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ルカの福音に対する思惟的特徴

14. ルカの福音に対する思惟的特徴

【聖書箇所】 5章1~11節

はじめに

  • タイトルを「イエスの福音に対する思惟的特徴」としましたが、これだけだと何のことか分からないと思います。ルカ5:1~11は、ペテロを筆頭に他の者もイエスの召しに答えて弟子として従っていく有名な箇所です。私もここからなんども説教をしましたが、聖書を瞑想するときには常に、白紙の状態で臨む姿勢をとっています。今回も新しい視点からこの箇所を味わってみたいと思います。
画像の説明
  • マルコにもマタイにもペテロを代表とする漁師たちを召し出す出来事を記していますが、実に、その中身は淡々と記されています。ところがルカの場合には、他の福音書とは異なり、マルコやマタイにない「大漁の奇蹟」を挿入しています。なにゆえにこの奇蹟を挿入する必要があったのか。その問いかけに対する私の答えは、この出来事こそルカが福音をどのように理解し、イメージしていたかを私たちに伝える彼の独自の思惟的特徴を表しているように思うのです。その点こそ、今回の箇所を味わう今までない新しい視点と考えています。

1. 相反する現実の構図

  • ルカ5:1~11には相反する現実を示す表現があります。
    それは5節の「何一つとれなかった」という表現と、7節の「いっぱいになった」という表現です。ペテロは夜通し働いたにもかかわらず、雑魚一匹もとることができませんでした。まったくのゼロです。ですからその働きは徒労に終わりました。働きは徒労に終わったとしても、ひとたび投げ入れた網には多くの不要物が付着していて、そのためにその網(複数)からそれを洗い落とすために、繰り返して洗い続けている様子をイエスはご覧になったのでした。
  • イエスはペテロの舟に乗り込んで、岸から沖へ漕ぎ出すように頼みました。そして座ったあとで舟から群衆に向かって次から次へと教えられたのでした。その後に、イエスはシモン・ペテロに向かって、「深みへ漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われたのです。多くの群衆がイエスの話を聞こうと続々と集まって来たことを考えるなら、ペテロとてイエスという方がただならぬ方であることを感じ取っていたことは十分うなずけます。ですから、夜通し働いて何一つ獲れなかったにもかかわらず、「おことばどおり、網をおろしてみましょう」と答えたのです。半信半疑というところがあったと思います。まだイエスと彼との距離は隔たりがありました。その隔たりが見事に打ち壊され、より近いかかわりになるとはこの時点でペテロは想像だにしてはおりませんでした。
  • 普通、沖の深みでは当時の投網による漁獲法では魚は逃げてしまい、獲ることができなかったようです。ところが想定外のことが起こりました。おびただしい魚が網に入り、そのために網が破れそうになったために、仲間の者たちに合図をして助けてもらいました。しかし獲るには獲ったものの舟が沈みかけそうになったのです。
  • ここに大きな対比が見られます。少し前までは、「何一つとれなかった」現実があり、もうひとつはイエスの言うとおり網をおろすと「いっぱいになった」現実との対比です。これはペテロを初めてとして他の漁師も「ひどく驚き」ました。ここにある「ひどく驚いた」という動詞はこれまでにも登場している「サンボス」 θάμβοςという言葉で、すでに4:35にあります。新改訳では「人々はみな驚いて」と訳していますが、「すべての人々の上に驚愕(恐れ驚くこと、びっくり仰天、度肝を抜かれること)が臨んだ。」というのが正確です。その驚きは汚れた悪霊に完全にとりつかれてしまった人が完全に解放された出来事に対してのものです。ルカ5:9における「驚き」(名詞)は、舟が「いっぱいになる」ほどの大漁の現実に対するものでした。その驚きはペテロだけでなく、仲間をも捕らえました。しかもその「驚き」は、自分の横柄な自慢気な態度を、自信に満ちた言動を、鼻っぱしをことごとく折られてしまうという出来事でもあったのです。それゆえ聖なる「恐れ」に捕らえられたペテロは、自分の思いや考えをはるかに超越した存在であるイエスのひざ元にひれ伏したのでした。なんという強烈な出会いでしょうか。魚が「何一つとれなかった」現実と舟「いっぱい」にとれた現実、その現実をルカは強調しようとして、この大漁の奇蹟を挿入したように思うのです。

ちなみに、「いっぱいになる」と訳されたことばは動詞の「ピムプレーミ」
πιμπλημιは「(聖霊に)満ち溢れる、(恐れに)満たされる、(月や期間が)満ちる、(怒りの感情や驚きで)いっぱいになる」を意味します。ルカ福音書では聖霊に「満たされる」という形では、1:15, 41, 67に。また使徒の働きでは、2:4、4:8、4:31、9:17、13:9で使われています。「ねたみに燃える」という表現も、「聖霊に満たされる」者と対峙するかのように置かれています(ルカ4:28/6:11、使徒5:17/13:45参照)。


いっぱいになる」という「ピムプレーミ」πιμπλημιは、ルカの特愛用語で、新約聖書で24回のうち22回がルカ文書にあります。その内訳は福音書が13回、使徒の働きが9回です。今回の5:1~11には出てきませんが、形容詞の「(聖霊に)満たされたπληρης」という表現もルカ独自の表現です。ルカ4:1には「聖霊に満ちたイエスは」とあります。使徒の働きにも、最初の殉教者となったステパノをはじめ、バルナバやパウロなど、聖霊に満ちた多くの人々が登場します。このように、かつては霊的に貧しかった者たちが聖霊によって満たされていくことを最も多く取り上げているのがルカなのです。解放が単に解放するだけでなく、新たな力によって満され続けて神の器として用いられる恵みこそ、真の解放と言えます。


2. 最初の弟子たちの明確な決断

  • ペテロが目の当たりにした驚きがまだ冷めやらぬ間に、イエスはペテロに対して(ペテロはここでは他の者たちの代表となっています)、「こわがらなくてもよい。これから後(今から)、あなたは人間(人々)をとるようになるのです。」言われました(5:10)が、「なるのです」は文法的にはBe動詞の「エイミー」ειμιの未来形、中態、直接法です。ですから、正確には「これから後(今から)、あなたは自分を人間をとる者にしていきます」という意味になります。
  • 「とる」と訳された動詞の「ゾーグレオー」ζωγρέωは「生け捕りにする、捕虜にする」という意味です。新約では2回しか使われていません。一つはここ。もうひとつはⅡテモテ2:26で、「悪魔に捕らえられて思うままにされている人々」を目覚めさせるために、反対する人たちに柔和な心で訓戒するように勧めています。悪魔に捕えられるよりも、神に捕えられる方が良いに決まっています。
    讃美歌333番1節にもあるとおりです。

    主よ、われをば とらえたまえ
    さらばわが霊は 解き放たれん

  • 人間を「生け捕りする」とは恐ろしい表現のようにみえますが、むしろここでは、決して殺したり傷つけたりすることなく、神の愛と恵みの中に取り囲むという意味だと考えるのがよいかもしれません。すでにペテロ自身がイエスによって彼をあるがままの存在して大切に生け捕られたのです。これから後。彼は神の器として、人々の見本として、神が彼を「人を漁る者」として作ってくださるのです。
    マルコ1:14とマタイ4:19では「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」とイエスは語っています。英語では

    Come, follow me, and I will make you fishers of men.

  • ルカでは「わたしについて来なさい。」というような招きのことばはありません。しかし、「今から、あなたは人々をとる人にされていきます。」(5:10)と語りかけています。彼らが自分で人を漁る者になるのではなく、イエスがそのような者に必ずする(I will make)という約束が隠されています。彼らの弟子としての召命(選び)は神の主権によるものであることがわかります。
  • ルカの福音理解は「アフェシス」άφεσις、解放です。敵に捕らえられてしまっている者たちを敵の手から生け捕りにして解放させていくことが福音なのです。そうした福音を宣べ伝えるためにペテロは召されたのです。大漁の奇蹟を経験することがなければ、ペテロや他の者たちの場合、「すべてを捨てて従う」ことはなかったかもしれません。しかも、11節の「捨てて」も「従う」もアオリスト時制が使われており、彼らをして生涯の1回的な明確な決断であったことが分かります。

2011.7.7


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