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主の好まれる真の断食とは

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56. 主の好まれる真の断食とは

【聖書箇所】58章1~14節

ベレーシート

  • イザヤ書58章は神の民に対する厳しい主の糾弾から始まっています。

    【新改訳改訂第3版】イザヤ書58章1節
    せいいっぱい大声で叫べ。角笛のように、声をあげよ。わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ、ヤコブの家にその罪を告げよ。

  • その糾弾の内容は、断食という宗教的行為が形式的・偽善的行為となっていることに対するものです。神の好まれる断食が、人に対する愛の行為(6~12節)の中に、そしてまた神に対する「安息日」の行為(13~14節)の中に現わされるものであることが語られています。

1. 「断食」という宗教的行為

  • 「断食」という語彙はモーセ五書の中には見られません。ちなみに、新改訳では断食することを「身を戒める」と訳しています。口語訳では「身を悩ます」、新共同訳・岩波訳では「苦行をする」、フランシスコ会訳では「魂を苦しめる」と訳しています。いずれも「断食する」と訳していませんが、内容としては、断食と同義です。
  • 「断食する」という動詞(「ツーム」צוּם)も、「断食」という名詞(「ツォーム」צוֹם)も、イザヤ書においてはすべて58章にのみ集中して登場しています。断食には、神の命令に従ってする「当為的断食」と、自分の意志による「自発的断食」とがあります。

(1) 当為的断食の規定

  • これは神の永遠のおきてとして定められたもので、その規定がレビ記、民数記の中にあります。

    【新改訳改訂3】レビ記 16章29節
    以下のことはあなたがたに、永遠のおきてとなる。第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない。
    この国に生まれた者も、あなたがたの中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。

    【新改訳改訂3】レビ記 23章29節
    その日に身を戒めない者はだれでも、その民から断ち切られる。

    【新改訳改訂3】民数記 29章7節
    この第七月の十日には、あなたがたは聖なる会合を開き、身を戒めなければならない。どんな仕事もしてはならない。

  • 「第七の月の十日」とは「大贖罪日」のことです。第七の月の一日は「ラッパの祭り」で、十日は「大贖罪日」、そして十五日から「仮庵の祭り」が八日間にわたって祝われます。「身を戒めなければならない」とあるのは、公的な断食の規定なのです。
  • ゼカリヤ書8章19節を見ると、捕囚から帰還した後には、年四回の断食が行われたようです。年四回とは以下の通りです。

    第四の月の断食・・エルサレムの城壁が破られたことを嘆いてなされた断食(エレミヤ39:2)。
    第五の月の断食・・エルサレムの神殿が破壊されたことを嘆いてなされた断食。
    第七の月の断食・・ゲダルヤが殺され、国が絶望の状態にあることを嘆いてなされた断食。
    第十の月の断食・・エルサレムがバビロン軍によって包囲され始めた月を嘆いてなされた断食(エレミヤ39:1)。

(2) 自発的断食

  • 断食とは、それに伴う肉体的苦痛を通して、深い罪の自覚と畏れをもって神に近づくことであり、熱心な祈りと悔い改めを表現する行為です。そのような自発的断食の例は聖書に多くあります。

    ①申命記9章18節
    モーセはイスラエルの民の犯した罪のために40日40夜主の前に断食しました。
    ②士師記20章26節
    イスラエルの民はベニヤミン族の罪のために泣いて断食しました。
    ③Ⅰサムエル7章6節
    サムエルもミツパでイスラエルの犯した罪のために断食しました。
    ④Ⅱサムエル12章16節
    ダビデはバテ・シェバとの間に出来た最初の子どもの病気のために断食をしました。
    ⑤マタイ4章2節
    イェシュアは公生涯に入るに当たって40日40夜、断食をなされました。
    ⑥使徒13章2~3節
    アンテオケ教会における世界宣教は、礼拝と断食と祈りのうちに始まりました。


2. 神はなぜ民の断食を受け入れないのか

  • 断食に限らず、自発的な信仰行為の危険性は、それが制度化し、形式化してしまうことです。新約聖書によれば、パリサイ人は週2回の断食を習慣としていたようです(ルカ18:12)。しかしそれは自分を敬虔深く見せようとする見せかけのものとなっていました。つまり、断食という本来の信仰行為が、自分の敬虔度を示すものとなっていたのです。またその目的が神の恩寵を得る手段となる危険があるのです。イザヤ書58章3節にはそうした面が見られます。「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」とあるように、断食が神の恵みを要求する手段であると考え、その責任を神に課すものとなっています。
  • 神の民の不平不満に対して、神がなぜ彼らの断食を受け入れないのか、その理由が3~4節に述べられています。

理由(その1)
「断食の日に自分の好むことをした」からです。本来、断食は、悔い改めを伴い、節制と禁欲を通して神の御前に心砕かれ、へりくだって神に祈ることです。

理由(その2)
「労働者をみな、圧迫した」からです。断食という宗教的精進のために、そのしわよせが他の使用人に及ぶ結果となっていたからです。

  • 偽善的な断食に対する主の糾弾は、5節で次のように表現されています。

    【新改訳改訂第3版】イザヤ書58章5 節
    わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。
    葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。
    これを、あなたがたは断食と呼び、【主】に喜ばれる日と呼ぶのか。


3. 神の好まれる断食

(1) 人に対する行為として

【新改訳改訂第3版】イザヤ書58章6~7節
6 わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。
7 飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。

  • 主の喜ばれる断食とは一言で言うならば、愛という積極的な行為の実践(6~7節)です。宗教の偽善と真実を見抜く試金石が、私たちの日常身辺の最も近いところにあることを教えています。もし、そのような愛の具体的な行為をするならば、11節に見る総括的祝福を主は約束しています。「【主】は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。」

(2) 神に対する行為として

【新改訳改訂第3版】イザヤ書58章13~14節
13 もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、【主】の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、
14 そのとき、あなたは【主】をあなたの喜びとしよう。「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う」と【主】の御口が語られたからである。

  • 私が育った教会は、聖日(日曜日)は「礼拝厳守」とし、「今日も礼拝を守れたことを感謝します」と祈る教会でした。いわば、礼拝を守るということが聖日なのだという意識になっていました。しかし後に、聖日(安息日)とは、神の救いを楽しむセレブレーション(祝祭)なのだという意識に変えられました。もっと自由に礼拝を楽しむという視点から礼拝について考え始めると、礼拝の流れ(プログラム)にも、賛美の流れや内容にも、また礼拝後の過ごし方にも自由さが与えられました。厳守という束縛的な意識から自由になったのです。礼拝は厳守してそれで満足していることではなく、神とのかかわりを最大限に楽しむことなのです。その「楽しみ感」がない礼拝は、どこかでズレています。「御国」における永遠の世界での礼拝の基調は「喜びと楽しみ」です。
  • イザヤ書58章にもそのことが強調されているように思います。
    「安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『はえある日』と呼び、これを尊ぶ・・とき、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。」とあります。自分の好むことを求めず、むだ口を慎み、主を何よりも喜びとすることこそ真の礼拝であり、真の断食なのだと信じます。

2014.11.24


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