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主の前に、自分の道を確かなものとしたヨタム王

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51. 主の前に、自分の道を確かなものとしたヨタム王

【聖書箇所】Ⅱ歴代誌 27章1節~9節

ベレーシート

  • Ⅱ歴代誌27章で登場するヨタム王について、歴代誌の著者は彼の生涯において、父ウジヤのように期間限定ではなく、限定なしに「主の目にかなったことをした」王として評価しています。他の王に比べて、記述されていることは少ないのですが、彼の霊性は私たちにとって、大きな益となると信じます。
  • 「ヨタム」という名前は「ヨーターム」(יוֹתָם)。すなわち、「主」を意味する「ヤー」(יָה)と、「完全な、潔白な」を意味する「ターム」(תָּם)から成り、「主は完全な(方)」という意味です。その主の目に「かなう」ことをしたと評価されるということはどういうことでしょうか。ヨタムの霊性に学びたいと思います。

1. 主の目に「かなうこと」とは何か

  • 上記の図では、南ユダの王たちの中で、「主の目にかなうことを行った王」と、「主の目に悪を行なった王」のリストを挙げました。アタリヤをはじめとして他に5人ほど名前を上げていませんが、彼らは「主の目に悪を行なった」と記されてはいなくても、悪を行なった王たちです。
  • 「かなう」と訳されたヘブル語は「ヤーシャール」(יָשָר)という形容詞で「正しい、真っ直ぐな」という意味で、その動詞「ヤーシャル」(יָשַׁר)は、まっすぐに進む(歩む)という意味です。ここから派生する語彙として「イェシュルーン」(יְשְׁרוּן)があります。聖書では「エシュルン」と表記されています。「エシュルン」は「イスラエル」の別称、ないしは、神のイスラエルに対する愛称です。
  • 「エシュルン」という愛称は、イスラエルが正しいからではなく、彼らを選び、彼らを贖い、彼らを召された神ご自身が正しくあり、イスラエルを「エシュルン」と呼ぶことにより、神の民としての自覚を与えようとしている呼称と言えます。罪を犯しやすい者であっても、キリストにあって「聖徒」と呼ばれるクリスチャンのようなものです。
  • ユダの王ヨタムはその生涯において、主の道に歩んだ王でした。16年という治世期間において、彼の影響は民にまで及ばなかったようです。私たちのイメージでは、良い王であるならば、民たちに良い影響を与えるとどうしても考えがちです。しかしそうとも限りません。悪い王であっても、民たちはその影響を被らないということもあるからです。ある時まではという期間限定において「主の目にかなうことをした」父ウジヤ王や祖父の父ヨアシュ王と比べるならば、ヨタムは立派な王であったと言えます。
  • ヨタムの母の名はエルシャ(「イェルーシャー」יְרוּשָׁה)、彼の父の名は「ツァドク」(名詞は「ツェデク」צֶדֶקで「正義」の意)も、ヨラムに良い影響を与えたのかも知れません。

2. 主によって自らを確立したヨラム(ヨタムの霊性に学ぶ)

  • ヨラムの霊性において、聖書は重要なことを記しています。

    【新改訳改訂第3版】Ⅱ歴代誌27章6節

    このように、ヨタムは勢力を増し加えた。彼が、彼の神、【主】の前に、自分の道を確かなものとしたからである


    ●新改訳の「確かなものとした」を、新共同訳は「たゆまず歩き続けた」と訳しています。「継続の力」は誰でもできることではなく、その堅実さはひとつの力なのです。

  • 「このように」とあるのは、ヨタムがアモンとの戦いにおいて勝利したこと、それゆえに経済的な豊さが与えられたこと。またユダの山地に町々を建て、森林地帯には城壁とやぐらを築いたことです。こうした事業の背景には経済的な富があったことを示唆しています。それゆえに彼は勢力を増し加えることができたと言えます。しかしその力を彼は自分で得たものだと決して錯覚することなく、力(権力)の魔力に支配されることなく、主の前に自分の道を確かなものとしたことがすばらしい所です。
  • 「確かなものとした」と訳されるヘブル語は「クーン」(כּוּן)です。「クーン」は普通、受動態で「堅く立てられる、定められる、整えられる」というふうに使われるますが、ここでは使役態(ヒフィル態)で「強められる」「確立する」と訳されます。ダビデが詩篇57篇8節で「私の心はゆるぎません。(口語訳は「定まりました」)」と述べています。何が定まったのかと言えば、いつでも、どんな状況にあっても、主を賛美することを確かにしたのです。そのゆるぎなさの表われが24時間賛美という形で表されるようになります。ちなみに、ゆるぎなさを意味する「クーン」(כּוּן)の親語根(parent root)となる「ケーン」(כֵּן)も、形容詞の場合には「正しい、真実な」という意味になり、名詞の場合は「基、台座」という意味を持っています。これがヨタムの霊性と言えます。
  • 今日私たちの主にある歩みの基として、台座として、この「ゆるぎなさ」という霊性が必要です。私どもの教会の基本方針は「ゆっくり、ゆったり、ゆたかに」という「三ゆ」の姿勢でした。しかし今後、ヨタムの霊性から、さらにもう一つの「ゆ」の姿勢、すなわち「ゆるぎなさ」を付け加えました。それは、周囲の流れに決して流されることなく、大切と思うことを、与えられた限られた時間の中で、自分たちに与えられている賜物と使命を優先的に選び取っていくこと、しかもそれを地道に継続していくゆるぎなさ」です。これをもって主に従い続けて行きたいと思います。


2014.4.11


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