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主と、顔と顔を合わせて語ったモーセ

【補完19】主と、顔と顔を合わせて語ったモーセ


【聖書箇所】申命記 34章1~12節

ベレーシート

  • 申命記34章には「モーセの死」が記されています。この34章には多くの神の秘密が隠されています。その秘密の中からいくつかのことを考えてみたいと思います。

1. 目はかすまず、気力も衰えていなかったモーセ

【新改訳改訂第3版】申命記34章1節
モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。【主】は、彼に次の全地方を見せられた。

  • 「ピスガ」は、聖書では必ず冠詞を伴った「ハッピスガー」(הַפִּסְגָּה)で用いられます。「ピスガ」は「山の尖がった部分」という意味です。山頂が尖がっているのか、それともせり出している部分を持つ山なのかは同定できません。しかし、いずれにしても、その頂か先((「ローシュ」רֹאשׁ)にモーセは登り、そこに立ったのです(申命記34:1)。そしてそこは、遠望を見渡せる地点だったことは確かです。
  • 「ピスガ」の語源が「パーサグ」(פָּסַג)だとすれば、それは「心を留める」「熟慮する」ことと深く関係しています。福音派が使っている聖歌254番に「たのしき祈りよ」という歌があります。その3節の歌詞はこうです。


楽しき祈りよ   わが目は見渡す
ピスガの峰より  あめなる御国を
この身はまもなく 肉の衣を脱ぎ
叫びつつ上らん 「さらばや浮世」と

  • わが目は見渡す ビスガの峰より 天(あめ)なる御国を」とあるように、私はこの歌の歌詞は、「祈りの真髄は鳥瞰的視点から天の御国を展望することにある」と理解します。なぜなら、祈りとは私たちの必要にばかり目を留めて神にそれを求めることではなく、神が実現しようとしている御国のご計画とみこころ、御旨(=神の喜び)と目的にしっかりと目を留め、熟考すべきことであると信じるからです。
  • イェシュアは「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:21)と語った後に、「からだの明かりは目です。それでもしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。」と語っています(マタイ6:22~23)。つまり、私たちが何を見、どこを見ているかによって永遠の運命が決まってしまうからです。目は「アイン」です。120歳になったモーセの目は「衰えなかった」というのは、まさに彼の目は見るべきものを見ていたと言えるのです。「目」は「からだ」の一部分ですが、その目が全体を健やかにするのです。

【新改訳改訂第3版】申命記37章7節
モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。

  • なぜモーセの「目はかすまず、気力も衰えていなかった」のか、それは彼が見るべき神の永遠のご計画を見ていたからだと言えます。もし私たちの目が永遠の神のご計画を見ていないとしたら、目はかすみ、生きる気力は年とともに衰えていくかもしれません。それゆえに、私たちの目は常に神のご計画を鳥瞰的(俯瞰的)に見る必要があるのです。たとえそこに私たちがどんなに目を留め、熟慮しようとしても限界があります。うすぼんやりとしか見えないのです。しかしそれを見ようとすることが私たちを生かすのです。なぜモーセの目はかすまず、その気力は衰えていなかったのか。それは彼が「待ち望み」によって生かされていたからです。神のご計画の完成を「待ち望む」信仰は、私たちの生きる気力を衰えさせることなく、むしろより活き活きとさせる力なのです。
  • モーセは死ぬ前に、モアブの地のネボ山のピスガの頂に登り、やがてイスラエルの民に与えられようとしている約束の地の全貌を見せられました。そこは、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエルに与えようとしておられる嗣業の土地であり、その約束はメシア王国において完全に与えられます。そのことを私たちは信仰の目によって見続けさせていただかなければなりません。人間的な視野で神を求めるなら、目も気力衰えてしまうことを、主はモーセを通して語っていると信じます。そして今日、キリスト教会にも信仰の視点のパラダイム(転換)が求められていると信じます。

2. 主と顔と顔を合わせていたモーセ

画像の説明

  • 神である主とモーセが特別な関係にあったことは、「パーニーム・エル・パーニーム」というフレーズで分かります。このフリーズは旧約聖書では3回しか使われていません。それを順に見てみましょう。

(1) 出エジプト記33章11節

【新改訳改訂第3版】
【主】は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。


(2) 申命記34章10節

【新改訳改訂第3版】
モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を【主】は、顔と顔とを合わせて選び出された。


●「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった」とありますが、申命記18章18節を見ると、「わたしは彼らの同胞うちから、彼らのためにあなた(=モーセ)のようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じたことをみな、彼らに告げる」と語っています。ここでの預言者とはだれのことを指しているのでしょうか。それは神の御子イェシュアのことです。

●また、「選び出された」と訳されていますが、原語は「知った」という「ヤーダ」(יָדַע)です。このことばの初出箇所は創世記3章5節で、「目が開かれて・・知る」ということです。このことばは創世記4章1節にも使われ、「人は、その妻エバを知った」です。そのあとに「知る」という関係は夫婦の関係として使われています。その本体は御父と御子の関係であり、その本体の影が神と人との関係、および夫婦の関係です。しかしその関係において隠されている真実を知るためには、霊の目が開かれる必要があります。

●「顔と顔を合わせて」というのは、本来、神と人とのあるべき正しい関係を示しています。エデンの園において、人が罪を犯すまでは人は神と顔と顔を合わせて語り合っていたのです。しかし罪を犯した後は、「主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した」とあります(3:7)。しかし、やがて御国においては、花婿と花嫁(あるいは、愛する者同志)がそうであるように、時の経つのも忘れて顔と顔を見つめ合うように、神と人が顔と顔を合わせるという関係が回復されるのです。

●【新改訳改訂第3版】
詩 11:7 【主】は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。
詩 34:5 彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。
黙 22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。

●やがて永遠の御国において、主にある者たちは神の御顔を仰ぎ見て輝く存在、完全に祝福された神の子となるのです。


(3) エゼキエル書20章35節

【新改訳改訂第3版】
エゼ 20:35 わたしはあなたがたを国々の民の荒野に連れて行き、そこで、顔と顔とを合わせて、あなたがたをさばく。

●「さばく」と訳された原語は「シャーファト」(שָׁפַט)です。「さばく」ということばは、「罰を与える、罰を受ける」というイメージがありますが、ヘブル語の「シャーファト」(שָׁפַט)は神の統治・支配概念を表わす用語で、ここではイスラエルの民が特別な取り扱いを受けることを「顔と顔を合わせて」と表現されています。その特別な取り扱いによって、イスラエルの民は再び神の所有とされることができるのです。

●このような民は、他の民族にはあり得ない話です。アブラハム・イサク・ヤゴブに対する神の約束は「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」というものです。驚くべきことに、この約束は歴史の最後まで不変なのです。つまり、地上のすべての民族、および諸国の民は、このイスラエルとどのようなかかわりを持つかによって、永遠の運命が定まってしまうということです。今日、多くの反ユダヤ的人々がいます。つまり、イスラエルを祝福しようとしない者たちです。「終わりの日」にはより多くの反ユダヤ主義が台頭して来ます。そしてその中から「反キリスト」が立ち上がるのです。しかし、神のご計画とその約束はかわることはないのです。この視点にキリスト教会は目を覚まして立なければなりません。イスラエルの役割は終わったとする置換神学に、決して惑わされてはならないのです。


2017.12.15


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