの祭りの日の、新月と満月に、角笛を吹き鳴らせ。
4 それは、イスラエルのためのおきて、ヤコブの神の定めである。

  • 上記の詩篇の3節、「われらの祭りの日の、新月と満月に、角笛を吹き鳴らせ」というフレーズを見て、この祭りが何の祭りであるかが分かる人は相当の旧約聖書通です。答えは、秋の祭りです。第七の月の一日目の「新月」に吹き鳴らされる「ラッパの祭り」と「満月」に吹き鳴らされる「仮庵の祭り」を意味しています。
  • この短いフレーズを理解するには、主の祭りについての知識、太陰暦の知識、そして「角笛」が吹き鳴らされる目的についての知識が不可欠です。それからの主にある者たちはこのレベェルにまで行く必要があります。なぜなら、主の例祭には神の不変のご計画(マスタープラン)が啓示されているからです。それを理解するためには、その秘密を明らかにしていくためには、主の例祭をしっかり学ぶ必要があるのです。
  • 3世紀に、ローマ・カソリック教会が「新約にある信者は安息日を含め、主の例祭を祝わないように。祝う者は信者間の交わりから除名する。」との通告を出したことによって、キリスト教会は元木であるヘブル的・ユダヤ的なルーツから切り離されてしまいました。つまり、「主の例祭」に込められた神のご計画を悟ることが出来なくなってしまったのです。しかし今日、不思議なことに、ヘブル的・ユダヤ的視点から聖書を学ぶ者たちが徐々に増えつつあります。しかもこれは、クリスチャンたちにとってコペルニクス的転換、ないしはパラダイムシフトをもたらす経験となるはずです。
  • シリーズ「旧約における主の例祭の預言的意味」において、これまでに、週ごとの「安息日」、そして春の祭りである「過越の祭り」、「種の入らない祭り」、「七週の祭り」を取り上げました。今回は、秋の最初の祭りである「ラッパの祭り」(ラッパを吹き鳴らす祭り)を取り上げます。まずはそのことが記されている聖書箇所を見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】レビ記 23章24節
イスラエル人に告げて言え。第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。

  • 24節には、「第七月の第一日」「ラッパを吹き鳴らす」「全き休みの日」という重要な言葉があります。それらを順に説明したいと思います。そのあとで、この祭りが示唆する預言的意味について考えます。

1. 第七月の第一日

  • 「第七月」(ティシュレー)とは、今の太陽暦で言うなら、9月~10月の時期に当たります。第七の月(ティシュレー)の一日目は、バビロン捕囚からの帰還後、新年祭的性格をもつようになりました。ですから、第七の月の一日目を「新年祭」をヘブル語では「ローシュ(רֹאשׁ)・ハッシャーナー」(הַשָּׁנָה)と言います。そもそも聖書には「新年」を表わす語彙はありませんが、エゼキエル書40章1節に「その年の初め」という意味の「ローシュ・ハッシャーナー」という表現があります。
  • 出エジプトからの脱出に際して、主はモーセとアロンに、「この月(アビブの月)をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。」(出12:2)と語られました。ですから、そもそもの新年は「過越の祭り」から始まっていたのです。ところが、イスラエルの民がバビロンに捕囚となってから、「アビブの月」が「ニサンの月」(バビロン暦)に変わります。帰還後は、過越の祭りが行なわれる「ニサンの月」から数えて完全数である七番目の「ティシュレーの月」の一日目を「新年」とするようになりました。ユダヤ人にとっての秋の祭りは、政治暦としての「新年」なのです。
  • さて、ここで一つ質問です。今、当教会の教会学校では「ダビデ」のことを学んでいます。サウル王が二日間にわたり、自分が主催する食事会を催しました。当然、家臣のダビデもその王の食卓の席に身を連ねなければなりませんでした。ところがダビデは嘘をついてその食卓の席に連なりませんでした。なぜなら、ダビデがサウル王の妬みを買い、いつ殺されてもおかしくない状況になっていたからです。ダビデが王の食卓の席に着かなかったことで、サウルは怒り、ダビデに対する殺意をむき出しにしてしまいます。ダビデをかばった息子のヨナタンもサウル王の逆鱗に触れ、サウルの放った槍で殺されそうになります。ダビデとヨナタンはこの日を境に、永遠の別れを余儀なくされました。Ⅰサムエル記20章がそのことを伝えていますが、17章の有名なゴリアテとダビデの戦いに次ぐ長さです。では質問です。この時、王が主催した食事会とはどんな日だったのしょうか。以下の中から答えを考えてください。

    ① サウル王の誕生日の食事会であった。
    ② 戦いの勝利を祝う食事会であった。 
    ③ サウル王の気まぐれから来る食事会であった。
    ④ 聖書で定められたある祭りの時であった。

2. ラッパが吹き鳴らされる日

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  • 第七月の第一日は、新年を知らせるための「ラッパを吹き鳴らす日」で、「ヨーム・テルーアー」(יוֹם  תְּרוּעָה)とも呼ばれます。ユダヤ教のラビたちの解釈によれば、「テルーアー」(תְּרוּעָה)とは、下の楽譜の3に記されているように、短い音を連続して吹く合図音のことだとしています。新改訳では「短く吹き鳴らす」、口語訳では「警報」、新共同訳では「出陣ラッパ」、岩波訳では「信号音」と訳されています。下の図の3が「テルーアー」です。とても特徴的です。

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  • 「ショーファール・サウンド」は・・1~3の組み合わせを99回繰り返し、最後の100回目に4を吹き手の息が続く限り長く吹き鳴らされます。
ラッパの祭りPhot2.jpg
  • 角笛「ショーファール」(שׁוֹפָר)は雄羊の角で作られたイスラエルのラッパの一種です。旧約聖書には「ラッパ」と訳されるもう一つの語彙、「ハツォーツラー」(חֲצוֹצְרָה)という銀でできた筒状の管もあります(民数記10:2)。これは荒野においてイスラエルの民を招集したり、行進したりする合図の音を出すためのものでした。しかし、やがてカナンの地に定住する時代になると、「ラッパ」はおもに神殿で神を礼拝する楽器として用いられるようになります。角笛は礼拝の賛美の中でも用いられましたが、祭司でなければ吹くことはできませんでした。角笛は人々を招集するだけでなく、戦いの武器として用いられたり、王の就任の時や主の例祭、そしてある特別な合図のしるしとして吹き鳴らされたりしました。
  • 新約聖書では、「ショーファール」と「ハツォーツラー」の区別はなく、「主の日」、すなわち、「終わりの日」に主が訪れる合図の「ラッパ」として、ギリシア語の「サルピンクス」(σάλπιγξ) という訳語が使われています。Ⅰコリント15章52節、Ⅰテサロニケ4章16節を参照。キリストが再臨される前には、必ず、この「サルピンクス」(σάλπιγξ)が鳴り響くのです。

3. 新年である「ラッパの祭りの日」は「全き休みの日」

  • ところで、イスラエルの暦で「安息日」(「シャバーット」שַׁבָּת)と言えば、だれでもその日は一切の仕事をしてはならないことは知っていると思います。では、イスラエルの「全き休みの日」(「シャバーットーン」שַׁבָּתוֹן)には、どんな日があるのでしょうか。聖書(主の律法)によって定められている「全き休みの日」は、以下の通りです。

(1) 週の第七日(the seventh day)である「安息日」〔 年52回〕
(2) 毎月の「新月祭」(「ホーデシュ」חֹדֶשׁ)〔年12回〕
(3) 主の例祭
①第一のアビブ(ニサン)の月の14日目の「過越の祭り」(ペサハ)〔年1回〕
②翌日から七日間の「種なしパンの祭り」の初めと終わり 〔年2回〕
初穂の祭りー過越の祭りの後に来る安息日の翌日〔年1回〕
④第三の月の七週の祭り(シャブオット) 〔年1回〕
⑤第七のティシュレーの月の一日目の「ラッパの祭り」〔年1回〕
⑥第七のティシュレーの月の十日目の「大贖罪日」〔年1回〕
⑦第七のティシュレーの月の十五日から七日間の「仮庵の祭り」の初めの日(満月)と八日目 〔それぞれ年1回ずつ〕

  • 日本では、今日、日曜日の他に16日の祝祭日があります。しかし、旧約のイスラエルにおいては、「安息日」とは別に「全き休みの日」というのが年に21回あります。安息日と重なる日もあるので実際は21回以下の日数ですが、これに安息日が加えられると、73日分が休日ということになります。一年のうち約2ヶ月半弱は仕事を一切してはならない「休日」という計算です。

4. 「ラッパの祭り」の預言的意味

  • これらの祝祭日は、すべて神のご計画を預言的に指し示しています。春の祭りはすでにイェシュアによって成就した出来事ですが、秋の祭りはこれからのことを示唆しています。特に、「ラッパの祭り」は主の再臨を預言しています。新約聖書において「ラッパ」という言葉を検索すると以下のようになります。

(1) 比喩的に用いられているラッパ

①【新改訳改訂3】マタイの福音書 6章2節
だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

②【新改訳改訂3】Ⅰコリント書14章8節
また、ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう。

  • ①での「ラッパを吹く」とは、大げさな事を言う、物事を大きく誇張して言うという意味。ここではラッパを吹くという表現が比喩的に用いられており,イエスはこれみよがしに憐れみの施しをすることがないようにと警告されました。②の「ラッパ」はその効果を発揮することについて記されています。いずれも、預言的な意味はありません。

(2) 神のさばきをもたらす御使いが吹くラッパ

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①【新改訳改訂3】黙 8:2
それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。
②【新改訳改訂3】黙 8:6
すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。
③【新改訳改訂3】黙 8:7
第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現れ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。
④【新改訳改訂3】黙 8:8
第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。
⑤【新改訳改訂3】黙 8:10
第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。
⑥【新改訳改訂3】黙 8:12
第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。
⑦【新改訳改訂3】黙 8:13
また私は見た。一羽の鷲が中天を飛びながら、大声で言うのを聞いた。「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」
⑧【新改訳改訂3】黙 9:1
第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。
⑨【新改訳改訂3】黙 9:13
第六の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は神の御前にある金の祭壇の四隅から出る声を聞いた。
⑩【新改訳改訂3】黙 9:14
その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」
⑪【新改訳改訂3】黙 10:7
第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」
⑫【新改訳改訂3】黙 11:15
第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」

  • 第一から第六までの御使いがラッパを吹き鳴らすその時、神のさばきがなされます。しかし、第七の御使いがラッパを吹き鳴らす時には、旧約の預言者たちが語ってきたことが完全に成就するのです。それは大患難後のメシアの地上再臨によって実現するメシア王国の到来です。しかしここで、私たちクリスチャン(キリストの花嫁)にとってきわめて重要なのは、以下の事柄です。

(3) 花婿が花嫁なる教会を迎えに来るとき吹き鳴らされるラッパ

①【新改訳改訂3】Ⅰコリント 15:52
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

②【新改訳改訂3】Ⅰテサロニケ 4:16~17
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

  • ここで使徒パウロが語っているのは空中携挙のことです。その時に「終わりのラッパ」が鳴るのです。ちなみにそれは、ヨハネの黙示録第8〜第11章に登場する御使いによって吹き鳴らされる「さばきのラッパ」(第一〜第七)とは異なるものです。パウロは、花婿なる主が天から下って来る時に、花嫁なる教会は雲の中に一挙に引き上げられて空中で花婿なる主と会うという「携挙」が起こることを記しています。それはほとんど瞬きする間の出来事で、一瞬にして起こります。そのプロセスは、まずキリストにある死者が初めに死からよみがえり、次に、生き残っている者たちが雲の中に引き上げられます。この「引き上げられる」と訳されたギリシア語は「ハルパゾー」(ἁρπάζω)という動詞が使われています。その意味するところは、「すばやく力づくで取り去る、かっさらう、略奪する、強奪する、奪う」です。花嫁をかっさらう・・タイトルは忘れましたが、そんな映画がありました。ここでは、サタンが手出しできないほどの、一瞬の出来事なのです。ですから、残された人はすぐにはわかりません。後になってから次第に状況が分かって来るのです。
  • 朽ちないからだに一瞬にして変えられるという福音は、まさに「御国の福音」なのです。なぜなら、主にある者たちは、肉体的な制限を越えた存在となるからです。新しい上からの力を与えられて、「走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」ということが身に起こります(イザヤ40:31)。このような祝福は、メシア王国(千年王国)においてもたらされる祝福です。この世で私たちがどんなにすばらしい主の恵みを経験したとしても、メシア王国にある祝福に比べるならば、それは「からし種」程度のものでしかありません。

べアハリート

  • 使徒パウロはこんな祈りをしています。

    【新改訳改訂第3版】エペソ人への手紙 1章17~19節
    17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
    18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
    19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

  • ここでの祈りのポイントは、以下のように大きく二つに絞られます。

    (1) 「見えるようになること」
    つまり、神を知るための知恵と啓示の御霊が与えられて、心の(霊の)目がはっきり見えるようになることです。

    (2) 「知るようになること」
    ①神の召しによって与えられる望みがどのようなものか
    ②聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか
    ③信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか

  • やがて私たちが相続することになる「御国」は、私たちの想像をはるかに超えたものであることを、聖書を通して知り続けることができるのです。こんなワクワク・ドキドキ・ウキウキさせられる福音は、他にはない事をますます確信する者となるはずです。 


2015.2.15


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