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ローマにいるすべての聖徒たち

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No.6 ローマにいるすべての聖徒たち

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ベレーシート

  • 今回は、パウロが手紙を宛てたローマにいる聖徒たちの存在に目を留めてみたいと思います。

【新改訳改訂第3版】ローマ人への手紙 1章7節
ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。

画像の説明

  • ※原文を見ると、恵みと平安が・・「~の上に」という語彙はなく、「~に」とだけあります。

1. ローマの聖徒たちの存在

  • 第一の突っ込みです。そもそもパウロが一度も行ったことのないローマにいる聖徒たちとは、いったいいつ、どのようにしてクリスチャン(メシアニック・ジュー)となったのでしょうか。
  • B.C.2世紀以降、何人かのユダヤ人たちがローマの町に移り住むようになったようです。確かな資料によれば(ヨセフス『ユダヤ戦記』2:80)、B.C.4年、ヘロデ大王が死んだ直後の「ローマ在住のユダヤ人は8千人以上」と言われています。キリストの福音の宣教が始まった時には、すでにローマの町にはかなり多くのユダヤ人が住んでいたらしいということです。ただキリストの福音がいつ、どのようにして、ローマに届いたのかについては、謎です。使徒パウロのような正式な宣教者によって伝えられたのではないことは確かです。
  • その理由として考えられるのは、以下の二つです。

    (1) ペンテコステの聖霊降臨の時に(使徒2章)、「滞在中のローマ人たち」という表現があることから、ローマ人でエルサレムに旅行に来ていた者たちがいて福音にふれたと考えられること。

    (2) 「すべての道はローマに通じる」と言われているように、世界各地からローマに移り住む者たちがいたこと。事実、ポント生まれのアクラもローマに移り住んでいたこと。ポントは小アジア半島を越えて黒海沿岸の地域です。現在はトルコ。また、パウロの最初の伝道の働きで、最初にクリスチャンになったエパネトがローマに移り住んだこと。他にも、ローマ書16章にはパウロとかかわった人たちの名前が記されていることから、彼らがローマに移り住んだことが分かります。

  • ともかく、彼らのことを、パウロは「神に愛されている者、(神に)召された聖徒たち」と呼んでいます。実はパウロも同様です。この表現の中に、パウロ自身とローマにいる同信の者たちとを結ぶ共通項があります。「あなたがたも神に愛された者、私も同じく神に愛された者、・・・あなたがたも神に召された聖徒、私も同じく神に召された者」という意識でつながろうとしています。

