****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

主イエスの友(2) 洗礼者ヨハネ

主イエスの友(2) 洗礼者ヨハネ

  • ヨハネの福音書には主イエスの友となった者たちが登場します。それぞれ「友」であることのさまざまな面を描いています。今日はその友の中から、洗礼者ヨハネを取り上げます。

1. 花婿の声を聞いて喜ぶ友人 (主役と脇役)

  • 聖書の箇所は3章29, 30節です。
  • 3:29 花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。3:30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。
  • これは洗礼者ヨハネが語った言葉です。ここでいう「花婿」とはイエス様のことであり、「花婿の友」というのが自分自身を指しています。洗礼者ヨハネのイエスに対する友情がよく表わされている言葉だと思います。あくまでも花婿が主役で、友人は脇役です。友人は花婿の声を聞いて大いに喜んでいるというのです。ここには花婿である者に対してなんの嫉みもありません。友人として主役の花婿のことばに耳を傾け、その喜ぶ姿を見て、自分も共に喜んでいるのです。しかも、30節には「あの方―つまり花婿としてのイエスーは盛んになり、私は衰えなければならない」とも言っているのです。
  • 先に舞台に登場したのは、洗礼者ヨハネの方です。彼の働きは当時の人々にとってとても大きな影響を及ぼしました。おそらく彼のメッセージは鋭く、多くの人々が彼のメッセージを聞いて身震いしたことと思います。ですから、大勢の者たちが洗礼者ヨハネのもとに来て、話を聞いて、悔い改め、洗礼を受けたのです。
  • ヨハネとイエスとの年齢は半年ほどしか離れていません。ほとんど同い年とみて良いと思います。しかも、彼らは従兄弟同士です。イエスの母のマリアとバプテスマのヨハネの母エリザベツとは親戚関係であったからです。従兄弟関係で育ったイエスに対して、ヨハネは終生、その先駆者を務めました。人々はヨハネがメシアかエリヤではないかと思ったほど、ヨハネは熱烈に受け入れられ、その存在を重く見られました。にもかかわらず、ヨハネは決して自分が「その人だ」とは言わなかったのです。むしろ、ヨハネは「その方は私の後から来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値打ちもありません。」(1:27)と答えています。
  • 「すべての人を照らすまことの光」であるイエスと比べるならば、洗礼者ヨハネは「その光についてあかしするだけの存在でした。「光」そのものではなく、「光」について証言するという存在、そのような召しが神から与えられていたのです。どんなに人々から受け入れられようとも、それ一時のことであり、やがて陽の目を見るのは、自分ではなく、自分のあとから来る者。その立場に終生、甘んじながら、あとから来る方を喜ぶという花婿の友人としての立場を貫いた人です。
  • ヨハネの弟子たちが、後からその働きを開始されたイエスの方に人々が流れていくのを見て、自分の師であるヨハネに向かって、「見てください。多くの人があの方の方に行っていますよ。これでいいんですか。」と心配そうに報告しました。そのとき洗礼者ヨハネが言ったことばが実は、先の3章29節、30節のことばでした。
  • 私たちの多くが、自分のことばかり考え、自分の都合、自分の面子、面目、自分の地位などを気にしているのに対して、洗礼者ヨハネは相手が広く知られるならば、自分が忘れ去られることになってもそれを喜ぶ、そうした友情を洗礼者ヨハネはイエスに対して表わしています。
  • 逆に、このヨハネに対するイエスの友情はどうでしょうか。個人的に直接会話したのは、イエスが洗礼を受けたときだけです。しかし、ヨハネの福音書には、イエス自身がバプテスマのヨハネのことを紹介している箇所があります。イエスはヨハネのことを「彼は燃えて輝くともしび」(5:35)です。これは最高の賛辞と受け取ることができます。確かに、キリストのように「光」ではありませんでしたが、しかし特別な「ともしび」でした。特別な力と輝きをもって「燃えて輝くともしび」としてヨハネをたたえています。原文では正しくは「彼は燃えて輝くともしびであった」と過去形で記されていて、おそらく主イエスがヨハネのことを語った時にはすでに牢につながれていたか、あるいは死んでいたのではないかと思います。少なくとも公の宣教活動からは退いていたことがうなずけます。いずれにしても最高の賛辞がなされています。

2. イエスと洗礼者ヨハネに類似する友情―ヨナタンとダビデの友情―

  • イエスに対する洗礼者ヨハネの友情を深く印象付けるために、それと良く似た友情の話をつけ加えたいと思います。それは「ヨナタンとダビデの友情」です。
  • 旧約聖書のサムエル記第一18:6~8【新改訳改訂第3版】
  • 18:6 ダビデがあのペリシテ人を打って帰って来たとき、みなが戻ったが、女たちはイスラエルのすべての町々から出て来て、タンバリン、喜びの歌、三弦の琴をもって、歌い、喜び踊りながら、サウル王を迎えた。7 女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」8 サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」9 その日以来、サウルはダビデを疑い目で見るようになった。【新共同訳9 「この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。」
  • だれかが立派なことをしたことが伝えられますと、いつでも、それをほめる人とけなす人が出る者です。立派なことをしたとすればそれをほめるのは当たり前なのですが、しかし誰もがほめるとは限りません。その人の一番身近な人が一番喜んでくれるかと、そうでもありません。これが私たちの悲しい現実であり、だれもが何らかのかたちで大なり小なり経験していることです。
  • ダビデはそれを経験しました。そしてそれが彼の生涯を決定するような由々しき事態へと展開していきます。サウロは「疑いの目で」ダビデを見るようになりましたとあります。「疑いの目で見るようになった」という所を、新共同訳では「ねたみの目で見るようになった」と訳しています。それ以来、サウルは、ダビデに対して嫉みから憎しみへ、憎しみから敵意へ、敵意から殺意へとサウルの心は変わっていったのです。
  • 私たちはダビデの側に立つこともあれば、サウルの側に立つこともあるのです。ダビデは嫉みに苦しむひとりの人間によって長い間苦しめられ、追われる生活を余儀なくされました、常に、死の危険にさらされました。そうしたダビデを助けようとし、支えた一人の友人がいました、それがなんとサウルの息子ヨナタンだったのです。ダビデとヨナタンの関係を通して、真の友情とはなにかを私たちは知ることができます。
  • ダビデに対するヨナタンの友情は、ダビデの人生に大きな影響を与えました。そこでダビデに対するヨナタンの友情がどういうものであったか、その特徴を見てみたいと思います。

(1) 神によって結びつけられた友情

  • 18:1前半の「ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。」ここのことばは正確には受身形です。つまり、「結びつけられた」という意味。とすれば、だれが結びつけたのか。ダビデ?いや、それは主ご自身ということではないかと思います。「人生は出会いで決まる」と言いますが、人と人との結びつき、人と神との結びつき、出会いと言うものを考えてみると、そこには摂理的としか言いようのない何かが働いているのを感じるものでする
  • 友人といっても気持ちの上での親しさや、お互いの利益が一致しているということであるなら、いつ壊れてしまうかわかりません。脆い人間の愛が頼むに足るものとなるためには、何が必要でしょうか。それは友情の中に神がいてくださることです。神が保証してくださることです。ヨナタンがダビデに言ったことばの中にこういうのがあります。「あなたとわたしとで話し合ったことについては、主が常にあなたとわたしの間におられます。」おそらく、ヨナタンの心の中にダビデに対する友情は神から出たことという確信があったのかもしれません。私たちにとっても、真の友情との出会いは、神からの賜物として与えられているということです。
  • ダビデの生涯にとって幸いなことは、ヨナタンという友人を、神から与えられたことでした。神はヨナタンを通してダビデを守られたのです。

(2) 私欲のない友情(無私の友情)

  • ヨナタンのダビデに対する友情は、純粋に無私私欲のないものでした。この二人は洗礼者ヨハネとイエスの場合のように同年代ではなく、おそらくヨナタンの方がかなり年長であったと思われます。また、この二人の立場も正反対でした。ヨナタンは王の息子であり、ダビデは王の家来です。本来ならば、ヨナタンは父サウルと同様、王位をおびやかすダビデに対して、普通ならば、敵対感情をもちやすいところです。ところが、ヨナタンはダビデを祝福するかのように彼を助け、励ましたのです。
  • 人は同じような立場にある人のために、自分から身を引いて、引き下がるなどというのは滅多にしないものです。ダビデが出現しなければ、当然、ヨナタンはイスラエルの第二の王となっていたかもしれません。またそれだけの資質を備えていました。
  • 本来ならば、ライバル同士であるダビデに対するヨナタンの友情、これこそ彼の信仰的勇気にもまさって、さらに特筆すべきこととして、聖書の中に不朽の名をとどめるに至ったと言っても過言ではありません。

(3) 首尾一貫して変わることのない友情

  • 19章にはサウル王が、とうとうダビデに対して殺すつもりであることを、ヨナタンはじめ家来たちに告げたことがしるされています。ヨナタンは心を痛めて、父サウル王に懸命にとりなします。
  • このとりなしに(進言)よって、サウルは一度は思い直し、聞き入れますが、それも束の間、再びダビデを殺そうとし、事態はますます悪化の一途をたどります。父とダビデの狭間に苦しみながら、ヨナタンはなんとかダビデのいのちを救おうとします。ヨナタンのダビデに対する友情は、首尾一貫して変わることがありませんでした。またヨタナンは憐れで孤独な父サウルに対して、生涯、忠誠を保ち続けた人でした。
  • ダビデがやがてイスラエルの王となり、王国の祝福と繁栄を前にした時、ダビデの心は失われ、忘れられ、弱く、寂しく歩む者たちの上に注がれました。それはヨナタンの友情が背景にあるからだと思います。ダビデはヨナタンとの間に結んだ誓約のゆえに、ヨナタンの息子メフィボシェテを王宮に迎え入れ、王である自分と食卓を共にする特権を与えました。王宮に迎え入れられるには不適格な者であった足の不自由なメフィボシェテでしたが、王子のごとく受け入れられたのです。ダビデはヨナタンの友情に対してこのような形で答えたのです。

最後に

  • ダビデに対するヨナタンの友情は真の友情を私たちにみせてくれます。しかし、自分にはそんな友人いないし・・と寂しく感じられる方もおられると思います。しかし、私たちにはヨナタンに勝る方がおられるのです。ヨナタンよりも大いなる方が「わたしはあなたを友と呼びます」と言って下さっているのです。
  • 向こうから、つまりイエス様の方から、私に、あなたの友となってくださる方がいるのです。友と呼んでくださる方がいるのです。ダビデの生涯は、ヨナタンの友情なしにはあり得なかったように、そのヨナタンの友情も神がダビデに賜物として与えたように、ヨナタンに勝る方の友情が注がれていることを心にしっかりと留めたいと思います。



powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional