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主イエスの友(8) トマス ③

主イエスの友(8) トマス③ 

―トマスの問いかけ③―「問いかけシリーズ」(4)

「わたしはいのちです」

はじめに

  • 「問いかけ」シリーズ第四回目です。
    わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
    わたしを通してでなければ、だれひとり、父のみもとに来ることはできません。(ヨハネ14:6)
  • この14:6のみことばをよく見てください。前半と後半にわけられます。イエス様はユダヤ人であることを忘れないようにしましょう。ユダヤ人の表現スタイルによく通じている方です。詩篇では特にそうですが、その表現の特徴は「パラレリズム」です。つまり、並行法です。ここの14:6は「同義的並行法」で、前半の事柄を後者で別の言葉で言い換えられています。どのように言い換えられているでしょうか。よく見てみましょう。
  • 「わたしが道である」とは、後半では「わたしを通して(わたしを介して)」で置き換えられます。「真理である」という部分は、「(でなければ)だれひとり」に置き換えられます。ひとりの例外も認められない普遍的な事柄、時代や状況によって変更されたり変わったりすることのない事柄、動くことのない絶対的な基準です。そして前半の最後の「いのちなのです。」という部分は、後半では「父のみもとに来る」ということばで言い換えられています。「父のみもとに来る」とは、すべての本源である神と交わり、愛の本源に私たちがかかわることを意味します。父である神のみもとに帰っていくことがいのちなのです。
  • このように、「道」、「真理」、「いのち」の三つ巴は三位一体として密接なかかわりを持っています。今回は、特に「いのち」ということばとその意味について注目してみたいと思います。

1. いのち、 命、 生命 という言葉の表記

(1) 聖書の表記 その1
新改訳聖書ではひらがなで「いのち」と表記しています。これはとてもすばらしい表記だと私は思います。他の聖書ではひらがなではなく、漢字で表記されます。「命」(口語訳、新共同訳、塚本訳、フランシスコ会訳)、あるいは「生命」(文語訳、柳生訳、岩波訳)です。

(2) 柏木哲夫氏のことばのこだわり
クリスチャンの精神科医である柏木哲夫という方が書かれた『生きていく力』というタイトルの本があります。この本の「はじがき」にこう記されています。「生きる力」と「生きていく力」とは違うように思います。「生きる力」は、漢字の「命」「生命」であり、「生きていく力」とは、ひらがなの「いのち」だと言っています。どう違うのか。

  • 柏木氏によれば、医学の世界で取り扱われるのは、「命」、「生命」です。それはまさに「小宇宙」です。血管(毛細血管も含めて)全部つなぎあわせると、なんと9万キロになる。地球2週余。人間の遺伝子(DNA)にはその人に関するすべての情報が入っているのだそうですが、それを本にすると大百科辞典の千冊分の分量になると言われています。大変な世界を「生命」はもっているわけです。
  • 柏木氏は精神科医なので、一応は基礎医学として身体の生命を学び、その上で精神医学として「心」の領域に携わるわけですが、この「生命」と「いのち」は異なるとうことをずっと長い間、こだわって考えて来られたようです。
  • 「生命」と「いのち」の違い
    「生命」のことばイメージ・・「生命保険」「生命維持装置」
    その特徴は、「有限性」「閉鎖性」「客観性」。
    「いのち」のことばイメージ・・「あなたこそわがいのち」、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」その特徴は、「無限性」「開放性」「主観性」。

(3) 「いのち」の特徴

  • それぞれの違いをもう少し説明したいと思います。

    ①「有限性と無限性」

    • 「生命」は有限です。限りがあります。「生命保険」にも期限があります。「生命維持装置」もそれを止めると生命はそこで終焉を迎えるわけで、これは有限です。ところが「いのち」は無限です。限りがありません。イエスのいう「いのち」も、死とともに終りを告げるものではなく、無限に続いていくものです。

    ②「閉鎖性と開放性」

    • 私の生命を維持するためには、私の心臓、肺、腸が一生懸命働いていますが、それは私の身体の中にすべて閉じ込められています。閉鎖されています。ところが、「いのち」は、私を越えて広がっていくものであり、人々に影響を与え、たとえ死んでも、その後に続いて影響を与え、広がりを持っています。その意味で「開放的」です。

    ③「客観性と主観性」

    • 「生命」というものは、客観的にみることができます。生命維持装置の心電図を見れば、波形が目に見えるかたちで現われます。死に近づくと波はだんだんと低くなり、打つ回数も少なくなって、やがて線状になる。そしで生命は終焉します。心臓が停止することできわめて客観的にその人の生命は終焉したとわかります。ところが、「いのち」は心電図のように、目で見ることばできません。その意味で客観的ではなく、多分に主観的です。
  • 「いのち」とは、「存在の意味と価値観」ということばで置き換えることができます。それは確かに存在するものであり、しかも、互いに共有できるものです。ホスピスというのは、「生命」と「いのち」の両方を見る働きなのだとして、柏木氏はクリスチャン精神科医として日々ねその働きに従事しているわけです。すばらしいですね。それぞれの各分野でクリスチャンとして生きるとはどういうことかを教えてくれます。医学という科学的な世界の中で、彼は神を信じる者として「いのち」の世界をもたらそうとしているわけです。
  • Book-Offでたまたま見つけた一冊の本『生きていく力』の中から、柏木氏の「ことばのこだわり」についてお話しましたが、それはとても大切なことで、そのことばの背後にある世界観、価値観の違いにこだわりながら、精神科医として従事しているのです。こうしたこだわりはとても重要です。それがないと、この世にただこの世の価値観に流されてしまいます。

(4) 聖書の表記 その2
ここでもう一度、聖書に戻って、わたしも牧師として、「ことばのこだわり」をもちたいと思います。

  • 新改訳で、特に、「いのち」と訳されていることばの原語は二つあります。一つは「プシュケーψυχή」、もう一つは「ゾーエーζωή」としての「いのち」です。いずれも「いのち」と訳しているのですが、プシュケーは神から与えられた私たちの身体、あるいは心、魂という意味です。一方の「ゾーエー」は、本来、神によって人間にのみ与えられた神との愛のまじわりとしてのいのちを意味します。それが罪によって失われたために、神の御子イエス・キリストがこの世に来られて、私たちを贖い、神とのかかわりのいのちを回復してくださった「いのち」ーこれが「救い」なのです。
  • 今朝の、テーマ「わたしがいのちなのです。」というここでの「いのち」は、ゾーエーが使われています。それでは、これからいう聖書のみことばにある「いのち」はどちらでしょうか。プシュケーでしょうか。それともゾーエーでしょうか。ちょっと、考えてみてください。

マタ 6:25
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのち〔ψυχή〕のことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

マタ 6:27
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのち〔ψυχή〕を少しでも延ばすことができますか。

マタ 7:14
いのち〔ζωή〕に至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

ヨハ 10:11
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのち〔ψυχή〕を捨てます。

ヨハ 3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのち〔ζωή'〕を持つためである。

  • 特に「永遠のいのち」という場合の「いのち」はすべてゾーエーζωή'が使われています。「永遠のいのち」とは、「永遠」は「神」と同義ですから、「神のいのち」、「神の与えるいのち」、「神だけが与えることのできるいのち」ということができます。「いのち」ということばも、先程、説明しましたように、神によって人間にのみ与えられた神との愛のまじわりとしてのいのちを意味します。

2. 「いのち」―「生きていく力」を磨く

  • 柏木氏が、肉体的な生命という「生きる力」と、「生きていく力」とは違うのだと言っていることをお話しましたが、では、「生きていく力」としての「いのち」ゾーエー、それは神によって、具体的にはイエス・キリストによって与えられる「いのち」なのですが、それは、どのような力なのでしょうか。私たちは神から与えられている「いのち」、「生きていく力」を信仰によって磨かなければなりません。「いのち」のもつ力とは何か。このことを三つのポイントでお話ししたいと思います。

(1) この世の流れに流されない力
いのちを磨く第一の面は、この世の流れに流されない、むしろ、逆らう力です。秋になると、多くの鮭が自分の生まれた川に数年ぶりで戻ってきて産卵します。広い海の中で回遊し、そのあとどうして自分の生まれた川が分かるのか、とても不思議なことです。その上っていく力はすさまじいものがあります。全力を振り絞って上っていきます。そこには子孫をつないでいこうとする自然界のすさまじい力を感じさせます。文字通りの「生きる力」です。それは生きた魚の場合です。しかし死んだ魚の場合はどうでしょう。川の流れに対してどうでしょうか。ただ流されていくままではないでしょうか。しかし、生きている魚はその川の流れに逆らって自由に泳いでいきます。使徒パウロはエペソ人への手紙2:1でこう記しています。「あなたがたは、自分の罪過と罪の中に死んでいた者であって、そのころは、この世の流れに従って・・・歩んでいました。」

  • かつては、死んだ魚のように、「この世の流れに従って歩んでいた」のです。しかし今は違います。キリストと出会って、柏木氏のいう「生きていく力」が与えられています。「流れに従って」ではなく、「流れに逆らって」です。
  • ここでの「流れ」ということばは「流行」という意味です。流行はファッションだけのことではなく、時代精神というか、時代の思想的風潮、感性(フィーリング)、世界の経済の流れ、社会の仕組なども含みます。この世の多くが、私たちも含めて、必然的に、時代の潮流の中に置かれることになります。それから逃れることはできません。しかし、キリストの「いのち」によって「生きていく力」を与えられた者は、そうした時代の潮流、時代の風潮、時代の流行に対して、ただ流されることなく、世俗化することなく、それに逆らって「生きていく」ことができます。それが「いのち」です。

(2) 物事をプラスに捉える力
いのちを磨くための第二の面は、第一のことにつながってくる事柄なのですが、ものごとを常にプラスに捉える力です。確かにすべての物事にはプラスとマイナスの面があるのですが、プラスの面だけを見るようにすることです。しかしこれは簡単なことではありません。

