****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

人の救い


シリーズ「霊の中に生きる」 No.17

人の救い

前へ|次へ

べレーシート

●昨年の5月から新シリーズ「霊の中に生きる」というテーマで説教してきました。「人の霊」について、そしてそれを活用して主と交わるということを、私はそれまで知りませんでした。しかし、それらの重要性をウオッチマン・ニーとウイットネス・リーによって教えられました。信仰生活50年目にして初めて「人の霊」を知ってから、このことをテーマにして語ってきました。そして、パウロが手紙の最後でしばしば使っている「あなたがたの霊」というフレーズを、私も使うようになりました。

①「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように」(ピリピ4:23)
②「主があなたの霊とともにいてくださいますように」(Ⅱテモテ4:22)
③「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように」(ピレモン25)

●前回は「からだ」について取り上げ、その「からだ」を神に献げることの大切さを学びました。しかし「からだ」には、個人的な救いの枠を超えた「エックレーシア」(教会)という「キリストのからだ」があることをパウロは語っています。全体的な救いである「エックレーシア」があることで、はじめて個人の救いという領域が成り立つのです。つまり個人の救いは、全体的な「エックレーシア」の中に組み込まれているのです。事実、ローマ人への手紙12章1~2節では「からだ」が取り上げられていますが、それは3節以降に語られる「エックレーシア」の前置きとなっています。つまり、私たちはキリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官(肢体)だということです。

【新改訳2017】ローマ人への手紙12章3~5節
3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。
4 一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、
5 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。

●パウロが1節で「神のあわれみによって、あなたがたに勧めます」と言っていることばはとても重いです。なぜなら「あわれみ」ということばは、「愛」という語彙よりもずっと具体性を持っている語彙だからです。「あわれみ」とは、サタンの支配の中に「閉じ込められてしまった者」(=失われた者)をどんな犠牲を払ってでも、そこから救い出そうとする神の心情(「スプランクニゾマイ」σπλαγχνίζομαι)です。そのような神の心情を土台として、パウロは勧めをしているのです。神のご計画とみこころは、地において神を表現するご自身のからだを造ること、すなわち「エックレーシア」を造ることにあります。ですから、私たちの「霊とたましいとからだ」がその中に組み入れられていることを知るべきです。からだの輝きは、互いの器官の相互作用によってはじめて十全に現されるからです。そのような神のみこころを踏まえた上で、私たちの個人的な救いについて再考したいと思います。

1. すべては「人の霊」から始まる

●人の救いはすべて「人の霊」から始まります。そのことに目が開かれてから、キリストの贖いの理解も一層明確に開かれたことを私は経験しました。そもそも、神である主が人を造られる時、大地のちりで人を形造り、その鼻に「いのちの息」(ニシュマット・ハッイーム: נִשְׁמַת חַיִּים )を吹き込まれたことで、人は「生きるもの」(ネフェシュ・ハッヤー: נֶפֶשׁ חַיָּה)となったとあります。つまり「生きるもの」とは「たましいとからだ」(=肉)にいのちが与えられたことを意味しています。ただ人が他の生きものと異なる点は、神と交わる機能を持つ「霊」が神によって吹き込まれたということです。それゆえ、人は「霊とたましいとからだ」の三つの部分から成っているのです(Ⅰテサロニケ5:23)。

●神と交わる機能が「」の部分です。最初の人であるアダムは、エデンの園で百年は過ごしていたと考えられます(創5:3では「セツが生まれるまでが、130歳」と記されています)。ところが、人の存在とその目的に妬みを抱いた御使いのかしらが「蛇」に受肉して、狡猾にも人をだまし、神との交わりの器官である人の霊を機能不全に陥れました。しかし神である主は、人の霊の機能を回復するために、神のかたちである御子を人として受肉させました。人となられた御子イェシュアは30歳になって公生涯を始めた際、洗礼によってすべての人を取り込んで、最初のアダムが犯した罪とのろいを十字架の上で終わらせてくださったのです。そればかりか、三日目に死からよみがえり、「いのちを与える御霊」となって人の中に入り、人の霊を回復してその中にともに住んでくださったのです。

●イェシュアは復活されたその日(すなわち週の初めの日)の夕方、戸に鍵がかけられた部屋にすり抜けて入られ、弟子たちの真ん中に立って、彼らに「息を吹きかけ」て「聖霊を受けよ」と言われました。そのことによって、弟子たちの霊の中に聖霊が住むということが成就したのです。これは、神が人とともに住むということが包括的に成就した驚くべき歴史的事実です。「成就する」ことをギリシア語で「プレーロー」(πληρόω)と言います。これは神が私たちのために成してくださった出来事として、繰り返し、繰り返し、自分たちの口で語られなければならない神の贖いの中心的な出来事です。

●神の贖いは、私たちがキリストとともに死んで、キリストとともに生かされるという新創造がすでに始まったことを意味しています。すでに私たちはキリストと一体となっているのです。そのことを私たちが霊の中で受けとめ、信じるときに、キリストとの一体性が実体化するのです。キリストは人の霊の中で、御霊として生きておられます。「主は御霊です」(Ⅱコリント3:17)とあるとおりです。私たちの救いは人の霊の中ですでに始まっているのです。そのことを絶えず、日々、意識することが必要なのです。キリストにある新創造は人の霊の中から始まっているのです。

●創世記2章25節に「人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」とあります。「恥ずかしい、恥じる」というヘブル語は「ボーシュ」(בּוֹשׁ)で「水源が涸れる」ことを意味するのですが、それが否定されています。つまり彼らが「恥ずかしいとは思わなかった」とあるのは、彼らに涸れることのない「いのちの源泉」があったことを意味します。新約時代の初代教会の人々は「いのちの源泉」であるイェシュアを彼らの霊の中にもっていることで、何ら恥じることのない最強の花嫁とされたのです。しかし、もしこの「いのちの源泉」を失うときに人がどうなってしまうのかは、創世記3章を見ると明らかです。つまり彼らは「自分のために」生きるようになり、「恐れ」が生じることが分かります。

●蛇の言うことを信じたアダムとエバは、神である主の「音」(コール: קוֹל)を聞いただけで「恐れ」て身を隠してしまいます。それまでの彼らはこの「恐れ」の感情を経験したことがなかったはずです。しかし「善悪の知識の木」から食べてしまった後彼らは、「恐れ」の感情に支配される者となってしまったのです。すべての人を縛っているのは「恐れ」の感情です。この感情が人の思いを支配し、「身を隠す」という行為を引き起こしたのです。その恐れとは神に対する畏敬、神を恐れかしこむ「恐れ」ではありません。その場合の「恐れ」は神から来ますが、そうではない恐れは「死への恐れ」を招きます。この死への恐れは、脅しによるものであったり、拒絶される恐れであったりします。いずれにしても、神を拒絶する形で現されるようになります。

【新改訳2017】Ⅰヨハネの手紙4章18節
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。
恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。

●このみことばの後半では「愛には恐れがない」ことの理由が記されています。その理由とは「恐れには罰が伴い」とあります。つまり恐れは刑罰と関係しているのです。これは私たちの経験から理解できるはずですが、恐れは人のたましいの部分で引き起こされているのです。恐れの感情は、「叱られる、責められる、仕打ちされる、復讐される、罰が当たる、良くないことが身にふりかかる」といった思いで現わされます。もろもろの偶像、占い、霊感商法などは、人の恐れの心理を食い物にしています。しかし、霊の中で神との愛の交わりがなされる時、「恐れの感情」を引き起こすたましいに対して、霊が影響を及ぼします。それゆえ、「全き愛は恐れを締め出します」とあるのです。「恐れを締め出す」というのは人が霊の中で生きていることの表れです。人の霊にあるのは涸れることのないいのちの源泉です。そこはたましいを支配しているサタンが入れないシークレット・プレイスです。台風の目の中にあるような「静けさ」が霊の中を支配しています。そこに神がともにおられるのですから、その霊の中に生きるようにしなければなりません。私たちはいつもそこにとどまる必要があるのです。

●イェシュアは繰り返し、繰り返し、「恐れてはならない」と言われました。それらは「霊であり、いのち」であるイェシュアのことばであり、預言的なことばでもありました。つまりイェシュアが死んでよみがえり、「いのちを与える御霊」となって私たちの霊を再生し、その中に住むことによってはじめて実現することを語られていたのです。単なる気休めのことばではありません。三一の神が私たちに内住することで「恐れることがなくなる」のです。その約束が込められたことばこそ「恐れてならない」ということばなのです。いのちの源泉から離れた人間は「恐れる」ようになることを、誰よりも知っておられるイェシュアが語っていることばです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書15章4~5節
4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

●長い間、このイェシュアの語られた「とどまる」ということばの意味を私は理解することができませんでした。これは、私たちが霊の中に生きることを言っているのです。ですから、「霊を働かせる」ことがなければ、実を結ぶことはできないのです。この場合の「実」とは何でしょうか。その「実」とはイェシュアと一体となることです。これを私たちのたましいでしようとしてもできません。たましいはからだとともに「肉」です。「肉」は神に敵対する性質を持っているために、「とどまる」(=霊の中に生きる)ことができないのです。「とどまる」ために霊を働かせなければなりません。霊を働かせるにはどうすれば良いのでしょうか。それは「主の名」(シェーム・イェシュア)を呼ぶことです。「ええ? これだけ」と思われるかも知れませんが、これだけで十分なのです。他の言葉は要りません。預言者エレミヤに神は言われました。『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』(エレミヤ33:3)とあるとおりです。

●「わたしを呼べ」とあるように、「シェーム・イェシュア」これだけで天の窓は開くのです。「主の名を呼び求める者は、だれでも救われる」、これだけでだれでも救われるのです。「主の名を呼ぶ」ということが霊を用いる、あるいは霊を働かせることになるからです。いろいろな説明的な祈りの言葉は要りません。ただ「シェーム・イェシュア」と「名を呼ぶ」、それは霊の祈りだからです。以下のように、「アバ、父」でもOKです。

【新改訳2017】ローマ人への手紙8章15~16節
15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
16 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。

●「アバ、父」をヘブル語では「アバ(=父)」だけでOKです。「シェーム・イェシュア」でもOKです。なぜなら、イェシュアとアバは一つだからです。でも「名を呼ぶ」なら「シェーム・イェシュア」でしょうね。そのとき、私たちを閉じ込めている恐れの霊から解放されるのです。人間は生まれながら、この「恐れ」に閉じ込められているのです。その扉を私たちは自力で開けることはできません。すべての名に勝る「イェシュアの名」であるお方しか、その幽閉の扉を開けて私たちを救い出してくれる方はいないのです。まさにこの「イェシュアの名」、「シェーム・イェシュア」こそ麗しき御名なのです。

2. 御霊は私たちの「たましい」を造り変える

●人の霊の中におられる御霊はキリストの霊でもあり、かつ御父の霊でもあります。三一の神の霊が私たちの霊の中に内住しておられるのです。私たちの内におられると同時に、天にもおられるのです。これを相互内在、同時同存と言います。私たちに内住されている御霊は、私たちが御子のかたちと同じ姿になるようにと、とりなしの務めをしておられます。なぜ私たちが「御子のかたちと同じ姿になる」ことが必要なのでしょうか。それはイェシュアがそうであられたように、私たちも地において神の表現となるためなのです。私たちのからだが変貌するとき、すなわち空中同じ目的をもって、携挙によって一瞬にしてからだが霊のからだに変えられる時には、同時に私たちのたましい(知・情・意)も完全に変えられますが、それまでもたましいは徐々に聖化され(=きよめられ)続けられています。それは石が宝石に造り変えられるのと同様です。私たちの内に住んでおられるキリストの霊(=御霊)もその目的のためにとりなし続けておられることが、以下に示されています。私たちの内側だけでなく、つまり外側つまり神の右の座においても、同じ目的をもってイェシュアがとりなしておられるのです。

【新改訳2017】ローマ人への手紙8章26~29節
26 同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。
27 人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。
28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
29 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

【新改訳2017】ローマ人への手紙8章31~34節
31 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
32 私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
33 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。
34 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

●神の子とされた者に敵対する存在はサタンです。サタンはこの世のいろいろな外的状況によって、私たちを罪定めしようとしてくるかも知れません。しかし神の右の座に着いているイェシュアは、私たちのためにとりなしていてくださるのです。内だけでなく、外においても圧倒的に守られているのです。私たちが御子のかたちと同じ姿になるために、地においては私たちの霊において御霊がとりなし、天においては神の右の座に着いて御子がとりなしておられるのです。私たちはこの同時同存なる神のとりなしによって守られているのです。

3. 朽ちることのない「からだ」への変貌

【新改訳2017】ローマ人への手紙6章6節
私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。

●私たちの古い人とは「罪のからだ」のことであり、私たちの生来のからだのことです。このからだは御国を受け継ぐことができません。ですからこのからだは必ず死ぬか、あるいは変貌される運命にあります。ですが、それがすでになされたことを語っています。それは「罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるため」であると述べています。私たちはキリストが受洗されたときにすでにキリストと一体とされているので、キリストの十字架とともにすでに死んでおり、キリストが復活したことで、すでに復活の初穂となられたキリストと同じからだにされるということが保証されているのです。しかし私たちはいまだ、からだのよみがえりも変貌もなされていません。必ずそうなるという信仰によって生きているのです。

●生来のからだは罪のゆえに必ず滅ぼされなければなりません。肉体の衰えにも打ち勝つことはできません。しかしたとえそうだとしても、私たちは落胆しません。なぜなら、「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされて」いるからです。このことを信じますか。

【新改訳2017】Ⅱコリント人への手紙4章16~18節
16・・、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
17 私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。
18 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。

●「落胆する」と訳された「エンカケオー」(ἐγκακεω)は「失望する、勇気を失う、疲れて嫌になる」といった意味合いがありますが、それらが全否定されています。さらに加えて、「私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされている」と述べています。「衰える」と訳された「ディアフセイロー」(διαφθείρω)は「滅びる、朽ち果てる、壊れる」という意味もあります。ここで「外なる人」とは「からだ」を意味していることが分かりますね。そしてそれとは反対に、「内なる人」はキリストにある「霊とたましい」です。その部分は日々新たにされ続けるのだとパウロは記していますが、「外なる人」の方は「一時の軽い苦難」と記されています。その理由は、その一時の苦難を通ることが必然的に定められてはいるものの、「それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光がもたらされる」からです。

●「比べものにならないほど」と訳された箇所には、「ヒュペルボレー」(ὑπερβολή)という語彙が二度重ねられています。この一語だけでも「卓越した」ことを表しているにもかかわらず、パウロはこの語彙を重複して用いているのです。これは、ヘブル語で最上級を表す語彙を二度重ねて使う用法とまったく同じです。つまりパウロはヘブル的修辞法を、ギリシア語にも用いているということです。パウロは「この上ない」ことを意味する前置詞の「ヒュペル」(ὑπερ)が付いた語彙を、自分で数多く作り出して使っています。なぜなら御国のすばらしさを表すことばが、この世の言語にはないからだと考えられます。たとえば、以下がそうです。

①「さらにすぐれた、はるかに勝った」を意味する「ヒュペルバッロー」(ὑπερβάλλω)
②「~を越えて豊かに、途方もなく豊かに」を意味する「ヒュペルエクペリッスー」(ὑπερεκπερισσοῦ)
③「著しく目に見えて成長する」を意味する「ヒュペルアウクサノー」(ὑπεραυξάνω)
④「~よりも卓越した」を意味する「ヒュペルエコー」(ὑπερέχω)
⑤「際立った、超大物の」を意味する「ヒュペルリアン」(ὑπερλίαν)

●パウロがなぜそんな語彙を作り出すかといえば、メシア王国のすばらしさがこの世のものとは比べられないほどであることを証しするためです。そのことを知らない人は、パウロの表現が大袈裟なものと感じてしまうことでしょう。しかしパウロは第三の天(パラダイス)にまで引き上げられた人です。ですから、私たちは霊の中で、パウロが言っていることを信じる必要があります。彼は「神のことばを完成させた人」だからです。そのようにして表される「御国の栄光」は、メシア王国が実現したときに目に見えるかたちで現わされるようになります。

●新しい御霊のからだは御使いのようなからだとなるため、私たちの想像を超えるほどのことがなされると思います。人間のからだは創造の当初から神を表現する器として造られました。この点は永遠に変わらない真理なのです。人間の罪のからだが変貌して朽ちないからだとなって、永遠に神に仕えるためのからだとされるのです。それは地を支配するためです。それゆえ、「からだ」は神の働きをするために必要不可欠なのです。しかしこの世においては新創造されたとしても、いまだ、罪のからだです。罪のからだであっても、その働きは肉によるものであってはならず、霊によるものだけが神を喜ばせます。そのようなこの地上での働きに対して聖書は「報い」があることを語っています。マタイの福音書25章は御国において「報い」が与えられる話がまとめられています。

【新改訳2017】マタイの福音書25章15~16, 21節
15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、
16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
21 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

●主は私たちを贖われるだけでなく、それぞれに与えられた賜物を活かして用いた者に対して、報いを与えることを教えています。その報いは御国において与えられるものです。先週、神田牧師の説教の中でゲームソフト「あつまれ どうぶつの森」「マインクラフト」の話がありました。私はその話を聞いていて、そのゲームをする資格があるのは、主から与えられた賜物を十分に活かした「良い忠実なしもべ」こそふさわしいと思いながら聞いていました。罪のからだには制限があります。しかし旧約には、主に贖われた者を「正しい者」として祝福している預言のことばがあります。

【新改訳2017】詩篇92篇12~14節
12 正しい者は なつめ椰子の木のように萌え出で レバノンの杉のように育ちます。
13 彼らは【主】の家に植えられ 私たちの神の大庭で花を咲かせます。
14 彼らは年老いてもなお 実を実らせ 青々と
(新改訳改訂第三版は「みずみずしく」)生い茂ります。

●「正しい者」とは「神の大庭に植えられた者」のことです。「植えられた」とは自然にそこに芽を出して育ったということではなく、神によって移植されて、神の庭で神によって育てられたことを意味します。つまり、「神によって贖われた者」を指しています。彼らは「年老いてもなお」とありますから、年老いてからではなく、そこに至るまでの過程においても、多くの「実を実らせ、青々と生い茂っている」ことが可能ということになります。これは主に対して、「自分に与えられた賜物を十分に活かしてそれを用いた者」のことを表していると考えられます。そのためには「からだ」を用いる必要がありますが、その「からだ」も神の賜物と言えのではないでしょうか。

●今や、世界の中でも未曽有と言われる超高齢化社会に日本は向かっています。そうした社会の中で、「彼らは年老いてもなお 実を実らせ 青々と生い茂ります」と言える神の祝福を得て、あかしする必要があります。
「年老いてもなお」とあるように、そのためにはそれ以前からの準備が必要であることを思わせられます。
クリスチャン精神科医の柏木哲夫氏は「人は生きてきたように、死んでいく」と述べていますが、多くの方々の死を看取ってきた柏木氏だけに、その言葉には重みがあります。この詩篇から「なつめ椰子プランニング」を受け取りましょう。20~50代は専心して主に仕えることが難しい期間です。仕事や結婚、子育てをしなければならないので、専心して主に仕えることは無理です。しかし50代の後半からは、その後の人生を再度選び取る時期です。それまでのタイヤを履き替えて(リ・タイヤして)、自分のからだと多くの時間を主に献げることが可能となってくるのです。主に贖われた者として、「彼らは年老いてもなお 実を実らせ 青々と生い茂ります」という祝福が備えられていると信じます。みことばがそのように語っているからです。

ベアハリート

●「人の救い」とは、私たちの「霊」から始まり、それによって「たましい」が造り変えられ、最終的にはキリストの再臨によって朽ちることのない「からだ」へと変貌することです。しかし主のみわざはすでに私たちのただ中に始まっているのです。しかしいまだ完成はしていません。その狭間の中で私たちは主が来られることを待ち望みつつ、今は「霊を活用して、霊の中に生きること」を存分に楽しんで行きたいものです。

三一の神の霊が私たちの霊とともにおられます。

2023.3.5
a:824 t:3 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional