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主のことばを聞くことのききんが来る

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8. 主のことばを聞くことのききんが来る

【聖書箇所】アモス書8章1~14節

ベレーシート

  • アモス書8章にはアモスの見た「五つの幻」のうち、第四の幻が記されています。その幻とは「一かごの夏のくだもの」です。

    【新改訳改訂第3版】アモス書8章1~2節
    1 神である主は、私にこのように示された。そこに一かごの夏のくだものがあった。
    2 主は仰せられた。「アモス。何を見ているのか。」私が、「一かごの夏のくだものです」と言うと、【主】は私に仰せられた。「わたしの民イスラエルに、終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。

  • 「アモス。何を見ているのか。」という主の問いは、後のエレミヤに対する「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」という問いかけを想起させます。預言者が何を見ているか。預言者が神がこれからなそうとするご計画やヴィジョンと同じものを見ているかどうか、このことはとても重要なことのようです。アモスは「一かごの夏のくだもの」を見ていましたが、後から登場するエレミヤは「アーモンドの枝」を見ていました。エレミヤの場合、主は「よく見たものだ」とある種の称賛(驚きと喜びと感動)の声を上げています。アモスの場合はその称賛のことばはありませんでしたが、おそらく主は内心喜んでおられたはずです。

1. 「一かごの夏のくだもの」の幻が示唆していること

  • 果物が入った「かご」はヘブル語で「ケルーヴ」(כְּלוּב)です。旧約では5回使われていますが、そのうち二つは人名です。あとの三つは果物だけでなく、鳥や魚など生き物を入れる「かご」を意味しています。七十人訳では「アンゴス」(άγγος)と訳されていますが、マタイの福音書13章47節では魚の「網」にこのギリシア語が使われています。
  • ちなみに同じ「かご」でも、五千人の給食で余ったパンを入るために使われた「かご」は「コフィノス」(κόφινος)、四千人の給食で使われた「かご」は「スプリス」(σπυρίς)です。ダマスコでパウロ(=サウロ)を載せて城壁づたいにつり降ろした「かご」は「スプリス」の方でした。
  • しかしここで重要なのは、「かご」ではなく、その中に入っていた「夏のくだもの」です。これはくだものが収穫されて夏の終わりが来たことを意味しています。「夏のくだもの」を意味するヘブル語は「カイツ」(קַיִץ)で、それだけで「夏」を意味します。この動詞の「キーツ」(קִיץ)は「夏を過ごす」という意味だけでなく、「目を覚ます」という意味もあります。「夏が終わって、目を覚ます」ときは「終わりの時」なのです。それゆえ、8章2~3節で主は次のように宣べています。

【新改訳改訂第3版】アモス書8章2~3節
2 主は仰せられた。「アモス。何を見ているのか。」私が、「一かごの夏のくだものです」と言うと、【主】は私に仰せられた。「わたしの民イスラエルに、終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。
3 その日には、神殿の歌声は泣きわめきとなる。──神である主の御告げ──多くのしかばねが、至る所に投げ捨てられる。口をつぐめ。」

  • 終わり」を意味する語彙は「ケーツ」(קֵץ)。つまり、「終わり」を意味する「ケーツ」(קֵץ)と「夏のくだもの」を意味する「カイツ」(קַיִץ)が語呂合わせで用いられているのです。
  • 終わりが来るその日には、多くのしかばねが、至る所に投げ捨てられるとあります。これはやがて「終わりの時」の反キリストによる大患難の型だと言えます。多くのユダヤ人が反キリストをメシアと信じて従うからです。「わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。」という主のことばは実に深刻です。
  • イスラエルの暦の視点から見るならば、くだものが収穫されるときは夏が終わる時です。そして第七の月の第一日の新月には「ラッパの祭り」が始まります。そして第十日は「大贖罪日」です。そして第十五日から七日間の「仮庵の祭り」が始まります。イェシュアの再臨はおそらく満月頃です。ですから、イスラエルの歴史の中で起こってくる様々な出来事の時期や内容も、神のマスタープランと密接なかかわりを持っていることを常に念頭に置いておかなければならないと思います。それゆえ、今回の「夏のくだもの」の幻は、神の審判の時がいつ起こるのか、そのことを啓示している幻だと言えます。

