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五千人の給食の奇跡

No.4 五千人の給食の奇蹟 「それを、ここに」

【聖書箇所】 6章1節~15節]

【新改訳聖書第3版】
1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。
2 大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。
3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。
4 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。
5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。
11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」
13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。
15 そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。


はじめに

  • 今朝の聖書箇所は「五千人の給食の奇跡」と言われている出来事が記されているところです。ヨハネの福音書においては、<第四番目のしるし>です。新約聖書の中の四つの福音書の中には、イエスがなされた多くの奇跡が記されておりますが、四つの福音書がこぞって、共通して記録している奇跡はこの「五千人の給食」の奇跡ただ一つです。

1. イエスの抜き打ちテスト

  • 「抜き打ちテスト」というのがあります。何の予告もなく、テストすることです。だいだいそんなことをする先生は生徒に嫌われること間違いなしですが、教育上、ある目的をもってするなら、必要なことでもあります。なぜなら、生徒の本当の実力が分かるからです。
  • 今回の聖書箇所に、イエスの弟子に対する抜き打ちテストが見られます。これまでヨハネの福音書にしるしとして記された出来事を通して、弟子たちがどの程度学んだかをイエスは試そうとされたのです。
  • 「イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。『どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。』」なぜイエスがこんな質問をされたのかといえば、次節(6節)にその意図が記されています。つまりこのイエスの質問は弟子のピリポをためして語られたことばだと説明されています。イエスはすでにどうするかを決めておられたのですが・・。
  • 「ためす」というのは少々意地が悪い感じがします。しかしイエスはここで自分の弟子にチャレンジをしておられるのです。このことばはピリポのみならず、弟子たち全員に対するチャレンジだったと思われます。今回の箇所は「七つのしるし」の丁度真ん中に当たる位置にありますが、これまでの大切な事柄が流れて来ています。

2. ピリポとアンデレの反応

  • ところで、ここで注目したいのは弟子のピリポとアンデレの応答です。

    (1) ピリポの反応
    「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」

    「二百デナリのパン」とはどういうことでしょう。当時、1デナリは1日の生活費でした。ですから、二百デナリといえば二百日分の生活費です。ピリポがなぜここで二百デナリという数字を出したのかはわかりません。一つの目安としてなのかもしれません。いずれにしても、こんな大勢では(五千人というのは、男性だけです、女や子どもを入れるならば、1万~2万人くらいと考えてよい)二百日分の賃金でパンを買っても足りないでしょうと言ったのです。算盤(電卓)をはじいてそれをもとにして物事を判断するような、非常に現実的な考え方をするタイプのひとりと言えます。要するに彼は、「どんなことをしたって、これだけの人々にパンを与えることは不可能です。」と答えたわけです。


    (2) アンデレ

    このやりとりをそばで聞いていた弟子の一人アンデレは、イエスにこう言いました。9節。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」

    アンデレは「大麦のパン五つと、小さい魚二匹」を持っている少年を見つけました。パンと言っても今日、私たちが食べているふっくらとしたパンのイメージとは全く違うものです。パンは粗末なクラッカーのようなものでした。魚も干し物にしたものです。アンデレは「それが何になりましょう。焼け石に水です」と言ったのです。

    イエスの「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」というチャレンジに対して、この二人の弟子がたどりついた結論は、五千人の人々を食べさせるのはどうしたって無理、不可能だというものでした。


3. 「それをここに持ってきなさい」

  • そこでイエスはどうしたでしょう。イエスは弟子たちに「人々をすわらせなさい。」と命じました(10節)。「座る」という動詞は「アナピプトー」で、食事をするために座るという意味です。つまり、単に「座る」という意味ではなく、これからイエスが人々に食事を与えるという意味で言われたのです。マタイの福音書では、「それをここに持ってきなさい」とイエスが語ったことを記しています。「それ」とは、少年が持っていた「五つのパンと二匹の魚」のことです。「五つのパンと二匹の魚」をイエスの手に渡したからといって、焼け石に水だと思っているわけですから、「人々を座らせなさい」というイエスの指示には、弟子たちは内心戸惑ったのではないかと思います。しかし、イエスの言われることにを弟子たちは従いました。
  • イエスは、2章のカナの婚礼で、「ぶどう酒がなくなった」という現実の中で水をぶどう酒に変えられるという奇跡をなさいましたが、そのときも、手伝いの人たちに「水がめに水を満たしなさい(いっぱいにしなさい)」と言われました。そのイエスのことばに対して「彼らは水がめを縁までいっぱいにした」とあります。それを世話役のところに「もって行きなさい」ということばにも彼らが従ったとき、宴会の世話役が口にしたのは芳醇なぶどう酒でした。このとき、手伝いの人たちが「ぶどう酒がないと言っているのに、水がめに水を満たしてなんになる」と考えて従わなかったとしたら、宴会に良いぶどう酒を出すことはできなかったはずです。
  • 4章後半にある「王室の役人が死に掛けている息子のために助けほしいという話がありました。父親はイエスのところへ行って、「自分の家に来て、息子をなんとかいやしてほしい、自分の子どもが死なないうちに早く来てください。」と懇願しました。そのとき、イエスはなんと言われたでしょうか。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」(「あなたの息子は生きます」) 
    このことばを聞いた父親は、イエスの言われたことばを信じて帰途につきます。しかし、おそらく心の中では心配がずっとあったと思います。もし、直っていなかったら、やはり、イエスをなんとしても自分の家まで連れてくるべきだったと思う心と戦っていたに違いありません。しかし、彼はイエスのことばを聞いて、信じようとしました。結果は、イエスの語ったことばと同時刻に息子はいやされていたのです。
  • ヨハネの5章の38年間、病に伏せっていた人の場合にも、「なおりたいか」と気持ちを呼び起こし、「起きて床を取り上げて歩きなさい」とイエスは彼に言われました。このことばを聞いて信じたとき、立ち上がる勇気を得て、実際に歩くことができたのです。
  • カナの婚礼にしても、自分の息子が死に掛けている役人にしても、38年間病人にしても、イエスはことばを投げかけています。そのとき、イエスの投げかけられたことばを聞いて、信じたとき、奇跡が起こっているのです。この点が非常に重要です。
  • 「ぶどう酒がありません」「息子が死にそうです」「だれも私を池の中に入れてくれる者がいません。」・・・・これは「見える世界」の現実です。この現実に対して、イエスの取られた解決の方法は「ことば」です。神のことばを与えることです。見る世界に支配されている人々は、見える方法で解決してほしいと願います。役人は「私の家に来て息子をいやしてほしい。」と。38年間の病人は、「だれも私を池に入れてくれるものがいない、だれ私を池に入れてくれる者がいるなら直るのに」と。しかし、イエスはそのようには解決されません。ただことばを与えたことでした。「帰っていきなさい。あなたの息子は生きるのです」、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」ということばです。イエスのことばは御父のことばであり、神のことばです。「光よ、あれ」と言って光ができた、そんな力ある、創造的な力をもったことばなのです。
  • ヨハネ6章のイエスのチャレンジは、弟子たちが本当に「聞いて信じる」者として成長しているかどうか、そのための抜き打ちテストでした。果たしてこのテストに彼らは合格したのでしょうか。
    はじめ、彼らは「見る世界で」判断しました。

    6:7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
    6:8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
    6:9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」

  • これらは「見る世界」での判断です。しかし、イエスは彼らを「聞く世界」へと導かれます。「あなたの息子は生きるのだ」、
    「起きて、床をあげて歩きなさい」、ここでもイエスは、「人々をすわらせなさい。」と挑戦したのです。信仰の世界、聞いて従う世界、理性では考えられない世界へのチァレンジです。「人々をすわらせなさい」というのは、イエス自身が目の前にいる大勢の人々にパンを与えるという宣言です。
  • さて、イエスはアンデレが「焼け石に水」だと思っていたわずかなもの、つまり「五つのバンと魚」を取り、感謝をささげてから、座っている人々に弟子たちを通して分けてやりました。「そんなにたくさんありませんから、あなたがたはこの分で我慢してくださいね」というのではなく、「彼らにほしいだけわけられた」のです。人々は十分なほどお腹が満たされただけでなく、あまったバンくずを集めると12かごがいっばいになったのです。

4. イエスの手に明け渡されるとき

  • 「五つのパンと二匹の魚」というのは、本当にわずかなもの、小さなものの象徴と言えます。ヨハネはパンをただのパンとしないで「大麦のパン」と書いています。大麦のパン、小麦のパンではなく、大麦で作ったバンは最低の質のパンという意味です。そのようなものでも、ひとたび、イエスの手の中にささげられるとき、イエスはそれを取って祝福されました。少年がささげたものをイエスは祝福され、大勢の者たちが満腹できるほどの必要が満たされたのです。
  • 現代の風潮として、小さいこと(少ないこと)は軽く見られ、大きいこと(多いこと)は価値あることとしてみられ、もてはやされる時代です。少数意見はなおざりにされ、多数の意見がいつも正しいかのように判断される時代です。地味なことよりも、派手やなにことがもてはやされます。地方よりも都会へ、貧しいことよりも富むほうへ・・・、またできるだけ早く、できるだけ大きくなることへ人々は駆り立てられています。
  • 少年が自分の持っていた「五つのパンと二匹の魚」をイエスの前に差し出すことがなければ、それはそれだけのものです。ペテロやパウロという使徒たちでさえも、自分の力で奉仕しているときは無力でした。しかし、イエスの許に行ってイエスにすべてを明け渡したときに、はじめて神に尊く用いられました。
  • たとえ、人の目には小さなもの、わずかなもの、それが何の役に立つだろうと思ったとしても、自分に与えられているものをイエスのものと差し出すとき、イエスはそれを何倍、何十倍、何百倍にも増して用いてくださるというのが、この奇跡が教えていることです。。「これがない、あれもない」ということを問題にするのではなく、「今、自分に与えられているものを知り、それを感謝して、それをささげるとき、私たちが考えも思いもよらなかった世界が開かれてくるのです。私たちが頭から不可能だと思い込んでいることでも、主の手に明け渡すとき、不可能が可能になる世界があることをイエスはこの出来事をとおして私たちに教えようとしたのだと思います。
  • この6章の現代版があります。

    1979年、ある一人の女性がノーベル平和賞をもらいました。審査員全員一致の賞です。その女性の名前は、マザー・テレサです。「マザー」というのは、愛称です。彼女の生き方についていった多くのシスターたちから呼ばれた愛称が「マザー」でした。彼女は裕福な家の生まれでしたが、やがて修道女となります。彼女は教師として子どもたちに勉強を教えていました。そんな生活が続く中、彼女はある用事でインドを旅しました。その帰りの列車の中で、彼女は神の声をはっきりと聞きました。「あなたがインドで見た大勢の孤児たち、食べる物もなく、着る物もなく、人扱いされていない貧しい者たちのところに行きなさい。」と。

    彼女はその主の呼びかけで、インドに行くことを決心したことを修道院の院長に言いました。すると、院長は、「そんなことをあなたひとりで、なにができますか。」と拒否されました。しかし、テレサは主の声に従い、両親や兄弟とも別れて、ひとりインドのカルカッタに行ったのです。そこで、道で倒れている人に声をかけ、汚れた体を拭き、貧しい子どもたちを抱擁しました。

    はじめはだれも彼女の存在を知る者はありませんでしたが、次第に、彼女を支援する人が起こされてきました。彼女の働きに賛同して、身をささげる者たちが起こされていきました。そのようにして彼女の無報酬の奉仕は、全世界に広がっていきました。その働きが評価されて、ノーベル平和賞をもらいましたが、その賞金は、もちろん貧しい人々のために使われました。

    マザー・テレサがはじめて日本を訪れたときに、テレビ局の記者たちとのインタビューの模様が放映されました。そこに出演したあるテレビ局の記者は、彼女が来る日も来る日も、何百人という人のために、食事の配給をしていることを知って、貧しいシスターたちがその資金を集めるのはさぞかし大変でしょう、という発言をしました。すると、マザー・テレサは「お金は一銭もないんです。」と答えました。「でもすべての必要な物資はいつも満たされ、施設にやってくる人の数がどんな増えても、今まで一度も不自由したことがありません。また施設にやってくる人を断ったことがありません。ただ主に祈るだけです。」と答えました。すると聞いていた記者の顔が一瞬当惑しました。彼はいくらシスターたちが貧しいといっても、一応は予算を立てて計画的に運営しているものと考えていました。一銭もないなら、どうしてあれほどの人々を養うことができるのか。彼の頭では考えることができなかったわけです。とはいえ、一線もないのに毎日何百人という人々に食事を与えている現実があるわけです。その現実の中で働いているマザー・テレサがいて、その記者に面と向き合って話しているのです。

    ここにひとつのチャレンジがあります。テレサは自分という器を神に差し出しただけです。それだけで神がそれを祝福して用いておられるのです。そして大勢の貧しい人々に食事を与え、生きることへの支援をしているのです。神が彼女を通して働いておられるとしか考えられません。

    私たちも自分という存在―自分が持っているものもすべて含めて主に差し出すとき、神の奇跡がなされるのだと信じます。


最後に

  • 最後に、イエスさまが語った一言を思い起こしたいと思います。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12章24節)

  • ここには、イエスご自身が自分のいのちを「一粒の麦の種」にたとえて、それをささげることが記されています。「死ぬ」ということは自分を主にささげるということです。自己中心的な種の殻を破れるとき、そこに新しいいのちが芽生えます。そのいのちの芽生えは神の愛のいのちの芽生えです。その芽は神が注がれる力によって成長し、多くの実を結び、多くの者にそれが分かち与えられるのです。ただそのためには、自分(たとえどんな貧しくても、何の力や能力がなくても)差し出すことです。「それをここに持ってきなさい」という主の声に聞き従うことです。そうするなら、神の栄光が現わされるのです。「第四のしるし」はそんな世界に私たちを招こうとしています。

2012.9.28


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