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ラーハム


No.24「ラーハム」(רָחַם)

「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ」(出エジプト記33:19)

●「ラーハム」(רַַָחַם)の初出箇所は出エジプト記33章19節です。「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ」とあります。後半の「あわれむ」が「ラーハム」です。ここは同義的パラレリズムとなっており、「あわれむ」の「ラーハム」と、「恵む」を意味する「ハーナン」(חָנַן)とは同義です。使徒パウロがこの33章19節をローマ書9章15節で引用しており、そこでは「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」となっています。「あわれむ、恵む、いつくしむ」と訳される「ラーハム」と「ハーナン」は、いずれも神の深い心情を表す重要な語彙となっています。一つの原語に対して新改訳と新共同訳とでは訳が異なっていますが、意味としては同義です。

●二人の盲人の「あわれんでください」との叫びに対して、イェシュアは「深くあわれんだ」とあります(マタイ20:34)。ギリシア語は「スプランク二ゾマイ」、ヘブル語訳は「ラーハム」です。この語彙があるところでは単なる同情だけではなく、必ず行動が伴っています〔=同情+行動=結果〕。二人の盲人の叫びに対して、イェシュアが「深くあわれんで」、彼らの目に触れられたことで、彼らは「見えるようになった」のです。福音書には生まれつきの盲人が多く登場しますが、それらは神の事柄に目が覆われている者のたとえです。生まれつきの盲人の目が見えるようになるという奇蹟こそ「ラーハム」が意味することであり、メシアにしかできないわざなのです。「あわれんでください」ということばに主はとても敏感です。なぜならそれは、自分には何もできないことを霊のうちで真に悟らされた者が主に懇願する重要なことばだからです。終わりの日に立ち上がってくる「イスラエルの残りの者」を開眼に至らせる「恵みと嘆願の霊」(ゼカ12:10)に、「ラーハム」の同義語「ハーナン」の名詞が三重に重ねられています。

●パウロも神の「ラーハム」に与った一人です。彼は「自分は見える」と考えていたパリサイ人の一人でしたが、イェシュアが天からの光によって彼を照らし、霊の目を開かせました。その際、彼のもとに遣わされたのが、ダマスコに住む主の弟子の一人「アナニヤ」(新改訳2017は「アナニア」)でした。「アナニヤ」のヘブル語表記は「ハーナン」です。アナニヤの按手によってパウロは「目から鱗のような物が落ちる」という開眼の恵みを与えられ、洗礼を受けています。「王なる祭司」はすべて神のあわれみにふれた者です。私たち祭司は、日々霊的開眼を経験しながら、人に対して「あわれみ」(ラーハム)を示す者となるのです。御国(メシア王国)は、そのような者たちが集結する所なのです。

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