  • 日本では、自殺者の数が一年に3万人を超えています。年々、増加の傾向をたどっていると言われています。特に、最近は、経済不況のためにリストラにあって職を失った中年男性の自殺が非常に増えていると報道されています。神から与えられた自らの命を自らが奪うという不幸な出来事ですが、この現象は、一言で言うならば、生きていく力の限界を感じて生きていく力を失った時に起こるということです。
  • 私たちの人生において起こってくるさまざまな事柄にはプラスの面もあれば、マイナスの面もあります。結婚することは幸せなこと思ってするのですが、それはうれしいことばかりではなく、ストレスでもあるのです。離婚、別居、配偶者の死、病気、怪我、失業ーこれらはみな強いストレスをもたらすマイナス要因と考えられます。しかし、人間というのは、こうしたストレスを通ってはじめて成長できるという考え方もあるのです。ある人は、「経験そのものが人を成長させるのではない。人を成長させるのは経験そのものへの態度である。」(バーナード・ショー)と言っています。どういう態度・どういう心構えでその不幸な経験を受け留めるかということがとても重要になってくると思います。
  • 詩篇の作者も「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」と告白しています。「苦しみ」に会うことはストレスそのものです。しかし、それが私にとってしあわせでした。なぜなら、そのことで、私はあなたのおきてを学ぶことができたからです。今や、私はあなたのみおしえを何よりも喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむようになったというのは、まさに「いのち」に触れた者だけが言えることではないでしょうか。
  • ゾーエーという「いのち」、「生きていく力」の源泉を持っているならば、すべての物事をプラスに捉えていくことができると信じます。そんな力がすでにキリストを通して与えられているのです。ただその力を磨かなければなりません。
  • 人生には必ず大なり小なり自分にとって不都合なことが起こります。自分に不都合なことが起こったときに苛立たないこと。苛立たないで、客観的にその自分の苛立ちを見つめることができる、そういう力をもっていることが「生きていく力」を磨いていきます。

(3) 目に見えないものを確信する力
いのちを磨く第三の面は、目に見えないものを確信する力です。
使徒パウロはこう言いました。「私たちは、目に見えるものではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(コリント第二4:18)。「目に見えないもの」とは、心とか、幽霊とか、そういうものに対してではありません。まだ起こっていない事柄、将来、必ず起こるという希望の約束です。そこに目を留めて生きるということを意味しています。

  • 私たちの人生は、死で終わるものではありません。それは肉体の死であって、魂は生き続けるのです。その魂に対してこれから起こることに目を留めて生きなければなりません。使徒パウロは「死んでしまったらどうなるのか」「すでに死んでしまった者たちはどうなるのか」というクリスチャンたちの素朴な疑問に対してこう述べています。「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたが知らないでもらいたくありません(しっかりと知って欲しい)。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」と言って、キリストの携挙の話をするのです。そしてそのとき、「死んだ者は死からよみがえって、空中に引き上げられ、いつまでも主とともにいることになります。こうわけですから、互いに慰め合いなさい。」と述べています。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)
  • 使徒パウロという人は、やがて確かに起こることを、はっきりと特別に神から見せられた人です。ですから、彼は早くそれが実現してほしい、天にある家に住みたいと願った人です。そんな希望をもって生きる人は、かえって、いのちに輝くのです。その面において、たとえ、「外なる人が衰えても、内なる人は日々新たにされている」のです。「内なる人」とは、いのちの源泉、生きている力の源泉を持っている人と意味です。その人は日々、新たにされるというすばらしい祝福を生きることができるのです。その「いのち」をキリストにあって、与えられています。ですから、そのいのちを磨かなければなりません。

(4) 神からの平安の中にとどまる力
最後の第四の面は、神からの平安の中にいつもとどまっているという力です。イエスは渡される夜、弟子たちにこう言われました。「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。このことをあなたがたに話すのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:32~33)。ここで世に勝つとイエスが語られた意味は、患難がある。しかしその中で平安を持つことができる力のことを言っています。

  • イエス・キリストの与える「いのち」は、この世にあって,「平安の中に私たちがとどまることのできる力)です。ただしその平安はこの世が与える「平安」とは異なります。この世が与える平安とは、私たちの目に見える状況―地位とか、財産とか、人とのかかわりーであったりしますが、イエスの与える平安は、私たちの父が共におられるという臨在からくるところの平安です。そこに私たちが日々とどまることを磨かなければなりません。それはどのようにして? それは、イエスがそうであられたように、私たちも、静かな時とところにわが身をおいて、深く神と神のみことばを思いめぐらし、瞑想することを通してです。そうさせないサタンの策略が私たちのまわりに張り巡らされているからです。

最後に

  • 最後にもう一度イエスが語られた「わたしはいのちです」というみことばの宣言に心を開きたいと思います。そして、キリストを信じる私たちに与えられている「いのち」を輝かせているかどうかを点検して、その「いのち」を磨いて、輝かせることができるように祈りたいと思います。


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