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主は私の隠れ場

9. 主は私の隠れ場

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はじめに

  • 旧約聖書におけるキーワードでは、特に、重要な名詞を取り上げていきますが、今回は「隠れ場」と訳されたヘブル語の「セーテル」(סֵתֶר)を取り上げます。
  • 詩篇の中に「あなたは、私の隠れ場」(32:7/119:114)という信仰告白があります。この信仰告白はどのような告白であり、またその告白はそれを告白するものにとってどのような霊性をもたらしたのでしょうか。「隠れ場」というキーワードを選んだ理由は、それが今日のキリスト者にとって、再度、見直さなければならないと思われるからです。
  • ヘブル語の名詞「セーテル」סֵתֶרは「隠れ場」(shelter, refuge)とか、「ひそかな奥深いところ」(secret place, hiding place)と訳されており、それは同時に「主の臨在されるところ」でもあり、「御翼の陰」とも訳されています。「セーテル」は旧約聖書では35回の頻度で使われています。その源となっている動詞は「サータル」で82回の使用頻度です。いずれも詩篇の特愛用語(名詞は10/35、動詞は23/82)です。中でも、詩篇27:5と31:20と二つの箇所には、名詞と動詞がひとつの節の中で使われています。

(1) 27篇5節
新改訳
「それは、主が、悩みの日に私を隠れ場(סֹך)に隠し(צָפַן)、その幕屋のひそかなところ(סֵתֶר)に私をかくまい(סָתַר)、岩の上に私を高く上げてくださるからだ。」

新共同訳
「災いの日には必ず、主はわたしを仮庵(סֹך)にひそませ(צָפַן)、幕屋の奥深く(סֵתֶר)に隠してくださる(סָתַר)。岩の上に立たせ。」

※「それは」という意味はその前に記されている事柄を意味します。その事柄とは、ダビデが「ただひとつのこと」として求めていることです。つまり、主に家に住み、主の麗しさを仰ぎ見ることを意味しています。それはダビデの歩みの中に多くの悩みの日々があったためでした。その悩みの日は、ダビデをして主との親しい交わりの中に招く機会となりました。そしてダビデは主との深いかかわりの中で、しっかりとした岩の上に高くあげられることを経験したのでした。


(2) 詩篇31篇20節

新改訳
「あなたは彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそかな所(סֵתֶר)にかくまい(סָתַר)、舌の争いから、隠れ場(סֹך)に隠されます(צָפַן)。」

新共同訳
「御もと(סֵתֶר)に彼らをかくまって(סָתַר)、人間の謀(はかりごと)から守ってくださいます。仮庵(סֹך)の中に隠し(צָפַן)、争いを挑む舌を免れさせてくださいます。」

※詩篇31篇では、主がダビデを詩篇27篇にあるような「悩みの日」だけでなく、人からのそしりや人との舌の争いから守るためにも、ダビデをひそかに所にかくまわれたことを記しています。これは恩寵としての秘密の場所にダビデが招かれ、導かれたということを意味します。


1. 主によって、「セーテル」(סֵתֶר)の中に隠された人として「モーセ」と「ダビデ」

  • 神の「隠れ場」に身を避け、そこに住み(とどまり)、神のみことばを待ち望むことは、力を得ます。上掲の詩篇におけるダビデも、た預言者エリヤも、そしてイエス・キリストも使徒パウロもみな「隠れ場」を知っていました。モーセも然りです。

(1) モーセ

  • モーセはシナイ山のふもとで不思議な光景を見ました。燃え尽きることのない柴の情景です。そしてそこから神がモーセを召し出したのです。だれもそれを見た人はいません。神とモーセのきわめて個人的なかかわり、秘密の場所でモーセは神からの召命の声を聞いただけでなく、神との対話を経験したのです。
  • この経験はモーセと神との交わりの形となります。やがてモーセはイスラエルの民をエジプトから連れ出してシナイ山に行きます。神は暗闇の中に住まわれます。モーセは密雲の山を登り、40日40夜、その山にいたと聖書は記しています(出24:18)。そしてモーセはその山で神の律法を授けられて、山を下ります。最初、彼が山を下りてきたときに、イスラエルの民は金の子牛を礼拝して、飲むや歌えの「どんちゃん騒ぎ」をしていました。モーセはそれを見て怒り、神から与えられた律法の板を投げつけました。そのあとにモーセは再度、山に登り、再び、40日40夜、過ごして律法の板をもって山を下りてきます。そのときのモーセの顔は光を放っていて、だれもモーセの近づけなかったとあります(出34:30)。そのためにモーセは顔に覆いをかけて、イスラエルの人々に語りかけたのです。
  • 40日40夜、主との親密な時を過ごしたことで顔に光を放つほどになっていたのです。そのことをモーセは知りませんでしたが、他の人々が自分に近づかないことで、そのことを知ったというわけです。主の「隠れ場」、シークレット・プレイスに身を置くことは神の特別な光、臨在の光がその人を覆うようです。

(2) イエス

  • 神から遣わされてひとり子のイエス・キリストも公生涯に入られるときに、御霊に導かれて、荒野で40日40夜、神とともに過ごされました。モーセの場合、断食したとは明確に書かれていませんが、イエスの場合は断食をしながらその40日を過ごされたのです。顔に光を放っていたかどうかはわかりませんが、敵であるサタンの誘惑に勝利する力を与えられたことは確かです。神からの力ある油注ぎを受けて、福音の宣教を開始されたのです。
  • 今日においても、神は私たちを「シークレット・プレイス」に、「隠れ場」に招こうとしているのです。ひとりになることができない人は、とてもこの招きに応じることはできないでしょうね。またそのような人は神から与えられる特別な力を経験することもないのです。神からの啓示(隠されている真理が開かれること)、神のための奉仕に必要な力としての油注ぎ、また、神からの知恵に満たされるためには、神とともに静かに過ごす親密な時が必要なのです。そして神は神の隠れ場の中に過ごす人々を通して、霊的な閉塞感の状況を打ち開かれます。「神の隠れ場の中に過ごす」ことを「祈りの生活」とも言いますが、私たちの考えるような「日々のデボーション」というみことばを読んでそして祈るという限られた短い時間のことではありません。神が求められているのはもっと多くの時間を神とともにすごすという意味での「隠れ場」なのです。ダビデはことのほか「隠れ場」を大切にしました。ダビデの霊性の源泉は「隠れ場」にあります。

2. 「隠れ場」の新約的表現

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  • その「隠れ場」という思想を新約的に表現するとどうなるでしょう。それは「キリスト」ということになります。とすれば、「隠れ場であるキリストのうちに隠れる」とはどういうことになるでしょう。
  • イエスは十字架にかかられる前の晩に弟子たちにこう語られました。「わたしにとどまりなさい」(正確には「とどまり続けなさい」という意味です)。「わたしのことばにとどまり続けなさい。」「わたしの愛の中にとどまり続けなさい。」と。イエスがここで使っている「とどまる」ということばは「メノー」μενωという動詞です。ヨハネの福音書ではきわめて重要なキーワードです。それをイエスは、御父と自分とのかかわりを表わすことばとしてイエスは自らの経験を土台として使っているのです。つまり、「わたしが父にとどまっているように、あなたがたもわたしにとどまりなさい。」という言い方です。御子イエスが御父にどのようにとどまっていたかはだれもわからないのです。しかしそのとどまりが「イエスの霊性」としてあらわされているのです。イエスの語ったことば、イエスのなしたすべての行為は、御子であるイエスが御父にとどまりつづけた、あるいは、とどまりつづけていることのあかしそのものなのです。
  • 「御父に御子がとどまること」、「私たちが御子イエスにとどまる」ことは、いずれも外からはだれも覗くことはできせん。だれにも見えない秘密の場所にいるからです。しかし、そのとどまりの結果として、いのちと光は人の目にも現われてきます。そのようないのちの秘密、交わりの秘密の世界へと主は私たちを招こうとしています。しかしその世界はとても神秘に包まれています。奥深いのです。
  • ヨハネの福音書において最初に「メノー」μενωという動詞が使われている箇所はどこか。それはどうすれば知ることができるでしょう。それはギリシャ語のコンコルダンスを調べればわかります。
  • 新約聖書中、ヨハネの福音書では全体の118回のうち、40回も使われていることがわかります。新約聖書の中では特段に多い数です。そのヨハネの福音書の最初に使われている箇所は1章32節です。そこにはこうあります。バプテスマのヨハネがはじめてイエスと出会った時です。そのときヨハネはこう言っています。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。」。この「とどまる」という所に「メノー」が使われています。御霊がイエスにとどまったがゆえに、イエスは神のことばを自由に語ることができたのです(3:34)。
  • さて、ここで知ってほしいことは38節と39節に使われている「メノー」μενωです。バプテスマのヨハネが「見よ。神の小羊」と言って指し示されたイエスに関心をもって、ヨハネの二人の弟子がイエスについて行って、こう尋ねます。「先生(ラビ)、今どこにお泊りですか。」と。ここでの「泊まる」ということばが「メノー」の現在形です。その質問にイエスは答えられます。「来なさい。そうすればわかります。」そこで二人はイエスについて行って、イエスの泊まっておられる(「メノー」の現在形)ところを知ったのです。そしてその日彼らはイエスといっしょにいた。」とあります。「いっしょにいた」ということばも「メノー」です。イエスと「一緒にいた、あるいは一緒に過ごした。」 つまり「過ごす」イコール「泊まった」(アオリストで彼らは自分の自由意思で泊まった)のです。するとどうなりましたか。彼らはこのイエスが「メシア」であることが分かったのです。霊の目が開かれたのです。つまり、「とどまる」「泊まる」と訳される「メノー」には霊的な事柄に目を開かせるという面があることがわかります。そのことを踏まえながら、これから開く聖書の話をお聞きいただきたいと思います。

