主に信頼できなかった悲惨なアハズ王
52. 主に信頼できなかった悲惨なアハズ王
【聖書箇所】Ⅱ歴代誌 28章1節~27節
ベレーシート
- Ⅱ歴代誌28章は、完全に主を捨て去り、背を向けたアハズ王の登場です。「主の前に、自分の道を確かなものとした」父ヨタムの霊性とは、まるで正反対の姿を見ます。信仰的に立派な親の子が必ずしも同じように立派になるというのはないという実例です。主の目にかなうことが何一つなかったアハズの登場は、南ユダがやがてバビロン捕囚という亡国の憂き目を予感させています。
- アハズをして何がそのようにさせたのかまことに謎です。「アハズ」(אָחָז)という名前は、「主は捕える」という意味の「エホアハズ」(יְהוֹאָחָז)、あるいは、「主が握られる」という意味の「アハズヤ」(אֲחַזְיָהוּ)の短縮形です。いずれにしても、アハズの名前は「主」を意味する「ヤー」(יָה)が省略された歩みとなることを最初から予感させているようにも思えます。
- 「アハズ」の語源は動詞「アーハズ」(אָחַז)で、その初出箇所は創世記22章13節です。そこには主がイサクの代わりとなる一頭の雄羊を備えておられました。父アブラハムはそれを取り(捕らえ)てイサクの代わりに全焼のいけにえとしてささげました。つまり「アハズ」の名前には、主が備えられたものを捕らえて自分のものとし、それを主にささげるという意味が隠されていました。しかし彼はそうした者とはなりませんでした。むしろ自分の名前とは真逆の歩みをしたのです。そのことを聖書は、「主の目にかなうことをしなかった」と表現しているのです。
1. アハズは礼拝を誤った方向に導いた
- アハズはその治世の最初から「主の目にかなうことを行わず」、イスラエルの王たちの道を歩み(すなわち、偶像礼拝)、異教の神、バアルとモレクを礼拝し、主が最も忌み嫌う幼児犠牲までしています。この幼児犠牲というのは、自分の願いを神に受け入れてもらうために自分の子どもたちを火の中をくぐらせるという最大限の犠牲です。また、アシュラ礼拝もしています。主以外であれば何でも神にしてしまう王でした。
- 目に見えぬ神に信頼し、ただ神のことばを信じるというほんとうの信仰は、生来の心にはほとんど不可能です。ともすれば、目に見えるものに信頼し、目に見えるものをあてにし、目に見えるものによって安心感を得ようとするのが人間の常です。そして偶像礼拝の心理はそこに根を有します。このような不信仰、偶像信仰は、それをひとたびつかんでしまった人を逆につかまえて虜にし、ついには滅びに至らせるところの悪魔の罠です。主によって捕えられなければならないアハズが、逆に悪魔によって虜にされてしまった気の毒な反面教師として取り上げられています。
- 偶像礼拝の背後にはサタンの霊的な力があります。ひとたび心を開くならば、取り返しのきかないことになります。それは自分の欲望を無限に肯定してくれる神への信仰であり、その偽りの偶像に心を開くことで、自分の願いとは逆の結果をもたらすのです。
2. アハズは間違ったところに助けを求めた
- 国家存亡の危機において、ユダの王が助けを求めるべき神は主であるにもかかわらず、彼はアッシリヤの王にその助けを求めました。そのことで、かろうじて国の体裁は守られましたが、そのことによって多くの貢物をしたことで主の宮は空になっただけでなく、より多くの貢物が要求される結果となりました。アハズがアッシリヤに支払った代償は経済的、政治的な面だけでなく、宗教的にも大きかったのです。28章21節のみことばは実に辛辣です。「アハズは主の宮と王およびつかさたちの家から物を取って、アッシリヤの王に送ったが、何の助けにもならなかったのである。」と記されています。
- 預言者イザヤによる主を信頼して「静かにせよ」というメッセージは歴代誌には記されていません。アハズは人一倍「恐れに支配された王」と言えるかもしれません。事実、アラムとイスラエルの連合軍がユダを攻めてきたときに王の心も民の心も「林の木々が揺らぐように動揺した」(イザヤ7:1)という記述こそ、「恐れ」に支配されている者の姿をよく表わしています。言うなれば、主を信頼して「静かにしていられる」のは力なのだということです。アハズはそうした信仰の力を経験することなく、恐れに翻弄された人間の弱さを映し出した悲惨な人物と言えます。
3. 不思議な出来事が示唆していること
- 28章9~15節には麗しい不思議な出来事が記されています。アラムとイスラエルの連合がユダを攻めたとき、ユダに大損害を与えたことが記されています。イスラエルに関して言えば、
【新改訳改訂第3版】Ⅱ歴代誌28章8節
さらに、イスラエル人は、自分の同胞の中から女たち、男女の子どもたちを二十万人とりこにし、また、彼らの中から多くの物をかすめ奪って、その分捕り物をサマリヤに持って行った。
- ところが、イスラエルの預言者オデデ(「オーデード」עֹדֵד)が、とりこにした同胞である彼らを帰しなさい。そうでないと、主の燃える怒りがあなたがたに臨むと語ります。すると、それを聞いた者たちはとりこを解放し、かすめ奪った物を手放しただけでなく、とりこの世話をし、その中で裸の者にはみな、分捕り物を用いて衣服を着させ、くつをはかせ、食べさせ、飲ませ、油を塗り(傷の手当てをすること)ました。そのうえ、足の弱い者はみな、ろばに乗せて、エリコ(ベニヤミン領)の町にまで連れて行ったのです。こうした後に武装した者たちがサマリヤに帰ったのです。
- 預言者「オデデ」(עֹדֵד,עוֹדֵד )の語源は「ウード」(עוּד)で、「戒める、警告する、さとす」という意味を持っています。イスラエルの人々はこの預言者オデデの警告を聞いたのです。聞いただけでなく、それ以上のことをしています。何と麗しい話でしょう。まさにこの話はアハズの悲惨な治世に咲いた美しい一輪の花と言えます。この北スラエルの情け深い行為は、イェシュアが語られた称賛を思わせます。
新改訳改訂第3版 マタイの福音書25章31~46節
31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。
42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、
43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
46 こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」
2014.4.12
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