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主イエスの栄光の顕現(1)

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13. 主イエスの栄光の顕現(1)

【聖書箇所】 1章13節

画像の説明

【新改訳改訂第3版】
それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

【新共同訳】
燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。

【エマオ訳】
それらの燭台の真ん中に、足に達する衣を着て、胸に金の帯を締めた、人間の子のような方が見えた。


1.  冠詞なき「人の子」が意味すること

  • 1章13節の「人の子のような」という表現には、「人」にも「子」にも冠詞がついていません。このような例としては、ダニエル書7章13節です。そこでは、同じく冠詞なき「人の子のような方」という表現が見られます。そのことは何を意味しているのでしょうか。

    【新改訳改訂第3版】ダニエル書7章13~14節
    13 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
    14 この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。

    【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書5章27節
    また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。〔脚注〕

  • ダニエル書の「人の子のような方」は、「年を経た方」から「主権と光栄と御国が与えられた方」として描かれています。新約聖書では、ヨハネの福音書5章27節に、やはり冠詞なき「人の子」の例があります。ダニエル7章13節にしても、ヨハネ5章27節にしても、共通していることは、さばきを行う権威を御父から(ダニエルでは「年を経た方」)受けた存在であるということです。
  • イエスは地上において自分自身のことをしばしば「人の子」と言われましたが、その場合はみな冠詞がついています。なぜなら、そのときにはまだイエスは栄光を受けておられなかったからです。つまり、冠詞なき「人の子のような方」とは、超人間的存在としての栄光を受けられたキリストを意味しているだけでなく、御父からさばきの権威をも与えられている方と言えます。そのような方が、七つの教会を意味する「七つの燭台の真中に」おられたのをヨハネは見たのでした。つまり、復活された栄光のキリストが諸教会の「真中」「ただ中に」(中心に)臨在しておられるということです。
  • 黙示録が書かれた時代、教会はすでにローマ皇帝による迫害の嵐の中に置かれていました。しかし、そうした迫害の最中にあっても、主は諸教会の群れの中心におられるのをヨハネは見たのでした。それは、イエスが「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と言われたように、教会がこの世にあって、燭台としての光を輝かす任務を果たすことが出来るようにしてくださっていることを意味します。

2. 足まで垂れた上着を着て

  • すべての支配権を与えられた栄光に満ちた「人の子のような方」は、「足まで垂れた上着を着て」おられます。「足もとまで覆う長い上着」をギリシア語で「ポデーレース」(ποδηρης)と言いますが、それは大祭司が着る服(装束)を暗示しています。つまり、新約における大祭司としての権能を象徴するものだと言えます。「ポデーレース」は新約聖書でここにのみ使われている語彙(形容詞)です。


3. 胸には金の帯を締めて

  • さらに、この「人の子のような方」の胸には「金の帯」が締められています。旧約の大祭司の帯は青や紫や緋色などの撚り糸で刺繍された飾り帯であったのに対して、ここでは「金の帯」です。金は王を象徴する色です。したがって、「足もとまで垂れた長い衣」と「胸に締めた金の帯」とは、大祭司なるキリスト、王であるキリストを象徴しています。
  • 13節での「人の子のような方」のヴィジョンは、栄光のキリストにふさわしい「祭司性」と「王性」とを合わせ持った存在の姿です。

〔脚注〕

画像の説明

2013.12.3


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