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ローマへの旅(2) マルタ島からローマへ

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43. ローマへの旅(2) マルタ島からローマへ

【聖書箇所】 28章1節~15節

ベレーシート

画像の説明
  • 「使徒の働き」の最後の章です。この28章を二つの部分(1~15節と16~31節)に分けて味わいたいと思います。前者はマルタ島に漂白したバロウが無事、ローマへと到着するその過程における神の不思議な導きであり、後者はローマでのパウロの生活その働きについてです。
  • また新改訳聖書では、この28章には二つの部分のそれぞれに「こうして」ということばが二回ずつ使われています(1節、14節、25節、30節)。1節には「トーテ」(τότε)、そして14節には「オフュトー」(ούτω)という副詞が使われていまする。25節と30節では「デ」(δέ)という接続詞が使われています。特に、1節と14節の副詞は、そこへ至るまでのプロセスにおいて何があったのか、どのようにしてそこへ至ったのかが前提とされています。ここでは、14節の「こうして」という副詞の内容について、そこに想定外の神の導きがあったことに注目したいと思います。

1. 神の導きの中にある「人々による好意」というファクター

(1)「こうして」構文
「こうして」とあるからには、その背景にさまざまな神の導きがあったことを示唆しています。人間的には全く予想外的な導きであったに違いありません。そのような不可思議な導きの中で「私たち」は、ローマにたどり着くことができた(到着した)とあり、そこには神の導きに対する万感の思いがあったと思われます。28章1~14節にはそれを表す特徴的なことばが見られます。

(2) マルタ島民からの「好意」(厚意)を表す語彙

① 2節a・・島の人々は「非常に親切にしてくれた
親切を「提供する、差し出す」(未完了)、「パレコー」(παρέχω)
② 2節b・・島の人々は「私たちをみなもてなしてくれた
家に「招き入れた」アオリスト中態、「プロスランバノー」(προσλαμβάνω)
③ 7節a・・・彼は私たちを「招待して(くれた)」
客として「招待する、泊める」アオリスト、「クセニゾー」(ξενίζω)
④ 7節b・・・「手厚くもてなしてくれた
手厚く「もてなす」分詞アオリスト中態、「アナデコマイ」(άναδέχομαι)
⑤ 10節a・・・私たちを非常に「尊敬してくれた
深い敬意をもって私たちを「尊敬する」アオリスト、「ティマオー」(τιμάω)
⑥ 10節b・・・「用意してくれた
「提供してくれた」アオリスト中態、「エピティセーミ」(έπιτίθημι)
⑦ 15節・・・・「出迎えに来てくれた
出迎えに「来てくれた」アオリスト、「エルコマイ」(έρχομαι)

  • 文法的に動詞がアオリスト時制であることが分かります。この「アオリスト」はギリシャ語特有の表現で「不定過去」とも言われます。時間的な意味での過去を意味しますが、それ以上に、単なる過去という時制だけでなく、そのときだれかがした行為の特殊性を表現しています。それを日本語では「~してくれた」と訳しています。単に「~した」と過去の行為ではなく、どんな思いでそれがなされたのか、その様相を表す語法です。
  • 2節に島の人々は「非常に親切にしてくれた」は未完了です。つまり繰り返し々親切にしてくれ続けたことを意味しています。それは外部の者に対する島民の心の性質を表しています。しかしその島民の親切さはいろいろな形を取りはじめます。それがアオリストで表わされていることです。つまり、「彼は私たちを招待した」「手厚くもてなした」ではなく、「招待してくれ」「手厚くもてなしてくれた」のです。そこに相手の心が現わされています。
  • パウロは、思いがけない人々から、ただならぬ、おどろくほどの、ひとかたならぬ、並々ならぬ、思いがけない善意や親切、好意を受けています。27章でも、百人隊長ユリアスが囚人パウロに対して好意的であったことを記しています。パウロは敵も多かった人ですが、人一倍、人から多くの好意を受けた人でもありました。しかも、そうした人からの好意が、神がパウロに与えたローマ行きという約束が実現するために必要不可欠なものであったことを聖書は記しています。神のご計画の中に「人からの好意」が用いられているということです。

(3) パウロの島の人々に対する好意

  • パウロは島の人々から多くの好意を受けましたが、それに対してパウロがしたことは、8節にあるように、「島の首長であるポプリオの父」のために手を置いて直してやったことでした。

    28:8 たまたまポプリオの父が、熱病と下痢とで床に着いていた。そこでパウロは、その人のもとに行き、祈ってから、彼の上に手を置いて直してやった。

  • 「直してやった」と訳された言葉は「イアオマイ」(ίαομαι)のアオリスト中態です。「イアオマイ」は、「いやす」という意味ですが、単に「いやした」のではなく、パウロは特別な思いで「いやしてあげた」、つまり、「直してやった」のです。そして、このことがあってから、パウロは島にいる他の病人にも直してあげたようです。

2. 果たして、まむしはパウロの「手を咬んだ」のか、「手に絡み付いた」のか

【新改訳改訂第3版】使徒の働き28章4~6節

4 島の人々は、この生き物がパウロの手から下がっているのを見て、「この人はきっと人殺しだ。海からはのがれたが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだ」と互いに話し合った。
5 しかし、パウロは、その生き物を火の中に振り落として、何の害も受けなかった。
6 島の人々は、彼が今にも、はれ上がって来るか、または、倒れて急死するだろうと待っていた。しかし、いくら待っても、彼に少しも変わった様子が見えないので、彼らは考えを変えて、「この人は神さまだ」と言いだした。

  • 上記の箇所を読んで、果たしてパウロはまむしに手を「咬まれた」のか、それとも「咬まれなかった」のか。事実は一つであるはずです。医者であったルカもこの時パウロに同行しているのです。さて、果たして答えはどちらでしょう。
  • その答えに対して、いろいろな聖書は何と訳しているのかを見てみましょう。

    【順不動】

    新改訳第二版  「手に取りついた」
    新改訳改定第三版「手をかんだ」
    口語訳     「手にかみついた」
    新共同訳聖書  「手に絡みついた」
    柳生訳     「手にかみついた」
    岩波訳     「手に咬みついた」―注釈には「あるいは、からみついた」
    フランシスコ会訳「手にかみついた」
    回復訳     「手に巻きついた」
    文語訳     「手につく」
    エマオ訳    「手に咬み付いた」
    泉田昭訳    「手に咬みついた」
    バルバロ訳   「手に食いついた」
    新和訳     「手に絡みついた」
    【KJV】     hang on his hand
    【NKJV】    hanging from his hand
    【NIV】     hanging from his hand

  • 原語は「カサプトー」(καθάπτω)は、新約聖書では1回限りの語彙です。したがって、この語について他の箇所を参照するということができません。果たして、まむしがパウロの手をどうしたのか、事実はひとつであるはずです。翻訳者がそれぞれ文脈から判断して訳しているのを見ることができますが、ご覧のように、全く二つの解釈に分かれています。尤も、ここは真理といった重要な問題の箇所ではないかもしれませんが、聖書翻訳の難しさを感じさせる箇所です。


2013.10.31


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