3. 「メノー」(「泊まることにしてある」という神の秘密)

  • ルカの福音書19章に有名な「取税人ザアカイの話」があります。このザアカイの話で意外と気づかない視点があります。それはイエスが「泊まることにしてある」と言われた言葉です。「~しようとしている」というのは神ご自身の必然があることを表わす「デイ」δειという動詞です。この動詞は、ヨハネの福音書4章にあるイエスとサマリヤの女との出会いにも使われています。「主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」(4:3~4)。なぜサマリヤを通って行かなければならなかったのか。それはそこに必ずそうしなければならない神の必然があったからです。事実、イエスはそのサマリヤの地でひとりの女性と出会い、永遠のいのちを与えることができたのです。彼女の証言によってサマリヤ人のうちの多くの者がイエスを信じたのでした(ヨハネ4:39)。
  • 話を戻しますが、イエスとザアカイの出会いの必然の内容として「泊まる」ということばがあります。「泊まる」とは、先ほども取り上げたように、ヨハネの福音書の最も重要なキーワードである「とどまる」の「メノー」μενωです。
  • ザアカイは悔い改めて救われることができたけれども、その後はどうなったのかという話があります。しかし聖書はその後のザアカイの歩みを想定できるように記されています。それは「キリストのうちに」彼がとどまるということです。そうなるようにしてあるとも解釈できるのです。もし、ザアカイがキリストのうちにとどまることをせずに、その枠から出てしまったならば、このザアカイの話の意義は薄っぺらなものとなるでしよう。イエスが自らザアカイのうちに、ザアカイもイエスのうちにとどまることができる。そうなることを想定して、「きょう、救いがこの家(―ザアカイ個人のみならず、その家族も含めた人々―)に来た」ことが重く語られるのです。

最後に

  • 今回のテーマは、「隠れ場」です。それは神による保護、守りを意味するだけではありません。それ以上にこのことばは、神とのより親密なかかわりを示す言葉です。旧約の「隠れ場」は、新約では「キリスト」です。「隠れ場に隠れる」とは、新約的には「キリストのうちにとどまる」と同義です。イエスは言われました。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)
  • もし、私たちが神の「隠れ場」の外に出るようなことがあれば、どんな人も罪を犯し、多くの実りは約束されません。私たちの周りには、神の「隠れ場」に隠れるよりも、それを妨げようとする多くの娯楽や楽しみがあります。それ自体はなんら悪い物ではなくても、神によるいのちの世界の外に私たちの関心を持たせるものが多くあります。たとえば、私たちはこの世の動きを知るためにニュースを聞く必要があると思いテレビをつけます。しかしニュースをどれほど多く聞いたとしても、霊的ないのちはそこからは何一つ与えられません。これまでの神に用いられた人々の多くは、神の隠れ場に身を置いたことを思い起こして、それをより大切にする心を持ち、その隠れ場により多くの時間をもつようにする工夫をしたいと思わせられます。あなたはその神の招きを感じないでしょうか。消極的な隠遁ではなく、積極的な隠遁への招きです。その招きの声をあなたの心に聞くことはないでしょうか。その声を聞く者は幸いです。そのものを通して神のいのちは開花されていくと信じるからです。まずは、神を求める渇きがひりとひとりに与えられるようにと祈ります。

2012.8.12


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