2. プリスキラとアクラ夫妻との出会い

  • 今から二千年前のこと。女性の地位は低く社会的にも立場のない時代に、初代教会に活躍した女性として、聖書にはプリスキラの他に二名の女性が記されています。『紫布の商人でルデヤ』と『ドルカス』です。
  • 第二次伝道旅行と言われる時に、使徒パウロはコリントで「アクラとプリスキラ」と出会いました(使徒18章)。パウロがアテネでの伝道説教が不発に終わり、少なからず心に痛手を受けてコリントへやって来ました。アクラとプリスキラ夫妻も皇帝の勅令によってローマから追放されてコリントへやってきたのです。パウロにとっては「アテネ・ショック」、アクラとプリスキラにとっては「ローマ・ショック」、この共通のショックがコリントで出会ったというわけです。この夫婦は、なぜかすでに福音をローマで聞いており、キリスト信仰を持っていたのです。しかも彼らにはもう一つの共通項がありました。それは「天幕作り」です。そのことで彼らは一緒に暮らすことになります。夫婦はパウロを通して、福音の奥義を聞き、しっかりとした福音の土台について学ぶことができたのでした。特に、妻のプリスキラは聖書を教える賜物を与えられていたようです。パウロがコリントからエペソに移動する際、彼に同行し、エペソで彼らの家を解放して、福音を伝えていたようです。当時の伝道者アポロに対しても、福音を正確に教えたのです。
  • プリスキラという名前がスゴイです。ギリシア語では「プリスカ」(Πρίσκα)、ヘブル語では「ペリースキーラー」(פְּרִיסְקִילָה)と表記します。この名前には二つの語幹があって、一つは「パーラス」(פָּרַס)、もう一つは「カーラー」(קָלָה)です。前者は「パンを分ける」という動詞で、その名詞は「ひづめが分かれたもの」を意味します。つまり、神にとってきよい動物です。イェシュアを指し示す語彙です。後者の「カーラー」は「火で燃やす」という意味があります。「熱意、熱心、殉教」を意味します。事実、プリスキラとアクラはネロの治世に殉教したと言われています。そもそも彼女はパウロの語る福音のすばらしさに感動してパウロを支えただけでなく、パウロの語る福音を自らも教える同労者となりました(ローマ16:3参照)。また、パウロが「この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです」と言っていますから、二人はパウロのいのちの恩人でもあるのです(同、16:4)。
  • ちなみに、皇帝クラウデオがA.D.49年に出したユダヤ人退去令の内容は、ある歴史家の説によると「クレストスの指導のもとに絶えず反乱を起こすユダヤ人をローマから追放した」とあります。しかしこの勅令は生命まで危険にさらされるといった過激なものではなく、集会を禁じたようです。反乱の指導者クレストスという人物が何者なのかはっきりしたことはわかりませんが、おそらく「クリストス」、つまりキリストのことです。そのキリストのことで、ユダヤ人たちの間に相当の騒動が起こっていたため、皇帝の勅令によってユダヤ人たちがローマから退去せざるを得なくなったようです。そのことで、アクラとプリスキラはコリントに行ったようです。コリントは経済的に非常に繁栄した都市で、芸術など文化の程度も高く多くの外国人が流れ込んで来ていた、当時の国際都市でした。
  • ローマという国家は、建国以来、「寛容精神」によって異国の民をどんどん受け入れていった国です。ユリウス・カエサル、すなわちジュリアス・シーザーは『寛容政策』を一層拡大して、征服した民族にローマ市民権を与えていきます。一定の条件さえ受け入れればたいていの他民族は優遇されました。ところが、ユダヤ人だけはそうしたことがなかったようです。その理由としては、彼らが一神教であったということです。ローマ・ギリシアをはじめ、地中海周辺の民族は多神教です。複数の神々を拝むのに抵抗はありません。その神々も人間を神格化したもので、神と呼び信仰の対象とします。ところがユダヤ人は頑固なまでに一神教であり、神の律法に命をかけて生きている民です。それゆえユダヤ人は、いついかなるところにおいても、統治者にとって頭を悩ませる困った存在(やから)なのです。

3. パウロの挨拶―「恵みと平安があなたがたにありますように」

  • パウロの挨拶は、神の福音から来る彼が独自につくり出した挨拶です。「挨拶を申し上げる」とか、「よろしく」といった挨拶は、当時の挨拶でした。しかし、「恵みと平安があなたがたにありますように」はオリジナルな挨拶用語です。
  • 「恵み」と「平安」、ギリシア語では「カリス」(χάρις)と「エイレーネー」(εἰρήνη)ですが、ヘブル語にすると「ヘセド」(חֶסֶד)と「シャーローム」(שָׁלוֹם)です。この二つの語彙は神から与えられる「原因」と「結果」を表わしています。「ヘセド」は、神が約束したことに対する確固とした愛、ゆるぎない愛であり、不変の愛を意味していすます。そして、それによってもたらされるあらゆる祝福の総称をヘブル語では「シャーローム」で表わします。ですから、この「恵み」と「平安」は二つで一つの挨拶なのです。一方だけ切り離すことができないのです。
  • この時代、ローマでは「平安」が脅かされるような時代でした。いつ、捕らえられて、殺されるかも知れない時代に、このような挨拶をすることができたのは、御国の福音に対するゆるぎない確信によるものだと言えるのです。

新約聖書にある「恵み」と「平安」は、ペテロもヨハネも使っていますが、パウロの影響が強かったとも考えられます。


2017.2.2


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