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レント(受難週)の瞑想で得た三つの霊的「開眼」

5. レント(受難週)の瞑想で得た三つの霊的「開眼」 

はじめに

  • 今年のレント(受難週)で、私は初めて「イエスの最後の一週間」を31回の項目に分けて瞑想しました。瞑想の期間は、3/2から4/3までの1ケ月でしたが、かなりの集中力を要しました。その甲斐あって新たに気づかされたことが多くありましたが、その中でも以下に述べる三つの開眼は私の聖書の読み方や考え方を変えるものでしたー私の「イエスの最後の一週間」の瞑想は、私のHP『牧師の書斎』に記載してありますー。以下はその要点です。

1. 「主の食卓」と「主の晩餐」の違いの開眼

  • 「最後の晩餐」の項目で、私は「主の食卓」と「主の晩餐」の違いについて明確化されました。前者は私たちが「愛餐会」として経験していることで、後者は私たちが「聖餐式」として経験していることです。私は今回の瞑想を通して、主が制定された晩餐の順序―パンからぶどう酒という順序―の意味に気づかされました。ちなみに、主の食卓ではぶどう酒からパンという順序です。この二つの順序は、決して反対になってはいけないことを悟りました。
  • 「主の晩餐」のパンはキリストがからだをもたれたこと(受肉)を意味し、そのからだをもって神のみこころを実現することがきわめて重要だったのです。なぜなら、それはイエスが永遠の完全な一回的いけにえとなるためのものだったからです。どんな試練にあっても、どんな極限の苦しみの中にあっても、最後まで御父を信頼し、最後まで御父のみこころを貫くーそのためのからだでした。私たちはこのパンをいただくとき、イエスの苦難の生涯(特に、逮捕後のイエス)を思い起こすことが重要なのです。そして十字架上で流された血潮は、私たちの罪を赦し、神に近づけさせ、神の子としての特権を私たちに永遠に保証してくれるのです。

2. イエスが十字架上で語った「わたしは渇く」ということの開眼

  • イエスの十字架上で語られた七つのことばの第五番目ー「わたしは渇く」の開眼です。このことばは肉体的な渇きを意味するものではなく、御父のみこころを最後まで成し遂げたいというイエスの霊的な「渇き」です。私たちの行動を支配しているものは、すべてその背後に「渇き」があります。その「渇き」を癒すべく何かを求め、その渇きを満たすためにすべてのことをしていると言っても過言ではありません。
  • サマリヤの女性も取税人のザカアイも、それぞれ自分のうちにある「渇き」を満たすために、それなりの生き方をしていました。しかし、御子イエスのうちにある「渇き」の満たしは、神のみこころを成し遂げることによってのみ与えられるものでした。それは第六番目のことばー「完了した」ということばで、それが満たされたことがわかります。)死の直前に、イエスは「彼は自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」(イザヤ53:11)という預言を味わったのでした。御父を信頼するという壮絶な戦いの勝利でした。

3. 復活後に、イエスがペテロに語られたことばへの開眼

  • 三つ目はイエスがペテロに語られた「ヨハネの子シモン、あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」という問いかけです。新改訳、新共同訳も共に「この人たち以上に」と訳されていますが、この箇所は「この人たち以上に」ではなく、「これら以上に」と訳すべきだという人に出会いました。その人は山岸登師と永井直治師です。特に、永井氏が翻訳したものは「新契約聖書」として出版されています。
  • 彼らの指摘はヨハネの福音書を理解する上できわめて重要な指摘だと思います。というのは、「我とそれ」ではなく、「我と汝」ーこのかかわりこそヨハネのいう「永遠のいのち」だからです。このかかわりを、主がペテロに求められたのです。
  • 最後の章である21章は、後に書き加えられたものだと言われていますが、なぜ加えられなければならなかったかを考えなければなりません。この章が加えられたことで、ヨハネの福音書が一番言わんとするところに、いわば「要の石」(礎石)が置かれたことになります。そして、ペテロに対するイエスの問いかけは、私たちの生涯にも絶えず問い続けられていることに目が開かれたのです。分かっているつもりという思い込みが、真理への開眼を妨げているのかもしれません。

2010.4.22


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