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主から来る知恵はあなたの歩みを守る

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箴言は「父から子への知恵」、主にある家庭教育の根幹を学ぶ最高のテキストです。

5. 主から来る知恵はあなたの歩みを守る

【聖書箇所】2章13〜22節

ベレーシート

  • 主の知恵を、銀のように「捜し」、隠された宝のように「探り出す」なら、主が知恵を与えるとあります(2:4)。このことはきわめて重要なことで、知恵を授けるのは主であるということです。しかもその知恵を与えるのは、「わが子」に対して、すなわち、「正しく歩む者たち」(「正しく」の原語は「トーム」תֹם)に、あるいは、主の「聖徒たち」(新共同訳は「主の慈しみに生きる人」)に対して、「悪の道」「ねじれごとを言う者」から「救い出す」ために、盾となって「守る」ことだとしています(2:7~12)。
  • 「悪の道」とは「やみの道」ですが(2:13)、「ねじれごとを言う者」の「ねじれる」の動詞「ハーファフ」(הָפַךְ)は「ひっくり返す」ことを意味します。つまり、「ねじれごとを言う者」とは、主の知恵による歩みとはまったく逆方向のことを言う者であることを意味します。そうした歩みから救われるためには、主から来る知恵が不可欠であると、父が「わが子」に教えようとしているのです。

1. 「やみの道に歩む者」の特徴

  • やみ」(「ホシェフ」חֹשֶׁךְ)の道に歩む者の特徴が13〜15節に記されています。

    【新改訳改訂第3版】箴言2章13〜15節
    13 彼らはまっすぐな道を捨て、やみの道に歩み、
    14 悪を行うことを喜び、悪いねじれごとを楽しむ。
    15 彼らの道は曲がり、その道筋は曲がりくねっている。


    ●「捨て」と訳された「アーザヴ」(עָזַב)の初出箇所は、創世記2章24節の「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる」にある「離れ」です。「一体となる」という目的のために「離れ」なければならないのですが、そのためには、意識的に父母を「離れる」という決意が必要なのです。しかもこの箇所は神の永遠のご計画における「奥義」です。この神のご計画をひっくり返すように、「やみの道に歩」もうとして敢えてまっすぐな道を「捨てる」、これが「やみの道に歩」む者の特徴なのです。

    ●ヨハネの福音書に「悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」(3:20)とありますが、それは、彼らが「悪を行うことを喜び、悪いねじれごとを楽し」もうとするからです。「喜ぶ」も「楽しむ」も、その語彙は自発的な意志によるものです。特に、「楽しむ」と訳された「ギール」(גִּיל)は「こおどりし、歓喜する」ことを表わしています。ただ、ここで注意しておかなければならないことは、「悪を行うこと」や「悪いねじれごと」はあくまでも神の視点から言われている表現で、人の目にはそのようには写っていないということなのです。このことは、後でも触れる「この世の知恵」と「神の知恵」についても言えることなのです。同じ「知恵」という言葉が使われていたとしても、その意味することは真逆なのです。

    ●14節の「ねじれごと」(複数)と訳された「タフプーハー」(תַּהְפּוּכָה)は箴言の特愛用語です。10回のうち、9回が箴言で使われているからです(2;12, 14/6:14/8:13/10:31, 32/16:28, 30/23:33)。心の中に、神に対するよこしまな暴言を隠し持っていることを意味します。


2.「やみの道]に歩むことの実際とその警告

【新改訳改訂第3版】箴言2章16〜19節
16 あなたは、他人の妻から身を避けよ。
ことばのなめらかな、見知らぬ女から。
17 彼女は若いころの連れ合いを捨て、
その神との契約を忘れている。
18 彼女の家は死に下り、その道筋はやみにつながる。
19 彼女のもとへ行く者はだれも帰って来ない。いのちの道に至らない。


●16節の新改訳を見ると「あなたは、他人の妻と姦淫してはならない」という意味で訳されています。しかし原文では、16節と12節は全く同じ構文で、12節が「悪の道からあなたを救い出すため」とあり、16節も「他人の妻(よその女)からあなたを救うため」となっていて、主が知恵を与え(授け)るのはその目的のためだということを明らかにしています。

●この「他人の妻(よその女)」とは「若いころの連れ合いを捨てた」(新改訳)女のことであり、また「ことばのなめらかな、見知らぬ女」のことです。主の知恵の賦与は、その女から身を守るためにであり、実際的にはその女に近づくことなく、身を避けるように警告しています。ここでの「他人の妻」(よその女)には、文字通りの意味と、象徴的な意味合いがあると思われます。文字通りとは「離婚した女」であり、象徴的とは「主からの知恵を持たない者」を意味しているように見えます。なぜなら、「彼女の家」に行くことは、「死に下る」ことであり、「その道筋はやみ(=死者の霊のところ)につながる」としています。そして、極めつけは「彼女のもとへ行く者はだれも帰って来ない。いのちの道に至らない」と断言しています。だから、「あなたは良い人々の道に歩むために、正しい人々の道を守るがよい」(2:20原文)と勧告しています。

