****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

主の書物を調べて読め

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25. 主の書物を調べて読め

【聖書箇所】34章1~17節

ベレーシート

  • イザヤ書34章と35章は「神の最終の審判」と「神による回復」によるワンセットの箇所です。イザヤ書の内容はいつも「審判」と「回復」がコインの裏表のようにしてセットで語られることが多く、この箇所でも然りです。特に、34~35章は神のマスタープランの最終ステージについて預言されています。

1. 主の復讐の日には、永遠の廃墟に聖絶される民と鳥獣が集められる

(1) 主が聖絶すると定められた民として選り抜かれたエドム

  • 諸国の民に対する神の究極的なさばきの宣告が語られます。その矢面に(代表として)エドムが立たせられています。神の民イスラエルとエドムが聖絶されることとは密接な関係にあります(エゼキエル書35章1~15節参照)。
  • エドムはヤコブの兄エサウから出た氏族の総称です。イェシュアを殺そうとしたヘロデ大王もその一人です。エドムはヤコブの子孫を憎み続け、その執念深い恨みには冷酷さがあります。詩篇137篇で「主よ。エルサレムの日に、『破壊せよ。破壊せよ。その基までも。』と言ったエドムの子らを思い出してください。」(7節)と祈っていますが、そのシオンの民の訴えのために仇を返す復讐の時が来ることを預言しています。「エルサレムの日に」とは、エルサレムがバビロンのネブカデネザルによって破壊された日のことを指しています。そしてその時、エドムはエルサレムを何度も略奪したのです。
  • エドムの滅亡を預言するイザヤ書34章5~15節の他の箇所としては、エレミヤ書49章7~22節、エゼキエル書25章12~14節、35章1~15節、アモス書1章11~12節、そしてオバデヤ書です。そのオバデヤ書の10節には「あなたの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥があなたをおおい、あなたは永遠に絶やされる。」と預言的完了形で記されています。つまりそれは必ず起こることを意味しています。兄弟関係にありながらも、ヤコブの子孫の困難、苦難を喜ぶ冷徹非情なエドムに対する神のさばきであり、「わたしが聖絶すると定めた民」(イザヤ34:5)の代表として選り抜かれたのです。
  • エドムに対する主のさばきが9~10節に描写されています。それによれば、その地は燃えやすい「ピッチ」(樹脂)によって、夜も昼も消えることなく燃え続け、いつまでもその煙は立ち上り、そこは代々にわたって、廃墟となると預言されています。「夜も昼も消えず、いつまでもその煙は立ち上る」とは、やがて最後の審判に見られる「火と硫黄の池」を想起させます(黙示録20:10)。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書34章11節後半
主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。


「虚空」(こくう)と訳されたヘブル語は「トーフー」(תֹּהוּ)。「虚無」と訳されたヘブル語は「ヴォーフー」(בֹהוּ)です。この二つのことばはセットで創世記1章2節にあります。「トーフー・ヴァー・ヴォーフー」(תֹהוּ וָבֹהוּ)で、新改訳は「(地は)茫漠として、何もなかった」と訳しています。中澤洽樹氏の訳は「荒涼混沌」。まさにそれは混沌な状況であり、無意味、無目的、無秩序を表わす世界です。それは「光」(光源としての「光」ではなく)なき世界とも言えます。エドムの荒廃は終末における天地壊滅の一例なのです。

(2) 汚れた動植物もそこに住む

  • エドムが永遠の廃墟となるところに、汚れた動植物が住むとされています。汚れた動物(鳥と獣)としては「ペリカン、針ねずみ、みみずく、烏、ジャッカル、だちょう、山犬、野やぎ、こうもり、蛇、とび」の名前が、汚れた植物としては「いばら、いらくさ、あざみ」があげられています。そしてそれらは雄と雌が「連れ合い」(つがい)で住むのです。
  • エドムに対する永遠の荒廃(茫漠としてなにもない状態)と前述した汚れた動植物がそこに住むようになるということは、それを聞く人々にとってはとても信じられないことであったはずです。しかし、神の霊感(神の息吹)によって記された主の書物にそのことが啓示されているのです。それゆえ、34章16節が記されているのです。

2. 聖書をつまびらかにたずねて読むべし

  • イザヤ書34章16節の冒頭は、主の書物(聖書)をどのように読むべきを私たちに教えている重要なフレーズです。

画像の説明

  • 「メーアル」(מֵעַל)は二つの前置詞、「~から」を意味する「ミン」(מִן)と「~の上」を意味する「アル」(עַל)の合成語です。つまり「~の上から中へ」という視点を意味します。主のみことばが記された書物を通り一遍の表面的な読み方ではなく、より掘り下げるようにして読むことを意味します。
  • 多くの聖書がこの部分を「調べて」(新改訳、岩波訳、フランシスコ会訳、関根訳、尾山訳、L.B訳)と訳しています。他に「求めて」(中沢訳、バルバロ訳)、「尋ね求め」(新共同訳)、「つまびらかにたずねて」(口語訳、文語訳)と訳されています。最後の「つまびらかにたずねて」という訳はすばらしい訳だと思います。なぜなら、ここで使われているヘブル語の「ダーラシュ」(דָּרַשׁ)はまさにそのような意味だからです。その名詞は「ミドゥラーシュ」(מִדְרָשׁ)です。神のみことばの真意をつまびらかに尋ね求めて、その意味を理解しようとする姿勢です。つまり、神のみことばの奥に隠された真意を、いわば調査するような思いで尋ね求めるのです。求めのないところに聖書は開かれて来ません。「つまびらかに尋ね求める」ような読み方こそ、本当の聖書の読み方なのだと信じます。そしてそのような読み方を、教会は次の世代の人々に、若いうちから始めるよう促さなければならないのです。
  • 私の尊敬する恩師、小林和夫教授は若い頃、献身して聖書学院(神学校)に入学してから、聖書を「つまびらかに尋ね求める」ような読み方をしたそうです。聖書のことばを原語で調べながら、その意味するところを理解しようとしたそうです。そうした積み重ねから、人々にみことばの深さを感じさせる説教が生まれて来たのです。小林和夫師の語るメッセージの深さの秘訣は、まさにイザヤ書34章16節の「つまびらかに尋ね求める」読み方にあるのです。
  • 50代にアラスカで亡くなった冒険家の一人、星野道夫氏は小学生の卒業の寄せ書きに「浅き川も深く渡れ」と書きました。そして彼はそのような生き方をしました。「浅き川も深く渡る」も、「つまびらかに尋ね求める」も、真意の追求を意味したことばのように思います。このような姿勢が、今日、神のみことばを読む者たちに必要です。書物に書かれた文字の背後に隠された深い意味を悟るように読むことは決して容易ではありませんが、隠された秘密を探り求めようとして取り組むならば、たとえそれが人間の常識や理解を越えるような事柄であったとしても、神の視点からそれを正しく受け留めることができ、理解することができるのだと信じます。


2014. 9.19


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