****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

主の臨在の満ちあふれる所へ

第14日 「主の臨在の満ちあふれる所へ」 

二つの奨励・・「神に近づくこと」と「共に集まること」

はじめに

  • 二つの奨励をするように導かれています。聖書のテキストは10章19節~25節です。

【新改訳改訂第3版】10章19~25節
19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
21 また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
23 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
24 また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

(1) 全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか(10章22節)。
(2) ますますいっしょに集まることをしようではありませんか(10章25節)。

  • この二つの奨励は密接な関係にあります。なぜなら、「神に近づくこと」、「共に集まること」―そこに神の臨在が豊かにあるからです。「神に近づくこと」「共に集まる」ことの大切さについて、共に考えてみたいと思います。

1. 全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか

(1) 私たちが神に近づくため神がしてくださった事実

  • ヘブル書における「救い」は「神に近づく」という言い方で表わされます。神に近づくことができること、それも神の最も深いところ、神のふところに近づくことができ、神の愛の鼓動にふれることができること、それがヘブル書のいう救いです。
  • 「神に近づく」こと、このことを決して簡単に考えてはなりません。旧約の最初の大祭司となったモーセの兄アロンがおります。そのアロンにはナダブとアビブという二人の息子がおりました。旧約の祭司職は世襲制でしたので、当然、アロンの息子たちも祭司でした。ところが息子たちはいけにえのための火を、神の律法に定められたとおりにしなかったために、彼らは火で焼き尽くされました。つまり、死んだのです。この出来事について父のアロンはただ沈黙せざるをえませんでした。神が定めた方法によらなければ、決して神に近づくことができないということを、神ご自身が示されたからでした。この厳粛な事実を、アロンはただ受け入れなければなりませんでした。
  • 私たちも神に近づくためには、神との親しいかかわりを持つためには、神の定めた方法によらなければならないということを受け留めなければなりません。「真心から神に近づこうではありませんか」という奨励には、それが可能とされた神の大いなる事実が根底にあるからなのです。もう少し、この奨励にある前後の文章を見てみましょう。へブル書10章19~22節

    【新改訳改訂第3版】
    19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
    20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
    21 また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
    22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

  • これらのみことばには、次のような構造があります。

    事実(10:19)
    ② 事実を裏付ける根拠・理由(10:20)
    事実(10:21)
    ④ 事実に基づく結果(10:22)
    ⑤ 事実に基づく奨励(10:22)

①の〔事実〕とは「私たちが、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができる」ということです (10:19)。「まことの聖所」とは「至聖所」のこと the Most Holy Place, / the holy Presence (MOF), / The sanctuary (Jerusalem, NEV, RSV) / The very Holy of Holies where God is, (LB) / The holy place (PME)

②の〔事実を裏付ける根拠・理由〕とは、「イエスがご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道(つまり、至聖所への道)を設けてくださった(から)です。なぜ新しい道なのか・・それは、かつて、大祭司しか入れない場所だったからです。そこへ私たちは「大胆に、何らはばかることなく、堂々と、自由に、そこへ入っていくことができるという事実があるので、「神に近づくことができるのです。」

  • ここにある事実とは、イエス・キリストの十字架の出来事を指し示しています。御子イエスの肉体という垂れ幕を通って、至聖所へと入る新しい道を開いてくださったのです。そのとき御子イエスはご自身の血潮を携えて至聖所へと入られました。実はこのことがきわめて重要なことなのです。なぜなら、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはなく、神との交わりも、神とのかかわりも一切もつことができないからです。」

(2) イエスの血潮の力

  • 「イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができる」
    イエス・キリストの血潮―それは、神の聖なる愛のしるしです。キリストの血潮だけが至聖所を開くカギなのです。

① 血はいのち

  • イエスは言われました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちをもっています。・・私の肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」(ヨハネの福音書6章54~56節) このことをイエスが話されたあとで、多くの者たちがつまずき、イエスから離れていきました。
  • 「わたしの血を飲む者」・・ドラキュラも人の血を飲まなければ生きられませんが、人間も実は人の血を飲んで生きるのです。赤ちゃんがそうです。赤ちゃんはお母さんのお乳を飲んで生き、成長していきます。生後4ヶ月間は母乳だけで生きることができます。母乳には赤ちゃんが必要とするすべての栄養と抗体が含まれているからです。母乳とは母親の血液です。母乳は母親の血液がお乳を通して赤ちゃんに与えられます。乳房のなかにある乳腺というところで、赤い血液が一瞬にして白い乳に変わるのは神秘的です。赤が白に変わると言っても、赤い色を持つ赤血球が取り込まれないためです。栄養分や白血球はとりこまれますが、赤血球は乳腺で取り込まれないので母乳は白色なのです。牛乳もそうです。私たちは牛乳を飲んでいますが、牛の血液を飲んでいるのです。つまり、血はいのちなのです。
  • 輸血したりする場合も、それは人の血液によっていのちを保つことができるからです。血がきれいな人は長生きをすると言われています。肉体のあらゆる部分は血液によって必要な栄養素が補給され、その流れを取り込むことによって生かされています。もし母親がたばこを吸ったり、アルコールを飲んで母乳を与えれば、ニコチンやアルコールも赤ちゃんに母乳を通してとりこまれてしまうのです。こわいことです。

② 私たちのために流されたイエス・キリストの血潮

  • 「血はいのち」だということを心にとめましょう。しばしばイエス・キリストの血を、血潮と言います。血潮とは単なる血、血液の意味ではなく、血が流れること、血が流されることーそれを血潮といいます。十字架の上で流されたイエス・キリストの血潮、その血潮を通して全世界の人々に、この私にも、神のいのちがもたらされるのです。
  • イエス・キリストの血潮は、母と子がいのちを共有するように、私たちと神との交わりをもたらす神の愛のいのちなのです。ちなみに、イザヤ書1章18節にこんなことばがあります。重要な神の宣言です。
    「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のようになる。たとい紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』と。
  • 「緋のように」とは、赤く二重に染めること(二度染め)です。どんなに紅くとも、雪のように、羊の毛のように白くなるとは、完全に罪が赦されて、神のいのちが注がれることを意味します。まさに、母親の血液が白い母乳となって赤子を生かすように、神の血潮によって私たちの罪を赦して生かそうとする神の宣言です。
  • 十字架の上のキリストから流された血潮がなければ、私たちの罪はきよめられることなく、だれも神に近づくことはできません。しかし、神はすばらしいことをしてくださいました。神のいのちを私たちにもたらすために、神ご自身の御子を通して生ける血を私のために注いでくださったのです。血はいのちです。血潮は神の聖なる愛のあらわれなのです。
  • 「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。ですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」という奨励についてお話ししました。イエスがご自身の血潮を私たちのために注いでくださったのですから、なんら責められることなく、大胆に、はばかることなく、堂々と、自由に、神に近づいて、神とより親しいかかわりを築いていきましょうということです。そうした新しい生ける道がすでに備えられているからです。そこは至聖所です。神の臨在に満ちあふれたところです。そこに私たちは招かれ、神と親しく交わることが許されているのです。ですから、共に、マリアのライフスタイルを築いていきましょう。

2. ますますいっしょに集まることをしようではありませんか

(1) 二人でも三人でも

  • 神の臨在が濃厚に表わされる時というのは、個人的に神と交わるときもそうですが、それ以上に、神の民が共に集まる所にもたらされます。主イエスは「二人でも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)と約束されました。この約束は、主にある私たちの集りの中に、主はより特別な臨在を表わされるということです。
  • ですから、25節にあるように、
    「互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意しようではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(24, 25節)という勧めがなされています。それゆえ、ひとりひとりが大胆に神に近づく恵みを頂くと同時に、主の御名によって集まることの重要性を知らなければなりません。
  • 当時この手紙が書かれた時代には、いっしょに集まることをしなかった人々がいたようです。つまり、集まることを重要だと考えなかったということです。
  • 聖書では、教会のことをギリシャ語で「エクレーシヤ」と言います。それは「呼び集められた者たち、集まるように召し出された者たち」を意味します。「集まる」ということの中に深い意味が込められているのです。召し出された者たちが、もし共に集まることをせずに、おのおのがそれぞれ勝手に過ごしたならば、教会は地の塩として、この世の光としての役割を果たすことができなくなります。教会はからだにたとえられています。からだのそれぞれの部分がうまくかみ合うことで、はじめてからだとして機能する仕組みになっています。自分一人くらい抜けたって大丈夫、と考えることは、からだのひとつの部分が機能しなくても十分にうまく生きていくことはできると考えることと同じです。確かに、身体の一部分を欠くような障害をもっていたとしても、生きている人は大勢いるかも知れません。だからといって、それが良いとは言えないはずです。
  • 健康な身体とはそれぞれの部分の働きが十分にバランスをもって生きているときです。教会もそうです。神は私たちが共に生きるように召し集められました。そしてそこに神の臨在が現わされ、神のみこころが示されていくのです。

(2) 共に励まし合って歩む共同体

  • 旧約聖書の創世記22章に、父と子がいっしょに歩んでいる光景が記されています。父とはアブラハムのこと、その子とはイサクのことです。父アブラハムが息子のイサクを連れて、モリヤの山(後のエルサレム)に行き、神が命じられたようにイサクを神にささげるシーンが出てくるところです。このモリヤの山に向かうアブラハムとイサクの親子の行動を記す記録の中に、「二人はいっしょに進んで行った。」、「ふたりはいっしょに歩き続けた」と記されています。
  • 二度も「ふたりはいっしょに」と書かれていることで、どんなにこの親子の絆が強く、深いものであったかをうかがわせます。なぜなら、二人の人がいたとしても、必ずしも「いっしょ」でないことが多々あるからです。いっしょであっても、共に前進し、継続しないことがあるからです。
  • 特に、創世記22章に見られるアブラハムとイサクの場合は、試練の中において「いっしょであった」ということが大切な点です。楽しいこと、納得できることの中でいっしょにいること、いっしょに進むことは難しいことではありません。しかし、説明のつかない事態の中で、なおもいっしょに歩き続けることはやさしいことではないのです。教会も同じです。
  • アブラハムの場合、息子のイサクを全焼のいけにえとしてささげなければならないという苦しみの中にありました。息子のイサクはそのことを知らされていませんでしたが、何か得体の知れない緊張と恐れが身を包むのを感じていたに違いありません。できれば逃げ出したい気持ちが父にも子にもあったと思います。ふたりのうちどちらかが、「もういやだ」と叫んでもおかしくない状況でした。ふたりのうちどちらかが欠けても成り立たない神のご計画の中に、ふたりは一緒に歩き続けたのです。
  • 試練の中でも、ふたりはばらばらにならず、立ち止まりませんでした。すべての必要を備えてくださる神を信じる父の信仰に子が従いました。そして、父を信頼する子に父が励まされたのです。
  • 私たちも教会におけるかかわりの中で、あるいはそれぞれの家庭におけるかかわりの中で、それぞれがアブラハムの立場であったり、イサクの立場であったりします。自分がアブラハムの立場の時もあれば、イサクの立場の時もあるのです。大切なことは、信頼し合って、励まし合って、「いっしょに歩む」ことではないでしょうか。
  • 当教会では、以前、一家族だけという礼拝が続いた時がありました。しかし私の家族は「ほんとうにいっしょに歩いてきた」と思います。私ひとりであれば投げ出していたかもしれません。そこにひとり、二人と、共に歩く者が加わっていきました。加わっては離れていくということもありました。そこにはいろいろな理由があったと思います。しかし召し集められた者たちは共に集まって、互いに励まし合っていく方向を絶えずもっていなければなりません。私たちはお互いに励まし、励まされる必要があります。
  • アブラハムとイサクのこの出来事のすぐ後で、神は彼らに何と約束されたでしょうか。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす、しかも空の星、海辺の砂のように。」と約束されたのです。そのことを覚えながら、今朝の二つ目の奨め(10章24, 25節)を心にとめたいと思います。ただ集まればいいというのではなしに、神の約束を信じて歩む励ましの存在、生きたかかわりの存在となれるように、自分を今一度、主の視点から見直したいものです。



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