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亜麻布のももひき


2. 亜麻布のももひき

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ベレーシート

  • 祭司は神によって選ばれる(召される)だけでなく、その務めにふさわしい服を身に着けなければなりませんでした。大祭司もその息子たちも同様です。祭司たちの着る「聖なる装束」はさまざまな部分からなります。神の啓示の順序は、外側の部分(エポデ)から語られていきますが、私たちは最後に語られる部分、つまり目に見えない部分である「裸をおおう亜麻布のももひき」から始めたいと思います。
ロング・パンツ.JPG
  • 「ももひき」(新改訳)ということばは年配の人は知っていますが、今の若者は知らないと思います。それは腰から腿のあたりまでをおおう下着のことです。現代的な表現をするなら、水泳選手が身に着けるロングパンツ(右図)をイメージすると良いと思います。そのロングパンツは身体に密着するものでなくてはなりません。祭司たちの着る下着も同様に身体に密着するものでした。ただその素材が白い亜麻布でなければなりませんでした。なぜなら、白い「亜麻布」は神の義を象徴するものだからです。

1. 亜麻布のももひき

  • そこでまず、この「裸をおおう亜麻布のももひき」について記述されている箇所を見たいと思います。

【新改訳改訂第3版】出エジプト記28章42~43節
42彼らのために、裸をおおう亜麻布のももひきを作れ。腰からももにまで届くようにしなければならない。
43 アロンとその子らは、会見の天幕に入るとき、あるいは聖所で務めを行うために祭壇に近づくとき、これを着る。彼らが咎を負って、死ぬことのないためである。これは、彼と彼の後の子孫とのための永遠のおきてである。


【新改訳改訂第3版】出エジプト記 39章28節
亜麻布でかぶり物と、亜麻布で美しいターバンと、撚り糸で織った亜麻布でももひきを作った。


ズボン.JPG

●「ももひき」と訳されたヘブル語は「ミフネセー」(מכְנְסֵי)で、「集める(Piel)、身をくるむ(Hith)」という意味の動詞「カーナス」(כָּנַס)を語源としています。「ももひき」は腰から腿までの肌を覆い隠すためのものです。素材となる亜麻布は「ヴァド」(בַד)、あるいは「バド」(בַּד)が使われていますが、亜麻布を表わすもう一つの語彙「シェ―シュ」(שֵׁשׁ)があります。「シェ―シュ」は良質の亜麻布のことで、織り目の細かい亜麻布であることを意味しています。そのために「ももひき」が肌に密着するのです。

●出エジプト記 39章28節には「撚り糸で織った亜麻布でももひきを作った。」とあります。原文では、「撚られた亜麻糸で織られた亜麻布のももひき」(「ミフネセー・ハッバーッド・シェーシュ・モシュザール」(מִכְנְסֵי הַבָּד שֵׁשׁ מָשְׁזָר)とあり、「ミフネセー・ハッバーッド」(מִכְנְסֵי הַבָּד)で、「亜麻布のももひき」(新改訳)と訳され、新共同訳では「ズボン」、口語訳では「下ばき」、NKJVでは「short trousers」、NIVでは「the undergarments」と訳されています。


2. なにゆえに「腰から腿まで」をおおわなければならないのか 

  • なぜ、大祭司、および祭司たちが「会見の天幕に入るとき、あるいは聖所で務めを行うために祭壇に近づくとき、これを着る」ことが規定されているのでしょうか。それは「彼らが咎を負って、死ぬことのないため」なのです(出28:43)。しかし、なぜ、「亜麻布のももひき」を着ないと死ぬのでしょうか。しかも、その「ももひき」が「腰からももにまで」届くようにしなければならなかったその理由とは何なのでしょうか。その問いかけについて考えて見なければなりません。

(1) 裸の自覚

  • エデンの園に罪が入ったことによってもたらされた最初の結果は、人(アダムとその妻)が自分たちが裸であることに気づいたことでした。

【新改訳改訂第3版】創世記3章7節
このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。


●アダムが主から命じられた二つの務め、その一つは「耕すこと」で、もう一つは「守る」という務めでした。特に後者の「守る」というのは「区別する」という務めです。良いものと悪いもの、きよいものと汚れたもの、いのちと死など・・。蛇の誘惑によって、神の基準による区別の務めを果たすことができなくなったアダムとその妻にもたらされたものは、以下の三つのことです。

①「目が開かれたこと」
●善悪の知識の木の実を取って食べたことで、サタンが言ったように目が開かれました。サタンは嘘を言っていなかったのです。しかし「目が開かれる」ということは、神の視点とは異なる視点でものごとを見るようになったことを意味しています。

②「自分たちが裸であることを知ったこと」
●その結果、「裸であることを知った」のです。人は初めから裸でしたが、今や新しい目で見た「裸」です。それは自分の愚かさ、醜さ、恥ずべき自分の気づきとしての「裸」です。

③「彼らはいちじくの葉をつづり合わせて、腰のおおい(腰帯)を作ったこと」
●目が開かれて、自分たちが裸であることを知った二人は、いちじくの葉をつづり合わせて、腰のおおい(腰帯)を作りました。それはお互いの裸を隠すためでした。つまり、彼らは裸でいることができなくなったのです。それは神に対しても、自分のパートナーに対しても、そして自分に対しても、真の自分の姿を隠さなければならない存在になってしまったことを意味します。換言するなら、罪を犯したあるがままの自分をさらけだすことができない現実、これが「裸であることを知った」という意味なのです。

●彼らはお互いに自分の裸を隠すために、いちじくの葉をつづり合わせて腰のおおいを作りましたが、果たしてそれで十分であったのは思われません。どうかは分かりません。彼らがと自分の裸をいちじくの葉で隠そうとしたのは、単に、性的な羞恥心というよりは、神に対する裸の自覚です。つまり、それは自分の理性や意志によっては制御できない自分の愚かさ、醜さを隠そうとする象徴的な行為であったということです。
その証拠に「神の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した」という行為の理由を、「私は裸なので、恐れて、隠れました」と弁明しています。「恐れ」という感情と「隠れる」という行為は自分が裸であることに気づいた結果です。神は追究されます。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」という詰問にアダムは隠し切れなくなり、そのため、彼は弁解をし、自分を正当化することに心を奪われ、責任転嫁をしてしまいます。ここに、本来の人間の尊厳性を失った裸になれない惨めな姿、ますます「深い淵」に陥っていく人間の脆い姿が露呈されています。


(2) 聖書が意味する「腰」の象徴的意味 

  • 祭司たちの装束の中で、なにゆえに腰の部分をおおう「ももひき」を着る(はく)必要があったのでしょうか。そのことを考えるためには、「腰」について、聖書がどのように語っているかを調べる必要があります。「腰」に関するヘブル語は以下のように三つあります。

①「モトゥナイム」(מָתְנַיִם)

●この語彙は、身体の部位における文字通りの「腰」を意味しますが、と同時に、「腰の帯を引き締め」「腰に帯をする」と表現されると、「準備ができていること、心構えができていること」を意味します。あるいは、いつでも出発できる、いつでも戦うことができているという「心の備え」の象徴的表現となります。これは新約聖書にも受け継がれ、「ですから、あなたがたは、心を引き締め(=心という腰に帯を締め)、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」(Ⅰペテロ 1:13)という終末論的待望の姿勢となります。


②「ハラーツァイム」(חֲלָצַיִם)。「ヘレツ」(חֶלֶץ)の双数形

●この語彙の初出箇所は創世記35章11節。
神はまた彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る(口語訳は「身」と訳している)。」

●ここでの「腰」は生殖力のやどるところとされる、生命の泉の象徴です。「腰から出る」というのは、その人の血を引くという意味。つまり、その男から生まれたという婉曲的表現。同じ意味の例として、「しかし、あなたがその宮を建ててはならない。あなたの腰から出るあなたの子どもが、わたしの名のために宮を建てる。」(Ⅰ列王記 8章19節)があります。