2. 主のみことばを聞くことのききん(飢饉)とは

  • 見よ。その日が来る。ー神である主の御告げ。-」。「その日」とくれば、多くの場合、「終わりの日」を意味します。その日に何が起こるのかといえば、「みことばを聞くことのききんです。」

    【新改訳改訂第3版】アモス書8章11~13節
    11 見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、【主】のことばを聞くことのききんである。
    12 彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、【主】のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。
    13 その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。

  • 「主のことばを聞くことのききん」とはどういう事でしょうか。人々は「主のことばを探し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。」のです。ここにある「これ」とは隠された主のことば、すなわち、「御国の福音」のメッセージです。
  • イェシュアがこの世に来られた時、多くの人々が主を捜し求めました。どんな理由で人々がイェシュアを捜したのかというと、それは、彼らが「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と、イェシュアは辛辣です。パンの給食の奇積も、ある大切なことを指し示す「しるし」でした。その「しるし」は御国における重要なことを教え指し示すものでした。しかし人々はそのことを悟らず、ただ目先の目に見えるパンだけを求めていただけでした。求めているものがズレているために、神のパンが意味することを見失い、真の希望を失って生きることができなくなっているのです。それが「みことばを聞くききん」です。現代においても、イェシュアが語った「御国の福音」に対して無関心なために、みことばの真の意味を悟ることがなく、ききんを招いていると言えます。
  • 「パン」とは私たちが口にするパンのことではありません。単なる「霊的なパン」でもありません。御国の福音に関する事柄です。「パン」のことをヘブル語では「レヘム」(לֶחֶמ)と言います。ギリシア語では「アルトス」(αρτος)と翻訳されています。「アルトス」ということばには、肉的にも、霊的にも生命維持のためのパンという意味しかありませんが、ヘブル語の「レヘム」の動詞である「ラーハム」(לָחַם)には「戦う」という意味があります。その意味を一番表わしているのが、イェシュアが公生涯に入る前の「荒野での試み」です。果たして神の子イェシュアが神の口から出る一つひとつのことばによって生きるかどうか、という戦いでした。
  • サタンはイェシュアに石をパンに変えて飢えをしのぐようにと誘惑しましたが、イェシュアは神の口から出るみことばによって生きるという戦いにおいて勝利しました。やがて真のメシア王国が到来する時、朽ちる食物によって生きることは必要なくなります。食べても食べなくても生きる新しいからだに変えられるからです。「主の祈り」の中にある「日用の糧」とは、神と人とが共に生きる永遠のいのちを意味しています。その時が来るように祈りなさいとイェシュアは弟子たちに教えられました。キリストの再臨によって「御国」が完全に到来するとき、主の祈りを祈る必要はなくなり、感謝へと変えられるからです。
  • では、ちなみに、この世において私たちが必要とする肉体の生命維持のためのパンはどのようにして与えられ、保障されるのでしょうか。それはイェシュアが次のように約束しています。

    【新改訳改訂第3版】マタイの福音書6章33節
    だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

  • これはすでにイェシュア自身が経験していたことです。むしろ私たちが求めるべきものは「永遠のいのちに至る食物のために働く」ということです。イェシュアは次のように語られました。

    【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書6章27節
    なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。

  • ここでいう「働く」とは、「それ(いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物)を得ようと努力すること。それを得ようとして熱心に主に尋ね求めること」を意味します。神のご計画を知り、神のご計画のヴィジョンと同じヴィジョンを見ながら、そのためにいのちを賭けることを意味します。

2015.2.24


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