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主イエスの友(10) イスカリオテでないユダ②

主イエスの友(10) イスカリオテでないユダ②

―イスカリオテでないユダの問いかけ②―「問いかけシリーズ」(7)

「キリストのうちにとどまる」

はじめに

  • イスカリオテのユダではないもうひとりのユダが問いかけた問いー「主よ。あなたは、私たちにはご自身を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」―に対するイエスの答えは、なおも引き続いています。
  • 前回で主イエスは、「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。」(16:23)―つまり、世には、直接に「わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住む」ということはできません。それゆえ、この世には神との親しい愛のかかわりを現わすことができないーということを暗に答えています。
    「わたしたち(つまり、御父と御子)はその人のところに来て、その人とともに住みます」という祝福―岩波訳では「私たちは彼のところに来て、彼のもとに住処(すみか)を設けることとなる。」と訳していますー。We make our home with him.
  • 英語では、
    My father will love him, and we will come to him and make our house with him.
    永遠の愛のかかわりをもっておられる御父と御子が、御子を愛し、その戒めー愛し合うーを守る人のところに来て、その人と家を共にする、つまり一緒に住むということになります。「住処を設ける」、「愛のホームを造られる」というのです。
  • 実は、これは14:16, 17で「助け主」である御霊が与えられるとあります。この方が私たちの「間に」、私たちの「そばに」、そして私たちの「うちに」おられることによって、「御子が御父におり、御父が御子におられる」ということだけでなく、私たちが御子におり、御子が私たちにおることが分かる、つまり、信じることができるという意味」とありましたが、これは、御父と御子が私たちと家を共にするということと同じことを意味しています。
  • するとどういうことになるのか言いますと、助け主である御霊が私たちに与えられて、私たちの間に、私たちのそばに、そして私たちのうちにいるということと、御父と御子が私たちとともに住むということがイコールということになります。
  • 御霊は御父からも御子からも遣わされる方として表現されています。その御霊が私たちのうちに宿っておられる(とどまる)ことと、御父と御子が私たちとともに住むこととはイコールなのです。ここで大切なことは、聖霊を通してそれがなされるのではありません。御霊が私たちのうちに宿っておられることと、御父と御子が私たちとともに住むことが、同時に起こっているのです。つまり、三位一体の神が私たちと住まいを同じくしているという霊的現実が起こるのです。神と共に住むことで、私たちは神の愛というゆるぎないかかわりの中に生かされているということを日増しに体験していくことができるのです。そのことを通して、神はこの世にご自身の愛を現わそうとしているのです。この点は私たちが繰り返し、失敗しているところでもあります。ですから、繰り返し、悔い改めて、神がしてくださったこと、そしてそれが今もなお継続してなされているところにいつも立ち返ることが求められています。神のゆるぎない愛を信じて、その愛の中に生きることが、私たちのなすべき最も大切なことなのです。

1. わたしのうちにとどまりなさい

  • ヨハネの福音書15章1~10節には10回、繰り返して使われている語彙があります。それは「とどまる」という動詞(メノーμενω)です。このことばは、ヨハネの福音書、ヨハネの手紙における最も重要な用語です。これは神と人とがかかわりを持つ上で大切なことばなのです。
  • 「メノー」ということばの一般的な意味は、ある人があるところにある期間「滞在する、泊まる、宿泊する、住む、いっしょにいる」という意味です。聖書の中でイエスと短い期間、過ごした者がどういう変化をしたのかを少しここで見てみましょう。
  • イエスと一時的に過ごした人々

    (1) アンデレ&ヨハネ
    パブテスマのヨハネの弟子であったアンドレとヨハネと共に立っていたが、イエスが歩いているのを見て、ヨハネが「見よ、神の小羊」と言うのを聞いて、関心を持ち、ふたりイエスについて行った、そして彼らは「イエスと一夜を過ごした。」すると、―「私たちはメシアに会った(正しくは「見出した、見つけた」。」と言ってペテロに伝えた。

    (2) 取税人ザアカイ
    イエスを自分の家に招いて泊めた。なぜなら、イエスから直接、「きょうは、あなたの家に泊まることにしてある」というイエスのことばを聞いたからである。―取税人であり、守銭奴であったザアカイは、自分の財産の半分を貧しい人に施し、だまし 取った物は、例外なく四倍にして返すという、まさに180度の人生の転換をしました。

    (3) エマオの二人の弟子
    イエスがメシアであると期待してイエスに従って行った二人の弟子。しかしエルサレムでの十字架の出来事によって彼らの期待は完全に打ち砕かれ、失望落胆して自分の住む村に向かって帰っていく途中で、イエスが同伴します。彼らはイエスを自分の家に招き泊まるように願いました。彼らはもっと話を聞きたいと思ったのです。その招き入れた人がイエスだとわかりました。彼らは、聖書の理解に目が開かれ、悟りを与えられ、心燃える経験をしたのでした。」

  • このように、わずか1日だけでもこれだけの影響を受けたとすれば、それが継続的にイエスにとどまり、イエスに繋がって生きるとき、どんなことが起こるか想像が及ばないほどです。どんな結果がもたらされるか「言わずもがな」です。おそらく「こんな自分になるとは、全く思いもよらなかったと」言えるほどのことが起こると思います。
  • 事実、私たちがキリストのうちにとどまり、キリストも私たちのうちにとどまるというかかわりがなされるとき、そのような人には次のような約束が記されています。

    ①多くの実を結ぶ。
    ②なんでも求めるものはかなえられる。
    ③生きる喜びに満たされるようになる。

  • 「メノー(とどまる)」ということばの最も重要な点は、「滞在する、泊まる」といった一時的なことではなく、永続的な、一回的な決心に基づくもので、「神とのより親密な深い交わり」を意味します。15:4の「とどまりなさい」と命令形で記されていますが、時制としては、「アオリストAorist」時制と言って、ギリシャ語特有の時制があるのですが、それははっきりとどこかで決定的な、一回的な決断をしてしまうということです。
  • ところで、「とどまる」―「わたしのうちにとどまりなさい。わたしもあなたがたのうちにとどまります。」というのはどんなイメージなのでしょうか。どういうことがとどまることなのでしょうか。一緒に過ごす、どこかに泊まってまでも親しく過ごすということも、とどまることなのですが、15:4の「とどまる」は決定的な決意によって、継続的な生きた親しいかかわりを持つことを意味します。どうすればそのようなかかわりを正しく理解し、それを自分のものとして経験することが出来るのでしょうか。それが今朝の大きな問いかけです。

2. 「とどまる(メノー)」の源泉(原初のあり方)に目を留める 

  • 私たちがキリストにとどまるということを正しく理解するためには、御子イエスが御父にどのようにとどまられたか、とどまりの源泉である御父と御子のかかわりに目を留めることです。私たちがどんなに熱心に奉仕したとしても、それだけでは「とどまる」ことにはなりません。礼拝に休まず来たとしても「とどまる」ことにはならないのです。神のために何かをすることで「とどまる」ことができるわけではありません。「とどまる」ための正しい「視座」(ハースペクティブ)が必要です。つまり、とどまりの原初(オリジナル)にいつも目を留めることです。
  • 三位一体である神―御父と御子、そして御霊―は、永遠において、互いのうちにとどまり合っている関係なのです。御子は御父のふところにおられたひとり子(特別な存在であることを表現する)です。いまだかつてだれも御父を見たものはいないのですが、御父のふところにー最も親密なかかわりをもっていることを表わすーおられたゆえに、御子だけが御父のことを正確に解き明かすことのでき方であることをヨハネは述べています。
  • 御父にとどまられた御子、御子にとどまられた御父、御子にとどまられた御霊、そのとどまり方がいかなるものであったかをヨハネは特に強調しています。まずは御父にとどまっておられた御子イエスは、繰り返し、繰り返しなんども語っていることがあります。それは「父がわたしにおられ、わたしが父にいることを」―わたしと父とは一つですということをいろいろな表現をもって語っています。

①5:19
「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分から何事も行ないません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」

②6:38
「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。(同義的並行法)事実、私の父のみこころは、子を見て信じる者が永遠のいのちを持つことです。」

③8:26
「わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。

④8:28
「わたしがわたし自身から何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話している・・わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。(なぜなら)、わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行うからです。」

  • このように御子が御父にとどまることができたのはなぜでしょうか。御子は神として本来、御父のふところにおられた方です。しかし、御子はそこからこの世に人となって御父から遣わされました。そのとき、御子イエスは神でありながらも、人として生きることを選ばれたのです。神であることをやめたのではありません。神であることに固執すること無く、その神としてのあり方を捨てて、ご自分を無にしてしもべの姿をとって仕えられたのです。つまり、御父から与えられるすべてのものによって生きるために、ご自身を空っぽにして、御父に信頼し、依存して生きるべく「貧しい者」となられました。「弱い者」となられたのです。その御子がどのようにして御父のことばを私たちにそのまま語ることができたのは、実は、御霊が御子にとどまっておられたからでした。そのことを裏付けるみことばを見ましょう。
  • バプテスマのヨハネがイエスが公生涯に入られる時に、バプテスマを受けられたその時、「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。」(ヨハネ1:32)
    それゆえ、御子イエスは、御父のことばを御父が語るように話されました。なぜなら、御父が御霊を無限に与えられるからである。」とあります(ヨハネ3:34)。