●主の知恵が与えられることは、自動的に正しい道を歩むことにはなりません。知恵は真実を教えて正しい道を歩むことをうながしますが、最終的には人の決断的意志が求められているのです。


3.使徒パウロが語った「神の知恵」と「この世の知恵」

  • 「他人の妻(よその女)」は、パウロのいう「この世の知恵」とも言えるのではないかと思います。使徒パウロはコリント人への手紙2章で「この世の知恵」と「神の知恵」を明確に分けています。まずはその箇所を見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】 Ⅰコリント2章4~10節
4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。
5 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。


●この箇所に出てくる「知恵」はすべて「ソフィア」(σοφία)というギリシア語です。ことばが同じであったとしても、「この世の知恵」と「神の知恵」があり、それらは「信者と不信者」「正義と不法」「光と暗やみ」「主の宮と偶像」と同様、両者にはどんなつながりも、どんな交わりも、何の一致もない、全く異質なものなのです。パウロは「この世の知恵」と「神の知恵」がそれと分かるように、形容詞をつけてその違いを示そうとしています。

(1) 「この世の知恵」
①「説得力のある知恵」
②「支配者たちの知恵」

(2) 「神の知恵」
①「成人(=成熟した者たち)の間で語られる知恵」
②「隠された奥義としての知恵」
③「御霊によって啓示された知恵」
④「神が、世界の始まる前から、あらかじめ定められた知恵」

●「神の知恵」は、この世の支配者たちにはだれひとりとして悟ることができません。それがそこに存在していても「悟る」ことができないのです。それは「神の光」があってもその存在を悟ることができないことと同様です。「知恵」と「光」とは、聖書においては同義語です。その証拠に、それらはいずれも隠されているからです。

●また、「神の知恵」は御霊によって啓示されなければ悟ることはできません。御霊の啓示を受けるためには、イェシュアを神の子として、約束されたメシアであることを受け入れなければなりません。それまでは「神の知恵」はだれの目にも隠されているのです。パウロも「天からの光」にあずかるまではこの「神の知恵」について知りませんでした。しかし霊の目が開かれてからは「隠された奥義」を悟ることができたのです。目からうろこのようなものが落ちるまでの「三日間」は、私たちの何年分、あるいは何十年分に相当するものであったと言えます。彼のうちに蓄えられた聖書の知識のピースが一つの絵のように見え始めたのです。

●「神の知恵」、および「主の光」とは、神の御子にある(御子による、御子とともにある、御子のための)神のご計画の全体像です。パウロはそのことを、「みこころ」「みむね」「ご計画」「目的」「世界の基の置かれる前から、あらかじめ定められていたもの」という言葉で表しています(エペソ書1章)。すでに御子によって「神の知恵」はこの世に啓示されたのですが、「この世の知恵」はそれについて、「見えず、聞こえず、思いもよらず」、悟ることができないのです。

●「わが子」と呼びかける父(天の御父)は、この「神の知恵」を価値ある宝として求め続けて、捜し出して、それを受けるようにとうながしているのです。奥義としての神のご計画の全貌を知ることこそ、神を知ることだからです。


4. 神の知恵とこの世の知恵の行き着くところ

  • 箴言2章の最後のことばは「神の知恵」と「この世の知恵」の行き着く所を描いている重要な箇所です。

【新改訳改訂第3版】箴言2章21~22節
21 正直な人は地に住みつき、潔白な人は地に生き残る。
22 しかし、悪者どもは地から絶やされ、裏切り者は地から根こぎにされる。

  • この箇所は預言的です。なぜならここに記されていることが地上で現実となる時が来るからです。その時とは、神の知恵そのものである方が、メシアとして地上再臨される時です。この神の「終わりの日」の現実を信仰によって見据えるところから、聖書のすべてが理解できるようになるのです。サタンはこのことを悟られるのを最も恐れているのです。終末論の混乱は偽りの神であるサタンの策略です。その策略に屈することなく、知恵と啓示の御霊によって、私たちに与えられている「御国の福音」がいかにすばらしいものであるか、そこに備えられている栄光の富がいかに測り知れないものであるか、さらに心の目が開かれるために祈り続けなければなりません。パウロの宣教の情熱は、そのことに目が開かれた結果であることを、私たちは心に深く留めなければならないと思います。というのは、単なる人の熱意だけではこの務めを果たすことはできず、次の世代にこの務めの重大さを教え伝えることもできないからです。

2015.10.24


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