****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ローマの兵士たちに暴行されるイェシュア


16. 午前7時~午前8時 兵士たちに暴行され、嘲弄されるイェシュア

【聖書箇所】
マタイの福音書27章27~31節、マルコの福音書15章16~20節
ヨハネの福音書19章1~3節

ベレーシート

●イェシュアが暴行を受けたり、嘲弄されるシーンはある人々に(特にクリスチャンたちに)拒絶感や嫌悪感を抱かせます。聖書はそのシーンを薄めることなく描いています。反対に、そうした壮絶な暴力的シーンに興味を持つ人々もいるかもしれません。いずれにしても、今回の箇所はとても重要な箇所です。なぜなら、イェシュアがメシアとしてご自身の血を流されるからです。

1. 血を流すことはメシアの必然

●もしイェシュアが血を流すことのない刑罰で死んだとすれば、彼はメシアではなかったことになります。イェシュアがメシアであるためには、ご自分の血を流さなければなりません。単なる苦しみや痛みを経験するだけでは済まないのです。

●イェシュアは最後の晩餐で「新しい契約」を弟子たちと結ぼうとされました。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」(マタイ26:27〜28)と言われました。「この杯から飲む」とは、イェシュアの流される血を受け取ることを意味します。この血を受けるためにはイェシュアのからだが裂かれる必要があります。

●私たちはイェシュアの十字架で流される血潮をイメージしますが、イェシュアの血潮の多くは、ローマの兵士たちによって「むち打たれ」「いばらの冠をかぶせられ」ることで流されたものです。十字架でも、両手にくぎ打たれたその傷からも血が流れ出たと思われます。それらの血こそ私たちの罪を赦す力をもっているのです。イェシュアは過越の祭りの日に、神の子羊として血を流す必然性がありました。そのために血を流させる役割を担ったのはローマの兵士たちであり、彼らの力任せによるリンチです。彼らは総督ピラトに命じられて、イェシュアを「むち打って」います(マタイ27:26、マルコ15:15、ヨハネ19:1)。

●ローマの「むち打ち」は残酷きわまりない過酷なものでした。そのむちとは、皮でできた多くの紐の先に、鉛や骨を埋め込んだもので出来ています。一発の「むち打ち」だけでも皮膚も肉も裂かれてしまいます。何度打たれたかは記されていませんが、多くの血が流されたはずです。さらには、いばらの冠を頭にかぶせられることでも血は流れ出ます。特に、頭から流れる血はなかなか止まりません。十字架にかかる前の段階で、多くの出血があったと考えられます。そうしたシーンから目を背けてはならないのです。なぜなら、罪なきイェシュアのからたが裂かれて、そこから流れ出る血潮が私たちのすべての罪をきよめ、赦す力を持っているからです。驚きと感謝をもってその「杯」を受け取るべきなのです。

2. 「いばらの冠」に込められた神の秘密

●イェシュアの語ることば、そして行いの一つひとつがすべて深い意味を持っていますが、イェシュアの周辺にいる人々の取る行動の中にも(本人が分からずとも)、神の深い秘密が隠されています。その一つが「いばらの冠をかぶらせること」です。これはローマ兵がイェシュアを嘲弄する行為としてしたことです。

●なぜ「いばらの冠」なのか。突っ込まずには答えは得られません。「いばらの冠」がかぶせられて血が流れることで十分なのですが、「いばら」であることにより深い意味があるのです。

●「いばら」と訳されたギリシア語は名詞で「アカンサ」(ἄκανθα),形容詞で「アカンスィノス」(ἀκάνθινος)です。これは「とげのある雑草」一般を意味する語彙です。とげのある雑草で冠を編むというのはここでは不自然です。とげのある枝で冠を編むとすれば、「アカンサ」ではカバーできない「木」ということになります。ちなみに、ヘブル語で「いばら」という語を検索すると13件ヒットしますが、ギリシア語で「いばら」という語を検索すると、すでにあげた「アカンサ」か「アカンスィノス」しかヒットしません。ですから、聖書の「いばら」はギリシア語では意味をなさないことが分かります。ギリシア語の「いばら」はすべて呪われたものの象徴です。

●イスラエルの「いばら」で冠を作るにふさわしい候補としては、ヘブル語の「アータード」(אָטָד)が挙げられます。これは地に陰をつくるほど大きくなる木で、枝に多くのとげを持っているようです。旧約聖書では4箇所でしか使われていません。

(1)「ゴレン・ハ・アタデ」の葬儀
【新改訳改訂第3版】創世紀50章10節
彼らはヨルダンの向こうの地ゴレン・ハアタデに着いた。そこで彼らは非常に荘厳な、りっぱな哀悼の式を行い、ヨセフは父のため七日間、葬儀を行った。

●ヨセフは父ヤコブをヘブロンにあるマクペラの墓地に葬るために、エジプトから出発して「ゴレン・ハアタデ」で壮大な葬儀をしたことが記されています。「ゴレン」は穀物の打ち場(打穀場)を意味する「ゴーレン」(גֹּרֶן)。「ハアタデ」は冠詞の「ハ」(הַ)に、いばらを意味する「アータード」(אָטָד)を合わせ持った地名です。つまり、「ゴレン・ハー・アータード」(גֹּרֶן הָאָטָד)という場所は、大勢の人々がそこで一週間も葬儀をするくらいですから、木陰を造るような比較的大きな木(枝にとげをもつ)があり、打穀場として風通しの良い場所という意味であろうと推測します。

(2) いばらの木
【新改訳改訂第3版】士師記9章14~15節
14 そこで、すべての木がいばらに言った。『来て、私たちの王となってください。』
15 すると、いばらは木々に言った。『もしあなたがたがまことをもって私に油をそそぎ、あなたがたの王とするなら、来て、私の陰に身を避けよ。そうでなければ、いばらから火が出て、レバノンの杉の木を焼き尽くそう。』

●ここで登場する「いばら」に例えられているのは、自分の兄弟70人を殺したアビメレクです。周囲の国の「来て、私たちの王となってください」との依頼に対して、いばらは「わたしを王とするなら、来て、私の陰に身を避けよ。でなければ、いばらから火が出て・・を焼き尽くそう」と語っています。

画像の説明

いばらの冠.JPG

●これらはある意味で預言的です。創世記では、いばら(「アータード」אָטָד)、つまり枝にとげを持つ木は身を避けることのできる木陰をもつ大樹であること。士師記のいばらは、王である者の陰に身を避けよという招きであり、その招きに応じるのでなければ、いばらから火が出て、やがて焼き尽くされてしまうということです。イェシュアの頭にかぶせられたいばらの冠には、そうした預言的なメッセージが含まれているように思います。ローマの兵士たちが知らずにした嘲弄的行為の中に、神のメッセージが秘められているのです。

●イェシュアの頭にいばらの冠がかぶせられている絵は、なんとも痛々しいものです。しかしそうした主観的な思いを捨て去って、イェシュアご自身がこの私のために血を流すという神の必然があったことを心から感謝し、キリストの花嫁として深く心に刻みたいと思います。

2015.3,26


a:4671 t:42 y:2

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional