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主イエスの友(7) シモン・ペテロ

主イエスの友(7) シモン・ペテロ

―シモン・ペテロの問いかけ―「問いかけシリーズ」(1)

「行って、また来て、迎える」

はじめに

  • 最近、わたしは「問いかける」ことの大切さに気づかされています。「良い問いは、真理を引き出す」ということです。神のことばに対して、その意味することを問いかけ続ける。真剣に問いかけるということは、それに対する答えを見出さなければならなくなるので大変ですが、その作業の繰り返しが、その人を成長させ、練っていくのだと思います。詩篇において、「なぜ」「どうして」「いつまで」「どういう事」とい問いかけは、すぐに答えが見つからなくても、問い続けることで、やがて真理を見出すことになるのです。
  • さて、「問いかけ」シリーズ第一弾は、イエスのいうことばに弟子のペテロが「問いかけた」質問、そして、そのペテロの問いかけに答えられたイエスの答えに注目してみたいと思います。テキストはヨハネの福音書13章と14章にまたがっています。

1. ペテロの問い「主よ。どこにおいでになるのですか。」

  • 「主よ。どこにおいでになるのですか。」―これがペテロの発した重要な問いです。イエスがそれに答える答えー「わたしが行く所に、あなたは今ついて来ることが出来ません。」に、「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。」というさらに付随した質問が投げかけられます。イエスが行く所がどこなのかという疑問から、なぜそこについて行くことが出来ないのかという別の疑問にすりかわっています。
  • 子どもの質問に似ています。最初の問いからその答えという道筋の過程で、いつのまにか、言葉尻をつかまえての質問がごちゃごちゃ付け加えられことで、話が見えなくなることが起こります。そうならないようにするためには、まずは本筋となる質問から目を離さないことです。ペテロの最初の問いかけは、「主が、どこに行かれるのか」ということでした。しかし、実際の話の展開はいつもすっきりしているわけではありません。結構、ごちゃごちゃしていることが多いのです。従って、分かりにくさが聖書にはあります。
  • 少し整理してみると、「主よ。どこにおいでになるのですか。」―その問いかけに対しての答えとしては、ズバリこうです。「わたしの父の家に、場所を備えに行く」―これが答えです。「誰のために?」というならば、それは「あなたがた(弟子たち)のために」です。では「何のために?」(目的)というならば、それは「父の家に迎えるためです。」
  • ペテロの発したひとつの質問は、イエスをして「わたしは、わたしの父の家に、住まいとなる場所を備えに行く。それはあなたがたのためであり、あなたがたを、父の家に迎えるためです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」と言わせました。このように、ひとつの質問が、新しい真理を開かせているのです。どこが新しい真理かといえば、わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」という点です。
  • 「行って、また来て、迎えます。」という一連の出来事が新しい教えでした。このことばはいったい何を言わんとしているのでしょうか。最初の「行って」とは、イエスが「天の父のもとに行かれること」です。十字架の死と復活の出来事を通り越して、イエスの昇天を意味しています。では次の「また来て、迎える」とはどういうことでしょう。実は、これはヨハネ福音書における「空中再臨」の啓示です。

2. キリストの「空中再臨」について

  • 実は、イエスが語られた言葉の中には、理解が難しいことがあります。「住まいとなる場所」という言葉、わかるように説明をすることの難しい表現です。「父の家」には「住まいがたくさんある」と言います。「住まい」は英語ではマンションと訳されていますが、そのイメージは日本にあるマンションのようなものではなく、大きな邸宅、ドデカイ敷地をもった屋敷と言ったというイメージです。でも、それぞれがそんな大きな屋敷を与えられても、だれも訪ねる者もなく、ひとりでいるような所だったとしたら、なんと寂しいことでしょう。だれもそんな屋敷に住みたいとは思いません。むしろ小さくても親しい交わりのもてる、しかも永遠の愛のホームがあればそれで十分です。イエスの言われる「住まい」とはそのようなホームなのでしょうか。何の説明もされておりません。
  • もう一つ疑問があります。イエスが私たちのために、「また来て、迎えてくださる」、それまで、私たちはいったいどこにいるのでしょうか。それについても何の説明もありません。このように、イエスの語られる言葉は謎だらけです。聖書をさっと読むだけでは、おそらくわからない事だらけです。ですから、聖書を熱心に学ぶ必要があるのです。ちなみに、イエスが「また来て、(私たちを)迎えてくださる」それまで、私たちはいったいどこにいるのかーその説明は後ほどしたいと思います。まずは、「また来て、迎えてくださる」ということばに注目しましょう。
  • キリストの再臨には、「空中再臨」と「地上再臨」があります。再臨についてただでもわからないことが多いのに、「空中再臨」と「地上再臨」を混同すると、さらに再臨がこんがらがります。再臨には「空中再臨」と「地上再臨」があることを念頭に置かなければなりません。イエスはペテロの問いかけにサラリと答えていますが、ヨハネ14章で言われている「また来て、迎える」とは、空中再臨のことを言っています。空中再臨とは教会時代の終わりを意味し、地上にいる信者を天に迎えるために、主イエスが空中まで降りて来られる出来事です。そのとき、すでに死んで眠っている信者はよみがえって天に引き上げられます。そのとき生きて地上にいる信者はそのあとで天に引き上げられますが、すでに死んでいた者も、生きていた者も、朽ちないからだとされます。いわば天使と同じように霊的な存在となります。
  • そのことが記されている聖書の箇所を見て置きましょう。

    (1)Ⅰ テサロニケ4章16~17節

    • 16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、 神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
      17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

    (2)Ⅰ コリント15章51~53節

    • 「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」
  • 特に、空中再臨の啓示は使徒パウロに与えられたものでした。パウロは「空中再臨」を奥義だと述べています。空中で教会はキリストの花嫁として迎え入れられます。
  • ところで、「空中再臨」と「地上再臨」の違いは何でしょうか。前者の「空中再臨」は教会のための出来事ですが、後者の「地上再臨」は7年間の患難時代を経て生き残ったイスラエルの民の出来事です。反キリストによる患難時代の最後にイスラエルに対する最後の戦いーハルマゲドンの戦いーが起こりますが、そのとき、主イエスは神の国をこの地上に実現させるために、オリーブ山に再臨されます。これが「地上再臨」です。そして千年王国が実現します。千年王国において神がイスラエルの民に対して約束されたすべてのことが実現します。そして、イスラエルは全世界の支配国となるのです。天に引き上げられた教会の人々は、この千年王国時代のときなにをしているのか、それは今日の主題から離れるので次の機会に取り上げたいと思います。
  • 福音書に記されている再臨は、ほとんどがこの「地上再臨」のことを言っています。しかしヨハネの福音書14章に言われている再臨は、はじめて「空中再臨」について言及されている重要な箇所と言えます。それは地上にいる信者を天に引き上げて、天にある父の住まいで何時までも主イエスと共に住まわせるための再臨なのです。この再臨をイスラエルの民のために地上に戻ってくる地上再臨と混同してはなりません。

3. 信者が死後に行くところ

  • これまでの話から、主が天から私たちを迎えに来るまで、私たちはいったいどこにいるのでしょう。このことは主の「空中再臨」と関連して、きわめて重要な問題です。私たちは死んだ後、どこにいくのかという問題です。
  • 死後の世界について、福音派の中でも二つの考え方(A&B)があるようです。私個人としてはBが妥当だと考えています。それぞれの考え方を簡単に説明すると・・

〔A の考え方〕

  • キリストを信じる者とそうでない者との行く先は、信者の場合は「パラダイス」に行きます。しかし不信者の場合は、「よみ」(ハデス)という苦しみの場所に行くという考え方です。
    「パラダイス」と「よみ」との間には越えることのできない淵があって、「よみ」から「パラダイス」に移ることはできません。いすれも死者には意識がありますが、肉体は死んで(眠っている)いますが。魂はいきています。やがて、キリストの再臨の時―つまり、「空中再臨」の時には、それぞれよみがえり、朽ちない霊のからだを与えられて、天国と地獄(ゲヘナ)へと移されます。
  • しかしこのAの考え方で行くと、パラダイスがどこにあるのかはっきりしません。十字架の上で悔い改めた罪人に対して、イエスは「あなたはきょうわたしとともにパラダイスにいます」と言われました。イエスが死んで後に行かれたところは「よみ」であることがわかっています。もし、「よみ」が不信者の行くところであるとすれば、「あなたはきょうわたしとともにパラダイスにいます」ということばとつじつまが合いません。イエスが「パラダイス」にもおり、また「よみ」にもいなければなりません。三日後にイエスはこの「よみ」から地上に帰られたのです。いわゆる「よみがえり」です。イエスは「よみがえって」今は御父の右の座に着座されています。
  • また、キリストが再臨された時―つまり「空中再臨」された時には、すべての者がさばきのために死からよみがえります。
  • ①「ラッパが鳴ると、死者は朽ちない者によみがえり、私たち(そのとき生きている者たち)は変えられるのです。」(Ⅰコリント15:52)、
  • ②「・・神のラッパの響きのうちに、ご自身は天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている者たちが、たちまた彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられて、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(Ⅰテサロニケ4:16~17)
  • ③「墓の中にいる者がみな、神の子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」(ヨハネ5:28~29)
  • ④「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。」(ダニエル12:2)
  • ここで、「ちりの中に眠っている」とは、肉体が眠っているという意味で、再び、(キリストの空中再臨の時には)、朽ちない霊のからだが与えられ、ある者は永遠のいのちに、ある者は永遠の滅びに定められると考えられます。「人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっているように」(ヘブル9:27)という聖句がありますが、これは本来、キリストが彼を待ち望んでいる人々の救いのために「再び来られることが確実であること」を示すたとえとして使われていますが、前者も後者もいずれも確実なことだと述べているのです。
  • 死後にさばきを受けることが定まっているとすれば、ある者はすでに「パラダイス」に行き、ある者は「よみ」に行っているというAの考え方では無理があるように思います。

〔Bの考え方〕

  • そこでもう一つの考え方。死んだ者はすべて「よみ」へ行くという考え方です。しかし、「よみ」は待合室のようなもので、そこには「パラダイス」と「苦しみの場所」があるという考え方です。
  • 十字架の上で悔い改めた罪人は、イエスとともによみへ下り、その中にあるパラダイスーこれは「アブラハムのふところ」とも言われますがーに行ったと思われます。「よみ」には「パラダイス」と「苦しみの場所」があり、そこには大きな淵があって、行き来することはできません。キリストが再臨されるまで(「空中再臨」のこと)、すべての人はそこにいることになります。しかし、すでにイエスはよみがえられて、天におられますから、その方が来られる時には行く先がすでに決まって保証されているわけです。ですから、その保証のゆえに、キリストを信じた者は信仰によって天国に行けると言い切ってよいわけです。ただ今は待っている状態にあります。やがて第一の復活に預かって、あたらしい霊のからだが与えられるまでは、肉体をもたずにいることを「眠っている」と表現しているのだと思います。でも、たましいは眠っておらず働いています。しかしそのことは生きている人には知覚できません。交わることはができないのです。神の完全な主権のもとに置かれています。それはAの考え方も同様です。死人のために祈ることすらできません。しかし、ローマ・カトリック教会では、「煉獄」という考え方があって、死人のために祈るという考え方があります。
  • 死んだあとのことは、生きている者はその死者に対してなにもできないことを受け入れなければなりません。死者は神の主権による完全な支配に置かれています。しかし、この点が人間の心情には納得がいかない点です。特に、日本人には難しい。毎年行われている「お盆」は、死んだ人の魂がこの世に帰って来ると信じて行われています。厳しい現実ですが、死後の世界は、この世での家族のかかわりをそのままもっていけない世界なのです。イエスは弟子の条件として「捨てる」、あるいは「憎む」のでなければ、と言われました(ルカ14:26, 27)。それは肉親に対する「自分が勝手に思い描いている夢、期待など」を捨ててしまいなさい、それを憎みなさい、と言っているのだと思います。それはとても残酷ではないかと言われればそうだと思いますが、ただ、それは旧約聖書からずっと聖書のテーマになっている「偶像」なのです。日本における伝道の難しさは実はここにあります。

おわりに

  • ペテロの「主よ。どこに行かれるのですか」と問いかけから、主イエスが父の家に行って、また来て、迎えてくださる」という話に及びましたが、私たちには素晴らしい望みがあることを、心に留めたいと思います。使徒パウロがテサロニケの教会に「空中再臨」の奥義を手紙に書きましたが、それは、「眠った人びとはどうなってしまったのか」と不安にかられていた信者たちに確かな希望を与えるためでした。パウロは言います。「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」と記しました。やがて私たちは、主が再び来られるとき、雲の中に空中で主と会うのです。そのようにして、私たちは、永遠に主とともにいることになるのです。こういうわけですから、私たちは互いに慰め合うことが大切です。


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