●また、「腰」を意味する「ハラーツァイム」(חֲלָצַיִם)には、その人の「身」(からだ全体)という意味で使われることもあります。


③「ヤーレーフ」(יָרֵךְ)

●実は、この語彙こそ祭司たちが「ももひき」を着ることと深く関連しています。以下の箇所では、「腰」が「もも」とも訳されています。この語の初出箇所は創世記24章2節です。
「そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。『あなたの手を私のもも(יָרֵךְ)の下に入れてくれ。」

●誓いを立てる際に、誓いの相手の腰(腿・股)の間に手を入れました。この場合の「腰」(腿・股)は生殖器部位の婉曲的表現です。この誓いの形式のユダヤ的な意義は、割礼によって神との間に結ばれた契約を相手に想起させ、自らの誓いの神聖さを裏づけるという点にあります。

【新改訳改訂第3版】創世紀 47章29 節
イスラエルに死ぬべき日が近づいたとき、その子ヨセフを呼び寄せて言った。「もしあなたの心にかなうなら、どうかあなたの手を私のももの下に入れ、私に愛と真実を尽くしてくれ。どうか私をエジプトの地に葬らないでくれ。

【新改訳改訂第3版】創世記 32章25 節
ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。

【新改訳改訂第3版】創世記32章31~32節
彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。それゆえ、イスラエル人は、今日まで、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない。あの人がヤコブのもものつがい、腰の筋肉を打ったからである。

●ここでの「もも」は人間の生来の力の象徴である。その力は自我の力です。御使いはヤコブの自我の力の余りに強いのに根負けして、彼のもものつがい、すなわち、ヤコブの生来の力を砕くことで、ヤコブが神にのみ頼らざるを得ないようにされたのです。


(3) 「亜麻布のももひき」を着ける必然性

① 祭司の務めが人間の生来の力によってなされないために

  • なぜ祭司たちが腰からももにかけて、そこをおおう「ももひき」をはく必要があったのか、その答えは祭司の務めが人間の生来の力によってなされないためでした。人間的な常識や判断による務めではなく、すべて神の指示に従ってなされなければならなかったのです。特に、人の目に触れない部分において、人間の生来の力が制御されるべきことを祭司自らが十分に心に留めていなければならなかったのです。

② 祭司たちが良心の呵責なく仕えるために

  • さらにもう一つ、祭司たちが「亜麻布のももひき」を着る必要がありました。それは、祭司たちが良心の呵責なく仕えるためです。祭司たちの仕事は神の近くで仕える者たちです。その彼らがなんら良心の呵責なく仕えるためには、自分の罪に対する咎めや恐れから解放されていなければ、その仕事をすることはでません。神に近くであればあるほど、自分が裸であること、隠さなければならない惨めな者であることを気づかせられるのです。そこで、神が彼らに「亜麻布のももひき」を着させたのは、彼らのみじめな裸を隠し、仕える者の心に安心を与えるためでもあったのです。祭司の働きは、時にはかかんだり、しゃがんだりする態勢を取らなければならないこともあったはずです。そうした際に、覆われているはずの恥ずべき部分が人に丸見えになることを神は避けさせたのだと考えます。
  • 「亜麻布のももひき」、それは神の義の衣、救いの衣です。それを身に着けることで、初めて祭司としての務めを果たすことができるのです。これは神の恩寵なのです。

べアハリート

  • 大祭司の「聖なる装束」についてのメッセージは、祭司職を与えられたアロンとその息子たちのためのものだけではありません。詩篇96篇9節に「聖なる飾り物を着けて、主にひれ伏せ。・・」とあります。「聖なる飾り物」とは祭司の装束です。それゆえ、キリストにあって「王であり祭司」とされている者たちは、祭司の装束に隠されている永遠の真理を知る必要があるのです。そのための知恵と啓示の御霊が豊かに与えられるように祈りたいと思います。

2016.7.30


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