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主イエスの友(3) ナタナエル

主イエスの友(3) ナタナエル

ー「さらに大きなことを見る」と言われたナタナエルー

はじめにー「見る」ということばの暗号

  • 冒険モノの映画などで、宝探しの探検を見ることがあります。宝探しーそれに必要なものは何でしょう。答えは「地図」です。地図を手に入れることです。そして、その地図にはいろいろな暗号が書かれていて、その暗号を解読していくことによって、はじめて宝のありかに行き着くということです。ハリソン・フォードが演じる「インディージョーズン」シリーズは有名です。
  • ところで、今、私たちが学んでいる「ヨハネの福音書」に隠された宝を発見するためにも地図が必要ですが、ヨハネはその地図を私たちに与えてくれています。その地図にはさまざまな暗号があるのですが、その暗号を解読するためには、この福音書の中で繰り返し使われている言葉を発見する必要があります。他の福音書には見られないヨハネ独自の暗号について、それは「見る」ということばの暗号です。

1. イエスの友としてのまなざし

  • イエスの友となったひとり弟子、ナタナエルという人物に焦点を当ててみたいと思います。テキストは1章47~51節です。ここにはイエスとナタナエルとのやり取りがあります。
  • 47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」
  • イエスとナタナエルとの会話。イエスがことばは3回、ナタナエルは2回です。□で囲ったことば、「見て」「見る」「見た」「見ます」ということば、「これこそ」(英語でLook at つまり、見てごらんなさいという意味のことば)が使われています。
  • 実は、この「見る」ということばはヨハネの福音書ではとても重要なことばです。なぜなら、そこにイエスのまなざしがあるからです。ヨハネの福音書の重要なメッセージはイエスの私たちに対する友情への招きですが、その友情を育む上で大切なことは「見る」ということです。互いに相手の存在を「見る」「見合う」「見つめ合う」というまなざしなしに、友情を育むことはできません。
  • 「見る」とは、単に「目で見える」という意味だけではありません。そこには相手の隠されたものを理解する、悟る、見出す、発見するという意味もあります。英語ではsee, find, understand, look at, beholdといったことばで訳されています。
  • ヨハネの福音書9章に、生まれつき盲人の目がイエスによって開かれて見えるようになる話があります。これは奇蹟ですね。しかしヨハネは単にこの話をすごい奇蹟だろう、こんな奇蹟ができるのはメシアしかいないでしょう、ということを言うつもりで書いているわけではありません。この話の目的はこうです。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」このことばを聞いていた人々がこう言いました。「私たちも盲目なのですか。」イエスは言われました。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。
  • これはどういう意味でしょうか。「私たちは見える」「見えている」ということは、私たちは分かっている、理解している、という意味です。「見える」と言い張っている。そこにあなたがたの罪があるとイエスは言われたのです。「生まれつきの盲人の開眼」の奇蹟は、今まで見えていなかった者が見えるようになり、自分では見えている、分かっている、理解していると思っている者がこれからも決して見えない者となるということを教えるためのしるしとしての奇蹟だったのです。
  • クリスチャンとなった人は、自分が生まれながらにして盲人だったことを知った人です。目が開かれるためには、光が必要です。しかもその光は「まことの光」でなければなりません。上からの、天からの強烈な光でなければなりません。
  • 使徒パウロはダマスコ途上で、天からの光に照らされた時、彼は盲目になりました。イエスの弟子のひとりであるアナニヤという人が神から遣わされて彼の所に行って、手を置いて祈るまではパウロは目がふさがれたままでした。ところが祈ると「ただちに、彼の目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。」とあります。彼はだれよりもキリストを見る者となったのです。しかしこの天からの光を覆う厚い覆いが多くの人々にかかっていて、思いをくらまされていると聖書は教えています。
  • 「自分は見えると言い張る」人に罪が残る。その罪は、見るべきものをみることができないという結果をもたらすのです。ですから、神様の話を聞いても分からない、理解できないのです。問題は神様の側にあるのではなくて、私たちの側にあるのです。「見えている、分かっている」と思っていることが、神を、神の良き訪れを悟ることができないでいるのです。ですから、私たちは(クリスチャン)であっても、自分にはわからないことだらけ、聖書のこの箇所は知っていると思っても、本当の事の意味することをどれだけわかっているのだろうか。自分にはまだまだ見えていないことがあるかもしれないと謙虚になるとき、はじめて、さらなる深いところを理解するようになってくるのです。「主よ、私の心の目を開いてください」という謙虚な開眼への渇望は神を喜ばせます。このことはまた後で、「天が開かれて見えるもの」ということで触れたいと思います。

