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主イエスの友(8) トマス ②

主イエスの友(8)  トマス②

―トマスの問いかけ②―「問いかけシリーズ」(3)

「わたしは真理です」

はじめに

  • 「問いかけ」シリーズ第三回目です。
    イエスは弟子たちに「わたしの行く道はあなたがたも知っています。〔いや、知っているはずです〕。」ということばに対して、トマスは「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうしてその道が私たちにわかりましょう。」とわかったふりをしないで、率直に質問しました。トマスは「道」ということばに反応したのです。その質問に対して答えられたイエスのことばがこれです。
    「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければだれひとり父のみもとに来ることはできません。」(ヨハネ14:6)
  • この14:6のみことばをよく見てください。前半と後半にわけられます。イエス様はユダヤ人です。ユダヤ人の表現スタイルによく通じている方です。詩篇では特にそうですが、その表現の特徴はパラレリズムです。つまり、並行法―同義的並行法、他に反位型、統合的並行法がありますーです。ここの14:6は同義的並行法で、前半の事柄を後者で言い換えているのです。どのように言い換えられているでしょう。一見、後半は「わたしが道だ」ということを言い換えているように見えます。しかしそうではありません。
    「わたしが道である」とは、後半では「わたしを通してでなければだれひとり・・来ることができない」で置き換えられます。前半の「わたしがいのちなのです。」という部分は、後半では「父のみもとに来る」ということばで言い換えられています。では「わたしが真理です」という部分はどのように置き換えられているかといいますと、後半全体で語られているすべてのことです。つまり、「わたしを通してでなければだれひとり父のみもとに来ることはできません。」ということがまったくの嘘のない、本当のことであるということです。
  • 「道」、「真理」、「いのち」の三つ巴は、密接なかかわりを持っています。今回は、特に真ん中の「真理」ということばに注目してみたいと思います。

1. 「アレーセイヤ」とその周辺の語彙

  • ヨハネ14:6にある「真理」という言葉は、ギリシャ語の名詞で「アレーセイヤ」(コレーセイヤ、スベテセイヤーと覚えておけば良い)という言葉です。このことばは(新改訳ですが)、「まこと」(「この方は恵みとまことに満ちておられた」(1:14)、「真理」、「真実」と訳されています。8:31,32では「もし、あなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはわたしのほんとうの弟子です。そしてあなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」で使われています。「わたしは真実を言います」というのも「アレーセイヤ」です。
  • 名詞「アレーセイヤ」、形容詞の「アレーシノス」「アレーセース」、副詞の「アリーソース」の意味合いをまとめてみると、「真理」とは、「まことのもの「真実なもの」「ほんとうのもの」「確かなもの」といったイメージの言葉であることが分かります。真理について、もっとわかりやすく言うならば、「本物」と「偽物」を対比するとよくわかると思います。

2. 「真実な父」と「偽りの父」

  • 「本物と偽物」
  • 「わたしが真理です」とは、「わたしの言うこと、なすことすべてが間違いのない本物であるという宣言です。こんなことが言えるのは、自分は神であるという宣言と同じことなのです。それほどに大胆なこの宣言を信じるどうか、本物・真実そのものであるわたしを信じなさいというのです。
  • これまで、たくさんの人から騙されてきた経験のある人は、もう騙されないぞと心のどこかで構えています。ハパが今度の休みに遊園地に連れていってくれると約束したのに、連れていってくれなかった。約束破った。だから、こんど約束してくれても信じられないということになります。信用してお金を貸したのに騙されて、返してもらえなかったという経験をした人は、もう人を信用しなくなります。この世は「偽りの父」(つまり、悪魔のこと)が支配しています。偽りの父は人を騙す超天才的な存在なのです。「神は本当に言われたのですか。これを食べても死にません。これを食べるとあなたがたは神のようになれるのです。」最初の人はサタンの嘘に騙されて、食べてはならないと神に言われていた「善悪の知識の木」から取って食べてしまったとき、はじめてそれが嘘であることを知りましたが、今度は、食べたことを否定する嘘を神に対していうようになります。嘘から不信へ、不信から嘘へ、真実なかかわりを断ち切っていくのが「偽りの父」の策略です。その策略によって、「混じりけのないありのままのもの」、「嘘のない事実そのもの」、「どこかで曲がってしまっていないどこまでもまっすぐなもの」・・そうした真実の世界から遠くはなれてしまっているのです。
  • こうした「偽りの父」の策略、彼の嘘を見破るのは、本物を知ることしかありません。本物を知っている人は偽物に騙されません。どうすれば、私たちは本物、本当のこと、真実なことを知ることができるのでしょうか。―それは、「わたしは真理である」と宣言する方の言う事に耳を傾け、それを信じることしかありません。「偽りの父」か、「真実の父」か、そのいずれしかこの世には存在しないのです。「真実の父」である天の父は、ご自身の御子をこの世に遣わし、真理を証しさせました。
  • イエスがローマ総督ピラトの尋問を受けたとき、こんな会話がかわされたのを知っていますか。ヨハネ18:33~38
    ピラト「あなたはユダヤ人の王なのか。・・あなたは何をしたのですか。」
    イエス「わたしの国はこの世のものではありません。」
    ピラト「それでは、あなたは王なのか。」
    イエス「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは真理をあかしするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」
    ピラト「真理とは何ですか。」
  • ここでピラトは「真理とは何か」と問うているように思えます。一見、とてもすばらしい質問のように感じますが、ここの本当の意味は、ピラトが真理を求めて問うた質問ではありません。真実はこうです。「真理というものが果たしてこの世に存在するだろうか。」という意味です。ですから、その証拠に、このことばの後にはなんの進展もありません。答えはすでにピラトは出しているからです。すでに問いかけは終わってしまっているのです。
  • 「真理をあかしするために生まれ(遣わされ)、この子とのために世に来た方」に対して、「真理というものが果たしてこの世に存在するだろうか。そんなものはこの世にはない」と言う意味でかたったのです。ですから、「真理とは何か」ということばで唐突にイエスとのやりとりが終わってしまったのです。ピラトはイエスが政治的な罪は犯してはいないと判断しますが、一瞬、この世の「偽りの父」の覆いが破れるチャンスを自ら閉ざしてしまっています。つまり、ピラトは真理に対して全く関心を示しませんでした。彼は政治的な事柄と自分の損得だけに関心があったからです。

3. 真理をあかししに来られたイエスのことばに耳を傾けよう

  • 「真理」ということばをいくら調べても、私たちは真理に行き着くことはありません。大切なことは、真理をあかしするためにこの世に来られたイエスの語ることばに私たちの注意を払わなければなりません。
  • イエスは真理を語るときに、しばしば「まことに、まことに」という表現を使っておられます。もっともこの表現はヨハネの福音書にのみ見られる言い方です。他の福音書(マタイ、マルコ、ルカ)では、真理を語るときには「まことに、あなたがたに告げます。」という言い方が使われます。マタイの福音書はユダヤ人に対して書かれたものですが、その中にこうあります。

まことに、あなたがたに告げます。」―

5:18「天地が滅びない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」
5:20「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国には、はいれません。」
18:3「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」
19:23「金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。」
19:24「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
18:19「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」

  • マタイの場合は、必ずしも、「まことに」ということばを付け加えなくても、「あなたがたに言います」という言い方でも、「十分に」、真理を伝えている形もあります。しかし、ヨハネの「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」という言い回しはヨハネの定番です。この言い回しを使って、真理を伝えています。例えば、・・

    3:3 「― 人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
    3:5 「― 人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」
    5:19「― 子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」
    5:24「- わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」

