****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

不思議な雲による旅立ちと宿営

文字サイズ:

民数記の目次

7. 不思議な雲による旅立ちと宿営

【聖書箇所】 9章1節~23節

はじめに

  • 民数記9章には二つの事柄が扱われています。ひとつは、出エジプトから解放された後の最初の「過越」の祭りのことです。もうひとつは、イスラエルの民の宿営と旅立ちのことについてです。後者は、実に不思議な「雲」がイスラエルの民を導いて行きます。

1. 過越の祭りはすべてのイスラエル人が参加すべきとする神の御旨

  • 「過越のいけにえをささげる」というイスラエルの民に定められた祭りを行うことをモーセは主から告げられ、それを民に命じました。ところが、「身を汚して」宿営の外に追い出されていた者たち(民数記5章1~4節)が、この主の定められた時に自分たちは参加できるのか、できないのか、打診されたのです。
  • なぜなら、この祭りはすでに永遠のおきてしとて代々にわたって守ることが定められていたからです(出12:17)。このとき、モーセはこの場合について主からの示しを受けていませんでした。ですから、モーセは「待っていなさい。私は主にあなたがたについてどのように命じられるかどうか聞こう」と言って、主に尋ねました。すると、主の答えは、汚れている者もすべて過越のいけにえをささげるようにということでした。もし、そうしない者がいるならば、そ者はイスラエルの民から断ち切られなければならないとも言われているのです。。
  • ここで教えられることはモーセの態度です。民からの質問に対して、自分の憶測で答えることをせず、すべて主にうかがったという点がまさに彼が「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」(民数記12:3)と聖書に記されたことの所以かもしれません。自分の無知を恥じることなく、主に聞いたり、あるいは自分でも調べたりすることは霊的な指導者にとってとても大切なことであろうと思います。その意味ではモーセはすべての指導者の模範と言えます。
  • ちなみに、「過越の祭り」について、聖書が記録しているのは、回数としては驚くほど少ないのです。最初はエジプトにおいて、第二回目はここシナイの荒野において、そして次に行われるのは、なんと40年後の約束の地に入ってすぐ、カナンの地(ギルガル)において行われました。次は、それから5百年後のソロモンの治世の後半において、さらにヨシヤ王の改革の時(B.C.637年)、最後はエズラの時代に神殿が再建された時です。
  • 過越の祭りを行うということは、イスラエルの民が神の民のとしてのアイデンティティを確認するためのものでした。今日の教会においては、主イエスが制定された「聖餐式」がそれに相当します。そうした大切な祭りが、旧約の歴史において(約千年の間に)、わずか6回しかその記述がないというのはある意味で驚くべきことです。

2. まことに不思議な「雲」による宿営と旅立ち

画像の説明
  • 民数記9章18~22節では、イスラエルの民の荒野の旅は、民の前進も停止もすべて主が「雲」を通して導かれたことが強調されています。この箇所には12回(新改訳、原語では11回)「雲」という語彙が使われています。「雲」というヘブル語は「アーナーン」עָנָןです。旧約では88回。出エジプト記と民数記ではそれぞれ20回ずつ使われています。
  • 「旅立った」と「宿営した」の二つの動詞は民数記の特愛用語です。「旅立った」と訳されるヘブル語は「ナーサー」נָסַעです。本来は「天幕の杭を引き抜く」という意味で、出発する、旅立つ、移動するという意味になります。旧約146回のうち、民数記は89回使われています。もうひとつの「宿営した」と訳されるヘブル語は「ハーナー」חָנָהです。本来は「(陽が)傾く、野営する、天幕を張る」という意味で、そこから「とどまる」という意味が派生しています。旧約143回のうち、民数記では74回も使われています。

(1) 神の臨在を象徴する「雲」

  • 昼間には日陰となる「雲」、夜は火のように輝く「雲」、それは実に不思議な雲です。ずっと動くことなくとどまっている雲など、この世には存在しません。雲はたえず動いており、どんなに曇っていてもやがては晴れます。そのたびに移動していたとしたら、気まぐれな雲の動きに翻弄されて疲れてしまいます。しかし、神の臨在を象徴する「雲」は灼熱の太陽を覆って身を守ってくださるだけでなく、出発や移動を促す「時」を知らせる役割もあったのです。この雲はまっすぐに立っており、「雲の柱」と呼ばれています。「柱」は「アムード」עַמּוּדで「雲の柱」「火の柱」として民を守り導きました。

(2) 主との親しい交わりを象徴する「雲」

  • シナイ山を覆う雲は、主との交わりへと招くしるしでもあります。出24:15~18にはこうあります。

15 モーセが山に登ると、雲が山をおおった。
16 主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。・
18 モーセは雲の中にはいって行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。

  • 主はモーセを雲の中から招きました。そしてモーセその雲の中に入って40日間、主との親しい交わりをする機会に恵まれたのです。神の臨在の象徴である雲の中に入ることは、神との親しい交わりに招かれるしるしなのです。
  • 新約時代において、神の臨在の雲の記述があります。それはイエスが弟子たち三人(ペテロ、ヨハネ、ヤコブ)を連れてヘルモン山に登った時のことです。ルカの福音書9章34~35にはこうあります。

    34 彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなった。
    35 すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

  • 三人の弟子たちは、このとき雲(「ネフェレー」νεφέλη)の中で、御子について語られる天の父の声を聞いたのです。

最後に

  • 雲の導きによってただちに「旅立つ」ことは、ある意味で変化のある楽しい時かもしれませんが、いつ動くともなくじっとある場所に「宿営する」(とどまっている)ことは、ある人にとっては苦痛かもしれません。しかし、主にある者たちの歩みにおいては、「とどまる」ことをしっかりと学ぶ必要があるのです。なぜなら、イエスはしばしば弟子たちにそのことを強調して教えられたからです。「わたしにとどまっていなさい」と。それは神の臨在の雲の中で主との親しい交わりのときを過ごすことなのです。そこから新たな新鮮な旅立ちがはじまるのです。

2012.1.24


a:4175 t:2 y:2

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional