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主の道を直ちに備えよ

9. 主の道を直ちに備えよ

【聖書箇所】 3章1~20節

はじめに

  • 今回のルカ3:1~20の箇所の中で、とても不思議な光景が見られます。というのは、7節の「彼(ヨハネ)からバプテスマを受けようとして出てきた群衆」という表現です。群衆がヨハネの方に吸い寄せられて来たというイメージです。しかもその群衆がヨハネから「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか」と言われても、また、「斧がすでに木の根元に置かれている」というさばきのメッセージが語られても、だれひとりつまずくことなく、群衆のみならず、取税人や兵士たちさえもヨハネのもとにやって来ては、おのおのが「私たちはどうすればよいのでしょう。」とヨハネに尋ねています。―これはとても実に不思議な光景です。当時の人々は歯に衣を着せぬヨハネのメッセージに震えおののいたのです。これほどに人々の心を惹きつけたヨハネのメッセージとはいったい何だったのでしょうか。

1. 荒野で叫ぶ者の声

(1) 内部改革の声

  • パレスチナにおいてマラキ以降、預言者が現われることは久しくありませんでした。その意味でヨハネの登場は新鮮だったと言えます。
  • 当時はアウグストによってもたらされた「パックス・ロマーナ」(ローマによる平和)が支配していました。次の世代、すなわち「皇帝テベリオ」の治世(3:1)においても変わりませんでした。そのような中で神の民であるユダヤ人は自分たちの民族的なアイデンティティを異邦人に対するかかわり方で表現していました。ある者たちはサドカイ派のように伝統的な神殿礼拝を司りながらローマの支配と妥協する道を取りました。反対に、パリサイ派律法学者たちは神の律法を厳格に守ることによってローマとの間に隔ての壁を作りました。あるいはエッセネ派のように、異国の支配から逃れるようにして社会から逃避し、砂漠や洞窟の中に隠れて共同生活をすることで自分たちのアイデンティティを守ろうとしました。熱心党などはローマに対してあくまでも武力で対抗する在り方で自らのアイデンティティを示しました。ところが、ヨハネの登場はそうした異邦人という外部に対してではなく、むしろユダヤ人(同胞)に向けた内部改革だったのです。

(2) 「神の救いを見る」ための悔い改めを迫る声

  • 「パックス・ロマーナ」は実現されたとしても、それは武力による平和であり、一見、平和のように見えてもさまざまなところで為政者の利得と不正がはびこり、収賄、賄賂は当たり前の社会、弱い者を搾取する歪みの多い社会の中で人々は恐れと不安の中で自己中心的に生きていました。そうした情勢の中で「神のことばが、荒野でヨハネの上に下った」(2:3)のです。まさに、「神の時が満ちた」と言えます。
  • ヨハネは単に人々にバプテスマを授けたのではなく、「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマ」の必要を「説いた」のです(3:3)。ヨハネの語るメッセージは非常に厳しいものでしたが、それは「あらゆる人々が、神の救いを見るようになる」(3:6)という希望に満ちたメッセージが明確に説かれたのです。それゆえに、人々は引き寄せられるようにしてヨハネのもとに集まってきたと考えられます。

2.荒野で叫ぶ者の声としての「二つの命令」

  • ヨハネの登場はすでに預言者イザヤが語っていました。ヨハネが何をどのように語るかも預言していたのです。そしてヨハネはそのように語りました。その語ったことばそのものに注目してみたいと思います。特に、最初のことばにある二つの命令形です。

    【新改訳】
    荒野で叫ぶ者の声がする。
    『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』


    【口語訳】
    荒野で呼ばわる者の声がする、
    『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』


    【エマオ訳】
    荒野で叫ぶ者の声がする。
    『主の道を直ちに備えよ。主の歩まれる道を真っ直ぐにせよ。』


    【ギリシャ語原文】
    Φωνὴ βοῶντος ἐν τῇ ἐρήμῳ,
    Ἑτοιμάσατε τὴν ὁδὸν κυρίου,
    εὐθείας ποιεῖτε τὰς τρίβους αὐτοῦ.
    (直訳すると)
    声、叫ぶ者、荒野で
    備えよ、主の道を。 
    まっすぐにせよ、主の歩まれる道を。

  • 最初の命令形である「備えよ」と訳された「ヘトイマサテ」Ἑτοιμάσατεはアオリスト時制の命令形であり、後者の「(まっすぐに)せよ」と訳された「ユーセイアス」εὐθείαςは、現在時制の命令形、能動態です。アオリストの命令形が意味することは、相手にある決定的な決断を促す意味を込めた命令です。エマオ訳はその意味合いを「直ちに」ということばを添えることで表しています。後者の現在形の命令形が意味することは、「~し続けなさい」、つまり「常に、継続的に、習慣的にそうし続けて行きなさい」という意味合いの命令です。したがって、ここでは、「主の道を決意をもって直ちに用意しなさい。(そして)主の通られる道をまっすぐにし続けなさい」という意味になります。その意味では、エマオ訳が一番原文に近い訳ということになります。
  • 似た用法として、ヨハネの福音書15章にある4節にあるイエスの「わたしにとどまりなさい」という命令もアオリスト時制です。決定的に、意志的に、直ちに「とどまれ」という意味です。そのあとの「わたしにとどまっていなければ、実を結ばない」の「とどまっていなければ」は現在時制の仮定態です。つまり、常に、継続的に、習慣的にとどまっていなければ実を結ぶことはないという意味です。
  • ギリシャ語の「命令形」には二つの型があります。それは「アオリスト(不定過去)命令形」と「現在命令形」です。ルカ3:4にあるのは最初に「アオリスト命令形」が来て、次に「現在命令形」が来るというパターンです。
  • 他に、「現在命令形」が先に来て、次に「未来時制」(命令形でなく直接法)が来るパターンを二つほど取り上げてみます。

    (1) ヨハネの福音書7章37節の場合
    「わたしのもとに来て飲みなさい」の「飲みなさい」は現在時制の命令形です。つまり、「飲み続けなさい」という意味になります。そうすれば、「その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになる。」とあります。「流れ出る」という動詞は未来時制です。未来時制の意味は、「必ず」そうなるということを意味します。つまり、未来においての確実な実現を意味します。したがって、ここでの意味としては、イエスのもとに来て飲み続けなさい。そうすれば、あなたの心の奥底から、必ず生ける水が流れ出続けるようになるという意味になります。このように訳すことによって、イエスとのかかわりがより目に見えるようになってきます。


    (2) マタイの福音書7章7節の場合
    「求めなさい。そうすれば与えられます。」の前者の命令「求めなさい」は現在命令形です。ですから「求め続けなさい」という意味になります。後者の「与えられます」は未来時制です。ですから「必ず、与えられます」という意味になります。つまり「求め続けるなら、必ず、与えられる」という意味になります。したがって、「期待しつつ、求め続ける」ことの大切さが語られていることになります。

  • ギリシャ語の二つの命令形(アオリストの命令形と現在命令形)を知ることだけでも、語られていることばがより立体的になって迫ってくるのです。

3. 悔い改めを迫られた人々の反応

  • バプテスマのヨハネのすばらしさは、厳しいメッセージをして、人々を単に震え上がらせただけではありません。神の救いを見るために、人々を説得して、明確な悔い改めの決意を促すことのできた人だったということです。その証拠に、群衆たちも、取税人も、ローマの兵士たちさえも、「私たちはどうすればよいのでしょう。」と尋ねています。「どうすればよいのか」の「する」はアオリスト時制です。つまり、具体的な行動をどう決断してなせばよいのかという意味で尋ねているのです。それに対して、ヨハネはそれぞれに違った方法で答えています。

    ①〔群衆たちに対して〕
    「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」(3:11)
    最初の命令「分けなさい」はアオリスト時制です。自分中心の生き方を明確な決意をもって改めることを促しています。その後の「そうしなさい」というのは現在時制です。「~し続けなさい」という命令です。

    ②〔取税人たちに対して〕
    「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」(3:13)
    「取り立てるな」というのは現在時制の命令です。「取り立てつづけてはならない」という意味。取税人というのは予め決められた額に上増しして私服を肥やしていました。それを今後一切し続けてはならないという意味です。

    ③〔兵士たちに対して〕
    「だれからでも、力づくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」(3:14)
    「ゆするな」と「責めるな」は、不当な行為をやめるよう明確な決断を促すアオリスト時制の命令です。「満足しなさい」は現在時制の命令で、常に、与えられたもので満足し続けるようにという命令です。

  • ヨハネは、異なる立場、異なる境遇にある人々に対して、「悔い改めにふさわしい(良い)実を結びなさい」(3:8)と具体的な悔い改めを迫りました。悔い改めることにおいて重要なことは、どこかで、決定的に、意志をもって決断するということであり、しかもそれを絶えず継続していくことです。そうした含みを持った命令に従う者たちに対して、ヨハネは「神の救いを見るようになる」ことを語ったのです。私たちはそんな悔い改めを主に対してしたかどうか、自分を振り返って、考えてみる必要があるのではないかと思います。

2011.6.2


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