  • ちなみに、「まことに、まことに、あなたに告げます」という言い方ですが、ギリシャ語ではなんと言うかといいますと、「アーメン、アーメン、レゴー・ヒューミン」(Αμην άμην λεγω ύμιν)と言います。このことばが語られるときには、心して、身を正して聞きなさいとうながされているのです。

4. 真理を支える三つの柱

  • 最後に、「真理」を支えている三つの柱についてお話したいと思います。
  • この表は「真理」を支えている三つの柱がなにかを表しています。「絶対性」、「普遍性」、「不変性」の三つです。国語辞典で「真理」という意味を引くとどういうふうに説明されているかといいますと、今まで、わたしは「偽物に対しての本物、「混じりけのないありのままのもの」、「少しでも嘘のないこと」「少しも曲がっていないこと」、「正しいこと」というふうに説明してきましたが、国語辞典(明鏡)によればこう説明されています。「確実な根拠に基づいて、普遍的に正しいと認められる事柄。また、一般に、否定のしようもなく正しいと認められる事柄。」
  • 「必ず、太陽は朝に昇り、夜は沈む。」というのは真理でしょうか。否、「白夜」という現象があります。真夜中になっても薄明になっているか、または太陽が沈まない現象のこと。南極や北極に近い地方で夏に起こります。ですから、「必ず、太陽は朝に昇り、夜は沈む。」というのは真理ではありません。普遍性がないからです。真理とは、「必ずそうなり、いつでも、どこでも、だれに対してもそうであり、かつ、決して変わらない永遠の事柄でなければなりません。」
  • 聖書(ヘブル9:27)の中に、「人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」というのがあります。これは絶対に確実な事柄で定まった事柄でしょうか。かつ例外なくだれにでも当てはめるみとのできる普遍的な事柄でしょうか。しかも変わることのない事柄でしょうか(キリストの再臨まではそうです)とすれば「真理」と言えます。
  • 人間はだけでも一度死ぬという事柄は、罪を犯した者の当然の結果として絶対的事柄です。さしてこの事実は変わりません。どんな人でもー立派な人でも、そうでない人にも等しく必ず、死ぬのです。どんなにたくさんの健康食品を食べて健康をできたとしても、死を免れる人はいません。イエスも一度、死なれました。しかしそれは、ご自分の罪の結果ではなく、私たちの罪を背負って身代わりとしての死を味わわれたのです。その方が「わたしが真理です。」と言ってこう言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。・・・このことを信じますか。」(ヨハネ11:25)―信仰が要求されています。「死んでも生きる」とはこれから起こる確実な事柄だからです。真理だと言われる方の口から出ることは、「まことに、まことに」というフレーズがなくても、すべて真理なのです。そのことを信じる事の出来る人は幸いだと聖書は語っています。
  • 「人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」と言いましたが、ヘブル書の著者はさらに付け加えて、このことが真理であると同様に、「キリストも一度、多くの人の罪のためにご自身をささげてしなれたが、もう一度、来られます。今度は罪を取り除くためではなく、彼を熱心に待ち望んでいるすべての人に、完全な救いを与えるためです。」―これもまだ起こってはいませんが、絶対に確実な事柄だという意味で真理だということです。真理に対して、私たちはそのことを信じるように求められているのです。でなければ、「永遠のいのちを得る」ことがないからです。
  • 使徒パウロは言いました。「私たちは、真理に逆らっては何もすることができません。真理のためなら、何でもできるのです。」(コリント第二、12:8) 「真理なるキリスト」は―「わたしが道であり、真理であり、いのちのです。わたしを通してでなければ、だれも父のもとに来ることは出来ない」と言われました。この方は「真理をあかしするためにこの世に来られました。」とすれば、私たちは、この方の口から出たみことばにもっともっと注意を払い、日々、それによって養われるような生き方を身につけなければならないことは、あまりにも当然なことではないでしょうか。キリストこそ、世にいのちを与えるまことのパンなのです。


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