****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

主の激しい怒りから見える主のみこころ

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2. 主の激しい怒りから見える主のみこころ

【聖書箇所】 1章14節~2章3節

ベレーシート

  • 1章14節~2章3節におけるユダに対する主のさばきから二つのことを取り上げます。ひとつは「主の日」について。もうひとつは「バーカシュ」を代表とする「渇望用語」についてです。

1. 「主の日」について

  • ゼパニヤ書には、「主の日」に関することばー「その日」「主の大いなる日」「苦難と苦悩の日」「荒廃と滅亡の日」「やみと暗黒の日」「雲と暗やみの日」「角笛とときの声の日」「城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日」「主の激しい怒りの日」「主の怒りの日」(1:7~2:3)ーが多く用いられています。これらは、神のご計画におけるいわば「定まった日」のことです。「主の日」は、特別な時を意味するギリシア語の「カイロス」(καιρός)に相当します。
  • 「主の日」は、近いところでは「バビロンによってもたらされるエルサレムの崩壊と捕囚」の出来事があります。遠いところでは「メシアの来臨」の出来事です。特に旧約において「主の日」と言えば、新約時代の私たちから見ると、メシアの再臨によってもたらされる神の定められた日を示唆します。それは神の審判と回復がもたらされる時なのです。
  • とりわけ、ゼパニヤ書1章では、神のさばきが徹底的になされることが語られています。そしてユダとエルサレムに住む者の上に下される「主の日(主の大いなる日)は近い」と宣告されているのです(7節, 14節)。

2. さばきの前に悔い改めを迫る主

【新改訳2017】ゼパニヤ書2章1~3節
1 ともに集まれ、集まれ。恥知らずの国民よ。
2 御定めが行われて、その日が籾殻のように過ぎ去らないうちに。
【主】の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに。
【主】の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。
3 すべてこの国の、主のさばきを行う柔和な者たちよ、【主】を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。そうすれば、【主】の怒りの日に、かくまってもらえるかもしれない。

バーカシュ.JPG
  • 「恥知らず」と訳された語彙は、「慕う、恋い慕う、熱望する」を意味する「カーサフ」(כָּסַף)に否定辞がついて「恥知らず」と訳されています。「主を恋い慕わない民」は、「恥知らずな民」だという意味です。それは主が願っておられることが何かを示唆することばでもあります。詩篇84篇2節には、「 私のたましいは、【主】の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。」とあります。この「カーサフ」(כָּסַף)は後で取り扱う「渇望用語」の一つとして加えなければならない語彙です。
  • 主の燃える怒りが襲わないうちに主に立ち返るようにユダの民に促していますが、そこに主が喜びとし、願っている本来のユダの民の姿が描かれています。それは一言で言うならば、主を「求める、慕い求める」(「バーカシュ」בָּקַשׁ)ということです。それが「主の定め」なのです(2:3)。
  • もし、民が「主を求める」「義を求める」「柔和さ(謙虚さ)を求める」ならば、主がそのさばきから「かくまわれる、身を守られる」(「サーッタル」סָתַּר)と約束しておられます。

3. 主を求める「渇望用語」

  • ゼパニヤが活躍した時代には、ダビデのように「主を求める」者はいなかったことが強調されているかのようです。マナセとアモンの57年間もの治世にわたって、神の民が自分たちの生存と防衛の保障を神に求めることなく、大国アッシリヤに求めていたのです。これは神の心を痛める行為でした。神の教えを記した「トーラー」もしまい込まれ、神のみことばが聞かれない時代が続いたのです。神のいのちの通路を塞いでしまっていたのです。そのような状況の中で、主はもし「主を求める」ならば、激しい怒りから「かくまう」と約束されたのです。おそらくその「かくまわれた」者たちが、バビロンの捕囚という憂き目の中で、神のトーラーを回復させ、神を見出すに至ったと考えられます。

ゼパニヤ書2章3節における「渇望用語」は「バーカシュ」(בָּקַשׁ)が3回使われています。以下、「渇望用語」について取り上げます。

(1) 「バーカシュ」(בָּקַשׁ)
●「バーカシュ」は「渇望用語」の中で最も多く使われている語彙(225回)ですが、とりわけ、心情的な面において求めるところに特徴があります。たとえば、「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている(בָּקַשׁ)。」(詩篇27篇4節)

●新約に「神の国とその義とを、まず第一に求めなさい。」(マタイ6:33)とありますが、ここの「求める」をヘブル語にすると「バーカシュ」です。同じく「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)の「求める」も「バーカシュ」です。

(2) 「ダーラシュ」(דָרַשׁ)
●「ダーラシュ」の使用頻度は165回です。「バーカシュ」が心情的であるのに対して、「ダーラシュ」は理性的です。つまり、神に尋ね求め、問いかけ、調べて、そこにある神の秘密を掘り起こすような求めです。すでにゼパニヤ書1章6節にありました。詩篇9篇10節には「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。【主】よ。あなたはあなたを尋ね求める(דָרַשׁ)者をお見捨てになりませんでした。」とあります。すばらしい約束ではありませんか。

●ちなみに、「ダーラシュ」(דָרַשׁ)のギリシア語訳は「ゼーテオー」(ζητέω)です。「バーカシュ」のギリシア語訳は「エクゼーテオー」(ἐκζητέω)です。ギリシア語では「ゼーテオー」の使用頻度の方が「エクゼーテオー」のそれよりもまさっています。ヘブル語の使用頻度と逆です。

(3) 「シャーアル」(שָאַל)
●「シャーアル」は「尋ねる、願う、求める」という意味で、詩篇27篇4節の「私は一つのことを主に願った」で使われています。使用頻度は183回です。

(4) 「シャーアフ」(שָאַף)
●「シャーアフ」は「あえぐ、あえぎ求める、熱望する、切望する」という意味で、詩篇119篇131節の「私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです。」で使われています。使用頻度は14回です。

●コロサイ書3章1節に「上にあるものを求めなさい。」とありますが、ここでの「求める」のヘブル語は「熱望する、切望する」という意味の「シァーアフ」が使われています。

(5) 「シャーハル」(שָׁחַר)
●「シャーハル」は、「真面目に、熱心に、本気で、神を求める(捜し求める)」という意味です。使用頻度は13回。詩篇63篇1節の「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。」で使われています。

(6) 「カーマー」(כָּמָה)
●「カーマー」は「恋慕う、恋こがれる」という意味で、詩篇63篇1節の後半にある「水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。」に使われています。使用頻度は13回です。

(7) 「アーラグ」(עָרַג)
●詩篇42篇1節に「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」とあります。その切望感は神への強烈な渇きのゆえなのです。使用頻度は3回と少ないのですが、生ける神を求める希求性の強い語彙と言えます。もし、この渇きが神以外のものに求めるとすれば、かかわりの危険度は増すことになるでしょう。


  • 聖書における「渇望用語」は、「ダビデの霊性」「マリアの霊性」であると同時に、「花婿を慕う花嫁の霊性」なのです。今日の教会は御霊の助けによってこの霊性を回復し、自分たちのものとしなければなりません。なぜならこの霊性は、神の第一戒である「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」が実現することにつながるからです。

2015.6.27


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