主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見る
46. 主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見る
【聖書箇所】52章1~12節
ベレーシート
- 52章は、三度目の「目覚めのテーマ」で始まります。ここは預言者イザヤが主のことばをシオン(エルサレム)に向けて語っています。ここにはエルサレムの終末的な黙示が語られています。
1. 主が「王となって」シオンに帰られるから
- なにゆえに、シオン(エルサレム)は「美しい衣を着よ。・・ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け」と命じられているのでしょうか。それは、主が王として廃墟となったシオンに帰られるからです(8節)。この知らせこそ「良い知らせ」の内容です。主が王となってシオンに帰られるならば、「無割礼」の汚れた者(異邦人のこと)が、シオン(=エルサレム)に入って来ることはないからだとしています。歴史の中でエルサレムが異邦人によって蹂躙された時は、バビロンの捕囚の時とA.D.70年のローマ軍による破壊の時、そして、終わりの日の反キリストによる大患難の時です。主が王となってシオンに帰られることはこれから起こる出来事であり、キリストの再臨の時です。
- 3節の「あなたがたは、ただで売られた。だから、金を払わずに買い戻される」とはどういう意味でしょうか。「エルサレム」はバビロン軍によって破壊されましたが、それは主がただで売ったからです。ただで売ったのは主で、しかもただで買い戻されるのも主であるということは、すべてのことが主の主権性によってなされていることが示されていると言えます。エジプトで寄留したことも、アッシリヤによってエフライム(北イスラエル)が離散したことも、すべて主の主権によって起こったことです。エジプトもアッシリヤも、そしてここに名前はありませんがバビロンも、すべて主の道具として用いられたにすぎませんが、主の名は一日中絶えず彼らに侮られているのです。それゆえ、主はご自身の名のために立ち上がられるのです。そして、「その日」には「わたしの民はわたしの名を知るようになる」のです。
- 「その日」とは、イザヤ書においては終末を表わす重要な用語です。「その日」には、廃墟となっているシオンに主が王として帰られるのです。このことが主の民にとっての慰めであり、贖いなのであって、「良い知らせ」そのものなのです。それゆえ、「その日」は、まさに爆発的な喜びが湧き上がるときです。
- 「その日」には、51章9節で預言者イザヤが「主の御腕」に対して、「さめよ。さめよ。力をまとえ」と語ったことが実現するのです。
【新改訳改訂第3版】イザヤ書52章10節
【主】はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現した。
地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。
2. 「良い知らせを伝える者の足」
- イザヤ書52章7節は、私の召命において与えられたみことばの一つです。このみことばは使徒パウロがローマ人への手紙10章15節で引用しています。
【新改訳改訂第3版】イザヤ書52章7節
7 良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。
【新改訳改訂第3版】 ローマ人への手紙10章13~15節
13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。
14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
※LXX訳は「美しい」(「ナーヴー」נָּאווּ)を「アガソス」(ἀγαθός)と訳し、日本語は「りっぱな」と訳して価値あるものとしています。
- イザヤ書52章7節は「なんと美しいことか」(「マー・ナーヴー」מַה־נָּאווּ)で始まっています。「美しい」と訳されたヘブル語は動詞「ナーアー」(נָאָה)の強意形ピエル態です。良い知らせを伝えるためには、「足」(原文では「両足」)が重要でした。聖書の中でしばしば全力疾走をして知らせを伝えた例があります(Ⅰサムエル4:12、Ⅱサムエル18:19, 26)。イザヤ書52章の神からの良い知らせの内容は「平和」「幸い」「救い」、そして「あなたがたの神が王となる」というものです。原文では「王となった」という預言的完了形が使われています。そうした良き知らせを伝える者の足は、「なんと美しいことか」、「なんと麗しいことか」と預言者イザヤが語っているのです。
- どんなに良い知らせがあったとしても、それを伝える人がいなければ何にもなりません。この「伝える人」が「足」に例えられています。使徒パウロは「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のに、その「主の御名」について「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。」と言ってイザヤ書52章を引用しています。伝える者は神に遣わされる者でなければなりません。その遣わされる者(単数)は伝えるべきことを正しく把握していなければなりません。主とその方のメッセージを伝える者との麗しいかかわり、愛と信頼の美しいかかわりが、ここでは「足」に例えられて、その「足」が「りっぱなこと」として評価されているように思われます。しかしその評価の背景には、良い知らせを伝えることが必ずしも容易なことではなく、むしろ苦難を伴うことを知っている者がこのことを語っているということを念頭に置く必要があります。
- イェシュアが十字架にかかられる前にベタニヤの村に滞在されました。晩餐の席で、「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。」(ヨハネ12:3)とあります。家は香油の香りでいっぱいになりました。イェシュアの語ることばを悟ったマリヤは、イェシュアの葬りのためにそれを取っておき、足に塗ったのでした。ちなみに、マルコ14章3節ではイェシュアの頭に注いだとあります。香油を「頭に注いだ」とは、イェシュアが「メシア」であるとの告白的行為であり、それを「足に塗った」とは、イェシュアこそ「良い知らせを伝える者」であることの告白的行為とも言えます。
- イザヤ書52章にある「良い知らせを伝える者の足」(単数)の本義的存在は、まさに神の御子イェシュアであると言えないでしょうか。「あなたがたの神が王となる(なった)」という御国の福音はイェシュアによって伝えられ、そして実現するからです。
- ちなみに、旧約聖書で「ナルドの香油」が登場するのは雅歌1章12節です。「王がうたげの座に着いておられる間、私のナルドはそのかおりを放ちました。」とあります。つまり、婚宴の間中、また、ここにある「私」とは王を愛する花嫁です。マリヤはその花嫁の代表的存在です。つまり、ヨハネの福音書12章のベタニヤでの食卓での出来事は、やがて到来する花婿なる王と花嫁なるその民との祝宴の預言的出来事と言えます。まさにそれが「良い知らせ」そのものであり、それを伝える者の足に最も高価なナルドの香油が注がれ(塗られ)、そのかおりが家いっぱいになったことは、御国の福音における意味のある預言的行為だったと言えます。
2014.10.29
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