ルツの堅い決意
「ルツ記」の瞑想(改)の目次
1. ルツの堅い決意
聖書箇所 1章1~22節
はじめに
(1) みことばの真理のたとえとしての「ルツ記」
- ルツ記の物語―それは以下にあげる聖句のすばらしい註解とも言える物語です。
① 詩篇30:5
「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」② ローマ書8:28
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」③ ローマ書 11:33~36
33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。34 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。35 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。④創世記1章2節「地は茫漠として何もなく・・・」、
5節「夕があり、朝があった。」
(2) ルツ記物語のリズム感覚
- ルツ記の物語には、「夕があり、朝があった」(創世記1:5)というヘブル人の独特なリズム感覚が見られます。「時」に対するヘブル人の時間感覚は私たちの時間感覚とは異なっています。私たちは「朝があり、夕があった」という時間感覚でが、へブル人たちのそれは「夕があり、朝があった」という感覚です。前者は「朝」に起きて、自分の力で働き、努力し、成功するために頑張って生きています。しかしその結果はすべてが空しい「夕」に向かっています。「夕」とは光なき世界であり、「空の空」の世界です。そこには希望を見ることができず、究極は「死」です。多くの者が人生半ばで自ら死を選んだとしてもおかしくない世界です。しかし後者は「夕(夜)」の中で神と出会います。そしてその結果として「朝明け」を迎えます。その「朝」はまさに恩寵の世界です。希望の朝、解放の朝です。一日が夕暮れとともにはじまるというヘブル人の時間感覚は彼らの歴史認識においても、またものごとや生活のすべての領域においても大きな影響を与えているようです。
- 「夕があり、朝があった」のもう一つの考え方として、使徒パウロが理解したように、光が「やみの中から呼び出された」ことが考えられます(Ⅱコリント4:6)。このことについては、「牧師の書斎」にある「光についての神学的瞑想」のNo.1を参照。
(3) 隠された奥義としてのルツ記
- ルツ記は、飢饉のために神から与えられた嗣業を捨てることを余儀なくされてモアブの地に行かなければならなかったナオミの家族が、異邦の地モアブで夫を失い、二人の息子をも失ってしまった虚しい現実から始まっています。しかし神の不思議なはからいは、そうした虚しい現実の背後に隠されていました。だれがその神の計画を知っていたでしょう。だれひとりとして知る者はいませんでした。またこのルツ記の中には神の救いのご計画の奥義が隠されていたのですが、その奥義を知らされた使徒パウロはエペソ人への手紙3章3節以降で次のように述べています。
- 「この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。・・この奥義は、今は、聖霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスによって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」
―異邦人と神の選びの民イスラエル(ユダヤ人)との一体性、もしくは連帯性、一致こそ、神の救いの究極の目的なのです。「神の御住まいとなる教会」(エペソ2:20~22)についてはこちらをクリック。
1. ベツレヘムからモアブへ
- 皮肉にも「パンの家」を意味するベツレヘムから、飢饉から逃れるためにモアブの地に行ったエリメレクの一家。彼らはモアブに滞在しました。かつてアブラムが飢饉ためにエジプトに行ったのに似ています(創世記12:10)。いずれも、そこに一時的に滞在するつもりが、腰を据えて住んでしまうことになります。
- 1節の「滞在することにした」の「滞在する」ということばと、4節の「彼は約10年間、そこに住んでいた」の「住む」ということばの違いは、前者があくまでも一時的にとどまることを意味するのに対して、後者はそこにいることを余儀なくされてしまって、すっかり根を下ろして「定住する」という意味です。前者の「滞在する」は「グール」(גּוּר)、後者の「住む」の部分は二つの写本があるそうです。一つは「ハーヤー」(הָיָה)、もう一つは「ヤーシャヴ」(יָשַׁב)です。
- その間に夫のエリメレクと二人の息子が死にます。3節の「あとに残された」ということばと、5節の「先立たれてしまった」ということばの原語は同じ「シャーアル」(שָׁאַר)の受動態です。いわば、「取り残された」、「置き去りにされた」という何とも言えない寂寞感と虚無感を思わせる言葉です。
2. モアブからベツレヘムへ
(1) 「帰る」という語彙
- 6節以降、ナオミは二人の嫁を連れて帰郷しようとします。なぜなら、ナオミの故郷での飢饉は過ぎ去り、ナオミは故郷ベツレヘムの豊作のニュースを聞いたからでした。
- 6節から最後の22節まで「シューヴ」(שׁוב)という動詞がなんと11回も出てきます。
「帰ろうとした」(6節)、神の恩寵としての「顧みる」(6節)、「帰途につく」(7節)、「帰りなさい」(8節)、「(一緒に)帰ります」(10節)、「帰りなさい」(11節)、「帰りなさい」(12節)、「帰りなさい」(15節)、「帰るように」(16節)、「帰されました」(21節)、「帰ってきて」(22節)・・・これらはすべて「シューヴ」(שׁוב)という動詞です。
この「シューブ」(שׁוּב)は、ルツ記のもうひとつのキーワードである「ヤーシャヴ」(יָשַב)と同じ語根【שׁב】を持っています。つまり「帰る」と「住む」で、つながりがあります。詩篇23篇6節の新共同訳を参照のこと。
(2) オルパとルツに対するテスト
- ナオミは二人の嫁に対して、一度はモアブからベツレヘムへ一緒に帰りかけますが、ナオミは彼女たちのことを思い、また自分にとっても重荷となることを考慮し、彼女たちに自分の実家に帰ることを勧めます。3度目の「帰りなさい」というナオミの勧めに対して二人の嫁はそれぞれ決断しました。オルパは自分の実家に帰ることを決断し、ルツはナオミと一緒に行くことを決断します。
- 「帰りなさい」というナオミのことばが三度あってから、二人の嫁はそれぞれ自分の進むべき道を決断しています。「三度」という数は、ある意味でテスト、吟味、試される数で、そのあとある意味で納得するという意味が込められています。パウロが三度自分の「とげ」が取り去られるように主に願いました(コリント第二、12章)。ペテロは天からおろされた風呂敷の中にあったきよくない生きものをほふって食べよと言う幻を見て、主と問答するやりとりが三度ありました(使徒11章)。
- ルツ記1章14節に「オルパはしゅうとめに分かれの口づけをしたが、ルツは彼女にすがりついていた」とあります。「すがりついた」ルツに対してナオミはもう一度(四度目)「帰りなさい」と諭します。この四度目の後に、有名なルツの堅い決心が告白されています(16~17節)。それを聞いたナオミは「もうそれ以上は何も言わなかった」(18節)とあります。つまり、「4」という数字は聖書において完全な試みを経たことを意味するようです。たとえば、エジプトでの400年間の苦しみ、モーセが律法を賦与されるまでのシナイ山での40日間(イスラエルの民はそのふもとで待たなければならなかった)、約束の地の偵察の40日間、荒野での40年の放浪生活、イエスの荒野での40日間の試みにもあるように、です。
(3) ナオミにすがりついたルツーその出会いの神秘性―
- さて、ここでひとつの問いかけがあります。それは、なにゆえにルツはナオミにすがりついたのかということです。まずは、この「すがりつく」と訳されたヘブル語は「ダーヴァク」(דָּבַק)です。関根訳は「ルツは決して離れようとはしなかった」と訳しています。この「ダーヴァク」(דָּבַק)という動詞が聖書ではじめて登場するのは創世記2章24節です。その箇所では、男は女と「結び合い」という意味で使われています。「結び合う」とは、男と女のふたりが一体となることです。他にも、惹かれる、まといつく、離れない、つき従う、堅くくっつくという意味があります。
- 「すがりつく」ということばは、ルツ記第1章のキーワードと言えます。なぜなら、ルツのナオミに対するすがりつきはきわめて不思議なすがりつきで、ある種の神秘性を帯びています。このすがりつきが、ルツにとっても、ナオミにとっても、想定外の祝福と神の奥義をもたらすことになるのです。
- ナオミとルツとの出会いの神秘は、ルツがナオミの息子のマフロンの嫁となったことがそもそもの発端ですが、人間の思いをはるかに越えた出会いということができます。ルツのナオミに対する「すがりつき」は、ナオミの人間性と神に対する信仰面の二つの影響が十分に考えられます。この「すがりつき」は、ルツは自分がナオミについて行くことでナオミに迷惑がかかることを承知の上での「すがりつき」です。また、後にベツレヘムに帰ったときにナオミが故郷の人々に吐露する神への愚痴を聞いても決してひるまかったことにも表されています。
- 13節に「主の御手が私に下った」とありますが、これでは具体的なナオミの心情はわかりませんが、ナオミが故郷ベツレヘムに帰ってから、「まあ、ナオミではありませんか」と驚いた町の女たちに語ったことばの中に彼女の神への率直な思いが見て取れます。
「私をナオミと呼ばないで、マラと読んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。私は満ち足りて出ていきましたが、主は私を素手で帰されました。・・主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」
- ここには主が自分を不幸に突き落としたこと、災を下されたこと、つらい目に会わせたことを語っています。「つらいめに合わせる」と訳されたヘブル語はルツ記ではここ1箇所だけで、「ラーア」(רָעַע)というヘブル語が使われています。この「ラーア」(רָעַע)は「悪いことをする」という意味です。神は私に「悪いことをなされた」と言っているのです。これがナオミの真実な心でした。もしルツがナオミの表面的な部分だけを見て「すがりついた」としたなら、ここで確実につまずくはずです。ところが、ルツはナオミにつまずいていないのです。こうしたところに、私はルツがナオミにすがりついたことの不思議さを見るのです。つまり、ルツがナオミにすがりついたのは、神によって定められていたとしか言いようがありません。夫婦の出会いと同様、ナオミとルツとの出会いはきわめて宗教的な事柄―つまり自分のことでありながら、自分で操作できない事柄―であったということです。出会いの神秘性はルツ記の第2章において見る、ルツとボアズとの出会いにおいても言えることなのです。
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