図1 「イエスの弟子たちに対するまなざし」

  • ここにはイエスの最初の弟子たち5人が登場しています。アンデレとヨハネ、アンデレの兄弟シモン、そしてピリポ、ナタナエルです。ここで大切なことは、友情への招きにおいて、イエスが彼らを「見る」ことにおいて常に先行しているということです。

(1) アンデレとヨハネの場合
1:37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて(洗礼者ヨハネが「見よ。神の小羊」というのを聞いて)、イエスについて行った。38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。

(2) シモンの場合
1:42 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」

(3) ピリポの場合
1:43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけてευρισω「わたしに従って来なさい」と言われた。

(4) ナタナエルの場合
1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」

  • 図にもあるように、すべてイエスのまなざしが先行しています。「見て」「目を留めて」「見つけて」「見て」から「・・のことを」言われたというふうに、かかわりにおいてイニシアティヴをとっておられます。相手にことばをかけているのです。このことに気づける人は幸いです。私たちがイエスに声をかけるよりも前に、イエスはあなたをご覧になって、声をかけておられるのです。
  • ちなみに、ヨハネ福音書1章は「発見物語」の章です。
    ①イエスのもとに泊ったアンデレが自分の兄弟シモンをまず「見つけてευρισκω」、私たちはメシアに会った(出合ったευρισκω)と言いました(41節)。
    ②ピリポはイエスに「見つけられた」後、自分と同じ町の出身でナタナエルを「見つけてευρισκω言った。『私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いましたευρισκω。』」(45節)
  • 「見つけた」「出会った」という「ユーリソー」ευρισκω言葉が何回か出てまいります。41節でアンデレが兄のシモン(ペテロ)を見つけたことと、彼に言った言葉の中に合わせて2回、45節のピリポがナタナエルを見つけたことと、彼に言った言葉の中に合わせて2回、出てきます。「俺たちは発見した、見つけた」という意味です。出会ったことの喜び、ほとんど叫びに近い響きを持った言葉です。43節の主イエスがピリポフィリを見つけた」ということばも同じく「発見した」という「ユーリソー」ευρισκωという言葉です。織田昭氏の「ギリシア語小辞典」によれば、この動詞について「特に努力して探した末に見出すこと」と説明しています。
  • アンデレやピリポからすれば、自分たちがキリストを発見した物語のように一見見えますが、実は、そうではなく、弟子たちがキリストによって発見されたのです。
  • 私たちが何かを発見したように見えたとしても、実は、神が発見できるようにしてくださったという方が実は正確なのです。ヨハネ福音書15章で主イエスが「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだのである」と言われましたが、全くその通りなのです。その言葉どおりのことがここで起きているのです。
  • 黙示録の22章4節にある「神の御顔を仰ぎ見る」とは、神に対する私たちの永遠の友情の結論です。神への礼拝の究極的な目的は、神の御顔を仰ぎ見ることです。「仰ぎ見る」という表現は少し堅いかもしれませんが、相手が神であるゆえに「仰ぎ見る」という表現を使っているにすぎません。原語は「見るευρισκω」です。
  • 「主が御顔をあなたに向けられますように」という祈りのフレーズがありますが、これは、微笑みをもってスマイルで歓迎することを意味しています。このスマイルは主があなたとの友情を表わす表現です。主はいつでも、どこでも、どんなときも、微笑みをもって御顔を私たちに向けておられるのです。ただ私たちの側が、自らの犯した罪のゆえに、「主の御顔を避けて」いるにすぎません。神はご自身の御顔を避けて生きる私たちに、キリストを通して、「顔と顔を合わせた」交わりに招こうとしておられるのです。なぜなら、神のいのちの世界、御父と御子との交わりは、向かい合う関係(「プロスの神秘」だからです。※脚注
  • 「顔と顔を合わせた」交わりを通して、神の栄光が私たちの上に輝きます。モーセは40日40夜主と交わって山を降りて来た時、顔が輝いていたと聖書は記しています。
  • 「顔と顔を合わせた」友情を通して、神の栄光が私たちの上に輝ということは、私たちが罪の贖いを経験したのちも、つまり、救われた後も、たえずさらに一段高いレベルヘと進む必要があることを教えています。神は私たちを、ただ罪から自由にするためだけに贖われたのではありません。神は、私たちが神との親しい交わりを持ち、顔と顔とを合わせて神を知る友として、私たちを招いておられるのです。

2. 天が開かれて「さらに大いなることを」を見る

  • さて、その友の一人として招かれたナタナエルの話に戻りましょう。
    このナタナエル、ヘブル語で「ナータン」と「エル」が結びついた名前。「ナータン」とは「与える」という動詞、エルは「神」を表わしますから、「神は与えたもう」という意味の名前です。
  • ヨハネの福音書はこのナタナエルに対して、特にイエスが深くかかわっておられたことを記しています。ナタナエルの物語を読みますと、なぜ主イエスは彼だけを特別扱いされるのだろうとうらやましく思われます。それほどに主イエスは深く彼とかかわってくださっています。イエスはこのナタナエルに対して、「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちにはこの人には偽りがない。」と言われました。

(1) ほんとうのイスラエル人とは

  • 「ほんとうのイスラエル人」という言葉が用いられています。これは先祖ヤコブが神によって「イスラエル」とされたということが背景にあります。イスラエル人とは特別な意味があります。それは自己中心的なヤコブが神と戦って勝ったために、御使いは彼の腰(もものつがい)打ちました。その結果、ヤコブはびっこになってしまいます。そしてヤコブの名前がイスラエルに変わりました。つまり、イスラエルが意味するのは、これからはなにごとも自分の力や考えで生きるのではなく、神によって、神に頼って生きる者となるという意味です。イエスがナタナエルがそのような人物だと評価されているのです。相手のすばらしい面をたたえていることばです。

(2) 彼のうちには偽りがないとは

  • しかも「彼のうちには偽りがない」とも言っています。これはどういう意味でしょうか。「偽りがない」というのは、見せかけたり、欺いたり、策略を図ったりするような性格ではないという意味です。彼の性格や人格を知っておられたということです。
  • ナタナエルはイエスの言うことに驚いて、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と問い返しています。これはまさにその通り。どうしてそんな私のことを知っているのか、ということではないと思います。彼のそのときの気持ちを想像するに、「主イエスのおっしゃるような人間でないことはこのわたしが一番よく知っています。なぜ、あなたは私を信じてくださるのですか」という意味ではないかと思います。

(3) いちじく木の下にいるとは

  • イエスは言われました。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」と言っておられます。これはどういうことでしょうか。ナタナエルはいちじくの木の下でいつも何をしていたのでしょうか。

図2 「いちじくの木の外形と葉」

  • イスラエルでは、しばしば神に祈ったり、神を瞑想したりする時には、いちじくの木の下で過ごしたようです。ですから、ナタナエルという人は、神を自ら求める人であったと思われます。そんな彼をイエスは見て、知っておられたのです。イエスに覚えられていたのです。私たちも、自分が決して完全なものではなく、不完全で、いい加減な面も多くもっている者であることが分かっていても、イエスはあなたを信任して、しかも、神に渇き、神を求めている者であることを知っていてくださっていたということを知った時、ナタナエルは驚くと同時に、とても感動したと思います。自分のことを知っていてくださった方がいた。しかも、自分の欠点など荒さがしをするような方ではなく、自分が神を求めていることをしっかりと受け止めて下さっていたこと知った時、彼の心は開かれたに違いありません。
  • ナタナエルは「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と告白しました。後半の告白である「イスラエルの王」―そのようにイエスのことを思っていた人たちは多かったのです。しかし、イエスが神から遣わされたひとり子としての神であると気づいた人はそう多くはいなかったのです。
  • あるとき、弟子の筆頭ペテロがイエスに「私をだれだと思うか」という質問に対して、「あなたは生ける神の子キリストです。」と言います。ナタナエルと同じことを言っています。しかしそのとき、イエスはすかさず、「あなたは幸いです。そのことをあなたに明らかにしたのは、人間ではなく、天にいます父です。」と言われました。このことは天からの光がなければ決して知ることのできない事柄なのです。
  • ヨハネの福音書が書かれたのは、「イエスが神の子キリストであることを信じて、永遠のいのちを得る」ためでした。ですから、このナタナエルの告白は妙を得ているのです。しかし、彼がこのとき、その意味をどれだけ悟っていたのかは疑問です。おそらくまだ十分に知ってはいなかったと思います。そこで、イエスは彼にこう言います。「あなたはそれよりもさらに大きなことーもっと大いなることーを見ることになります。」
  • この「さらに大きなこと」とはどんなことでしょうか。答えは51節です。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて。神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」この光景は、実は創世記28章に出てくる「ヤコブの梯子」と言われるヴィジョンと同じです。ナタナエルがまことのイスラエル人ですから、ヤコブが見たヴィジョンを通して、「さらに大きなこと」「さらに大いなること」を教えようとされたのだと思いますが、このヴィジョンのはひとつの「比喩」だと思います。明確な答えを見出すことは難しいのですが、人の子、これはイエスキリストを意味します。この方の上を、つまりこの方が天と地をつなぐ梯子となって、天のすべての霊的な祝福がもたらされるように、御使いが天と地を行き来している光景だと受け取った方が無難です。
  • ナタナエルのようにどんな神に祈り、神を求めたとしても、まだまだ私たちには目が塞がれて見えないこと、経験していない天の祝福が限りなく多いのだと思います。しかし、それが与えられることが今や可能となるというヴィションがこの天からの梯子が意味する事ではないでしょうか。ナタナエルの名前の意味は「神は与えたもう」でした。私たちも「天が開かれる」経験を求めていきたいと思います。
  • 「天が開かれる」ということは、「みことばの戸が開かれて悟りが与えられる」ことでもあります。また「心が開かれて神のことについて心を留めるようになる」ことでもあります。「目からうろこのようなものが落ちて、今まで見えなかったものが見えるようになる」経験でもあります。そんな経験ができるように、今朝、イエスは私たちを友として招いておられるのです。神のシークレット・プレイスに招いてくださっているのです。そのことを信じましょう。
  • 霊的な事柄に目が開かれる時、私たちはこの世の退屈さから脱出します。「聖なる驚き」のなかに生かされます。そしてその「聖なる驚き」は、私たちひとりひとりをして輝かせるものと信じます。

※脚注

ヨハネはその福音書の冒頭に、「はじめにことばがあった。ことばは神と共にあった」と記しています。「ことばは神と共にあった」という「共に」とは、ギリシャ語で「プロス」(προς)という前置詞が用いられており、それは「向き合った形での共にいる」という意味です。御父と御子とは永遠に顔と顔とを向き合っている存在なのです。そのかかわりの中に人が神のかたちに似せて造られたのですから、神と人とのかかわりにおいても、本来の姿は「顔と顔とを合わせた」かかわりなのです。

人が罪を犯したあとに、「人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」(創世記3:8)とあります。「主の御顔を避ける」という表現は、神と人との本来あるべきかかわりが壊れたことを意味します。ですから、神の救いの究極は神と人とが「顔と顔とを合わせる」ことの回復にあることは言うまでもありません。ヨハネの黙示録ではその救いの究極を「神の御顔を仰ぎ見る」(22:4)と表現しています。


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