3. 三位一体なる神のゆるぎない愛と信頼を証言する詩篇の世界

  • 私たちが「キリストのうちにとどまる」(ヨハネ15:4)ためにも、あるいは、私たちが「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいる」(ブル人への手紙のキーワードである12章2節)ためにも、神様は私たちに『詩篇』を与えてくださっています。詩篇は神にある者が神に向かって、あるときは、敵の様々な迫害の中で、あるときには信仰の知恵に支えられて祈っている姿が見られます。しばしば詩篇の作者が「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」、「どうして」、「なぜ」、「いつまで」といった神に向かって問いかける祈りが見られますが、こうしたことばは、決して不信仰なことばではなく、より深い神との信頼を築き直すためのプロセスにある詩篇独特の表現法なのです。神の不在を思われることばか出てくる詩篇では、決まって、より揺るがない信頼へと導かれている姿を見ることが出来ます。
  • 詩篇は、その意味で、永遠のゆるぎない三位一体の神の愛と信頼の交わりを指し示し、その世界へと私たちを招く「永遠のいのちに至る門」ということが出来ます。ただ、その「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです」(マタイ7:14)とイエスは言われました。
  • それゆえ、イエス・キリストはユダヤ人たちに言われました。
    「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:39, 40)と。

(1) キリストにとどまるための詩篇の新しい味わい方

①詩篇の構成メンバー


②キリスト証言として詩篇を味わう

  • a. 詩篇を、御子イエスご自身がこの地上で御父に対して祈られた祈りとして理解する。
    キリスト証言としての詩篇。実際に、主イエスはこのような美しい祈りをもって、日々この地上で過ごしておられたと言えます。
  • b. 人となられた御子の祈りとして
    御子イエスは地上においてインマヌエルというユニークな存在であられた。しかし、自ら、神としてのあり方を捨てられ、ご自分を無にして仕えるしもべの姿をとられた。御子イエスは自分を「卑しくし」、「貧しい者」、「無力な者」となられて、完全に人間として御父に対する信頼と依存によって歩まれた。御子の地上での歩みは、御父を絶えずご自分の「避け所」として御父にととどまっておられた。
  • c. 人となられた御子にとどまる
    「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない(アフォラオーαφοραω)ようにしなさい。」(ヘブル12:2)とあるように、詩篇を通して祈られた御子イエスに私たちが日々とどまることによって、御子イエスの御父に対する全き信頼が養われてきます。しかも、援護者としての聖霊の励ましがどのように寄り添っているかに注目します。詩篇の中には、一見、不信仰から発したしたように見えることばがある。しかし、それを打ち消すような信頼のことばがあとに出てくることが多いのです。これは後者を強調するための詩篇特有の表現です。

(2) 詩篇の瞑想の例として(詩篇27篇)

  • 詩篇27篇における「御父、御子、御霊のかかわり」を見てみましょう。ここには御父の語りかけはありませんが、「御父の家に住む」こととその祝福が述べられている。御霊のささえとしては、作者の内に語りかける8節の「わたし(御父)の顔を、慕い求めよ」、それに最後の節の「待ち望め、主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を」と御子に向かって呼びかけ、励ましを与えている人称なき御霊の存在があります。
  • つまり、祈り手である御子は、御父に対する真摯な信頼と内なる御霊のささえによって、その信頼をゆるぎないものとしている。

まとめ

  • 今日、多くの教会において、三位一体の神―父・子・聖霊ーを讃える頌栄から始まり、頌栄に終わる礼拝をしながら、通り一篇の礼拝「式」で終始しています。三位一体のゆるぎない愛と信頼という永遠のいのちの世界に招かれていても、そのいのちの世界に気づかずにいることが多いのです。それは礼拝式という形に囚われているからです。かつてマルチン・ルターが教会の最初の殉教者は「主の祈り」だと言いましたが、私は、それに加えて、三位一体の神を讃える頌栄であると言いたいのです。御子を強調する教会、御父を特別に強調する教会、御霊なる神を最も強調する教会―どこかを強調すれば、そのいのちの交わりにおいて歪が起こります。歪が起こるということはバランスが崩れるということです。私たちは神という抽象化された存在ではなく、いつも、常に、動き、生きている神、きわめて流動的な交わりの存在である神、すべての面を平等に語ろうとすれば、私たちも常に語っていなければならなくなるほどに密接なつながりを持っておられる存在―それが三位一体の神です。
  • 御子イエスを知り、その方の語られる御父を知り、私たちのそば(かたわら)で、私のうちにあって援護される「助け主」の存在を、私たちは「主の友」として、より親密に知ることが許されているのです。三位一体なる神の秘密は、「しもべ」ではなく、「友」にのみ許されている事柄です。イエスはご自分の弟子たちに言われました。
  • 「わたしはもはやあなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことを、みなあなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15:15)
  • 願わくば、私たちを「友」と呼んでくださるキリストにしっかりと「とどまる」ことが会得できますように。


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