****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

人の霊(11)


シリーズ「霊の中に生きる」 No.11

人の霊(11)

べレーシート

●「いのちを与える御霊」となられたイェシュアは私たちの霊の中に入って来て、人の霊を再生し、その中に住まれました。そのことによって私たちは「新しく造られた者」(New Creature)となったのです。神が私たちに求めておられることは、霊に従って歩むことです。再生された人の霊と「いのちを与える御霊」はミングリングされています。ですから、明確にそれらを意識することはできませんが、たましいで生きることとは異なっています。たましいからくる理解の型紙では神を知ることはできないのです。多くの場合、イェシュアの語ることばの理解が霊とたましいでは真逆になってしまうのです。

●例えば、「良いサマリア人のたとえ話」の最後のことばに、「あなたも行って、同じようにしなさい」(ルカ10:37)があります。たましいでこのことばを理解するなら、「あなたもサマリア人がしたようにしなさい」と理解し、倫理道徳の話となります。ところが霊で理解するなら、同じことばを「サマリア人をあなたの隣人としなさい」という意味になり、いのちを得ることになるのです。たとえにあるサマリア人とはイェシュアのことです。そして強盗に襲われた人とは、イェシュアに質問した律法の専門家を表しているのです。もし、自分の理解の型紙が破れることに喜びの感覚を抱いたとしたら、その人はイェシュアのことばを霊で聞いたと言えるのです。しかし、これまでの理解の型紙のままで理解しようとすれば、イェシュアが語ろうとした真意を理解できないばかりか、それを受け取ることを拒否することになります。イェシュアの語ることば(レーマ)は「霊であり、いのち」なのです。ですから、私たちはそれを霊で聞き、霊によっていのちを得ることが出来るのです。イェシュアがたとえで話されるのは、わかりやすくするためではなく、かえって聞く人を試すためなのです。たましいで聞くならその人を苦しめるものとなりますが、霊で聞くならその人を解放するのです。このように、霊で聞くのとたましいで聞くのとでは、真逆の結果をもたらしてしまうのです。「私の隣人とはだれですか」とイェシュアに質問した律法の専門家は、果たして、いのちを得たでしょうか。

●シリーズ「霊の中で生きる」において、これまで「人の霊」について語ってきました。人は「霊とたましいとからだ」の三つの部分からなっていること、「霊とたましい」を見分けること、人の霊を再生させるために神がイェシュアにおいてなされた一連の出来事(受肉・洗礼・罪なき生涯・受難と死と葬り、復活・昇天・着座、そして「いのちを与える御霊」として人の霊の中への内在)を語ってきました。今回のNo.11からは、人の霊の機能について学びます。ウオッチマン・二ーは霊の機能を三つの部分に分けています。その三つとは「直覚・交わり・良心」です。なじみのない語彙かもしれません。霊とたましいを同じものだと考えている人にとってはチンプンカンプンな話です。また、霊とたましいは異なるものだと気づいている人にとっても、それらの機能について理解することはたやすいことではありません。今回は、霊の三つの機能である「直覚・交わり・良心」の中から、「直覚」についてだけ取り上げてみたいと思います。それは私たちがキリストにある「新しく造られた者」として、霊に従っていかに生きるべきかを知るためです。霊を活用するとはどういうことなのかをより深く理解するためです。すべてにまさる「イェシュアの名」
(「シェーム・イェシュア」שֵׁם יֵשׁוּעַ)を呼んで、学んでいきたいと思います。

画像の説明

1. 「直覚」とは何か

●人のからだには視覚・聴覚・触覚・味覚・臭覚といった感覚があるように、人の霊において似たような感覚があるようです。イェシュアとパウロには、直覚という機能があったことを記している箇所があります。

A. イェシュアの場合
(1) 【新改訳2017】マルコの福音書2章8節
彼らが心のうちでこのようにあれこれと考えているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。
(2) 【新改訳2017】マルコの福音書8章12節
イエスは、心の中で深くため息をついて(原文「ご自分の霊の中で深く嘆息してから」)、こう言われた。
(3) 【新改訳2017】ヨハネの福音書 11章33節
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、
(4) 【新改訳2017】ヨハネの福音書 13章21節
イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ(原文「霊の中で騒いだ」)。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」

B. パウロの場合
(1)【新改訳2017】使徒の働き 17章16節
さて、パウロはアテネで二人を待っていたが、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に(原文「霊に」)憤りを覚えた。
(2)【新改訳2017】使徒の働き 19章21節
・・・パウロは御霊に示され(原文「霊の中で決心して」)、マケドニアとアカイアを通ってエルサレムに行くことにした。
(3)【新改訳2017】使徒の働き 20章22節
ご覧なさい。私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます。そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません。

●イェシュアにしても、パウロにしても、霊におけるある種の感覚を記しています。つまり、霊による洞察、憤り、悲しみ、決断、捕らわれといった感覚を見ることができます。しかしその感覚は霊によって引き起こされるもので、私たちの生来の感覚とは異なるものであることを考慮する必要があります。

●イェシュアが「いのちを与える御霊」となって人の霊の中に入ることによって、人の霊は御霊とミングリングして働くようになりますが、その区別は必ずしも明確ではありません。しかし、霊の中で生きることによって、霊とたましいの感覚の違いは段々と気づくはずです。そんな霊の感覚である「直覚」を、以下の二つの箇所に見ることが出来るのではと思います。一つ目の例は、サウロが回心した箇所で、彼が「目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった」という経験です。二つ目の例は、(サウロの後の名前である)パウロとその一行の第二次伝道旅行の時に、当初考えていたことを「聖霊によって禁じられた」、また「イェシュアの霊がお許しにならなかった」と彼らが感じたことです。つまり、これらの表現の背後に直覚の機能が働いていたことを示しています。

2.「目から鱗が落ちる」という経験における直覚の働き

●最初の例として、「目から鱗のような物が落ちて目が見えるようになる」という経験を見てみましょう。この経験において、直覚の機能が働いたことを示しているのではないでしょうか。これはサウロの霊の中で起こった出来事です。ダマスコにいた主の弟子アナニアが、主から遣わされてサウロのいる家に入り、彼の上に手を置いて(按手して)次のように言いました。

【新改訳2017】使徒の働き9章17節
「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

●アナニアが派遣された目的は、サウロの目が「再び見えるようになるため」でした。しかしそれは単に肉体的な目が再び見えるということだけでなく、サウロの霊の目が開かれることを意味しています。それは、彼の内側にあることを啓示させる働きがなされたことを示しています。と同時に、彼が「聖霊に満たされる」(「プレーソー」πλήθω、辞書の基本形は「ピンプレーミー」πίμπλημι)ためです。ここでの「聖霊に満たされる」は、外側からの力としての聖霊に満たされることを意味しています。ちなみに、内側の満たしには「プレーロー」(πληρόω)が使われます。事実、サウロは数日後に、「イェシュアはキリストである」ということを恐れることなくユダヤ人に宣べ伝えました。それを聞いたユダヤ人は「うろたえた」と記されています。なぜなら、サウロが上から権威という力を着せられて、ユダヤ人が土台としている聖書を通して論証したからです。

●「目から鱗のような物が落ちる」経験は内側にある直覚の働きです。つまり、イェシュアがメシアであることを「知る」という経験です。サウルはそのことを聖書から論証することではじめて「理解した」のですが、この「理解する」ということばは「霊と心において新しくされた」 (エペソ4:23) 部分が働いています。つまり、霊からの指令によって新しい思いとなっているということです。ここで「知る」ことと「理解する」ことの違いを見ることが重要なのです。

3.「聖霊とイェシュアの霊」の指示に従う直覚の働き

【新改訳2017】使徒の働き 16章6~10節
6 それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。
7 こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった
8 それでミシアを通って、トロアスに下った。
9 その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。

●ここには第二次伝道旅行において、パウロとシラスに、青年のテモテとルカが加わり、マケドニアに渡っていくという導きのプロセスが記されています。パウロとシラスは聖霊イェシュアの霊の指示に従って行動していたことが分かります。彼らはアジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられ、また彼らがビティニアに何度も進もうとしましたが(未完了形)、イェシュアの御霊がそれを許さなかったと告げています。彼らの思いと計画が、聖霊によって禁止され、イェシュアの御霊によって許されなかったことを知ったのです。知ったのは彼らの霊における直覚によるものです。

●なぜ、聖霊が禁じ、イェシュアの霊が許さなかったのか。その理由はここでは何も記されていません。その記されていない理由をいろいろと詮索することは可能ですが、その理由が記されていないということがむしろ重要なのです。というのは、霊の感覚、すなわち「直覚」は理由なしに機能するからです。私たちの通常のたましいの感覚の場合、人的・環境的なものによって引き起こされます。しかし、「直覚」の場合は、内なる霊から直接引き起こされて、それが聖霊による禁止とイェシュアの霊による不許可というかたちで表されているのです。

直覚は人の思いや決心とは相反する働きとして機能するようです。霊が機能不全を起こしている者にとってはそのような働きはありません。それは霊が回復した者に働く機能です。この直覚を十分に働かせることで、そのときには理解できなくても、神のご計画に従って自然と導かれて行くのです。そのときに、「知る」ことと「理解する」ことの違いを知ることは重要です。直覚によって神の思いを「知る」ことはできますが、それを「理解する」ことはできません。事実、パウロの一行は、聖霊による禁止やイェシュアの霊が阻止する理由については理解できませんでしたが、自分たちの計画が阻止されているという感覚は知ることができたのです。パウロの一行は直覚に従いました。それゆえ、彼らは当初計画していた東の方向ではなく、計画にはなかった西の方に進むことを余儀なくされました。そしてアジアの最西端トロアスにまで足を進めて行ったのです。とはいえ、思案投げ首。どうしたら良いか分からない状態でした。ところが「ある夜」、パウロは幻を見せられたのです。この幻を見たことで、直覚が示した意味を悟ったのです。つまり神のご計画を「理解した」のです。もしパウロが直覚に従っていなければ、この幻によって神のご計画を確信することはできなかったはずです。

●10節の「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである」とあります。パウロの一行が「ただちにマケドニアに渡ることにした」のは、彼らが「確信したから」です。確信したのは霊ではなく、心の領域です。

●10節の主動詞は、「ただちに・・渡ることにした」の「した」です。この「した」は「ゼーテオー」(ζητέω)という動詞で、「熱心に捜し求める」という意味です。ここではあることを「熱意をもってした」という意味です。つまり、「渡ることにした」のは、自分たちが「確信したから」です。「渡ろうと熱心に努めた」の説明文として、「神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだと、確信したから」なのです。ここの「確信する」という動詞は「スンビバゾー」(συμβιβαζω)です。この「スンビバゾー」にある「スン」(συν)は「共に」を意味し、「ビバゾー」(βιβαζω)は「結び合わせる」という意味で、「共に組み合わせる、共に結び合わせる」ことで最終的な結論を導き出しています。これまでの神の様々な導きを組み合わせることによってで、神のみこころを「理解する」ことで最終的な結論を引き出すという意味です。これが霊に支配された新しい心なのです。

●ここで注目すべきことは、「マケドニアで福音を宣べ伝えること」を神のみこころとして理解し「確信した」ことが、パウロ一人だけでなく、「私たち」の全員が理解したということです。この確信にも「スン」(συν)があったのです。マケドニアに渡って行くことは、福音がヨーロッパに拡大される糸口となることを意味していました。その最初の初穂がピリピに住む一人の女性リディアの回心です。このことが、パウロの一行の宣教を物質的に支えることになるとは誰にも理解できなかったはずです。「理解する」前に、直覚による「知る」という導きがあったのです。直覚が働く場は私たちの霊の中です。それはことばにならない、無言の、重いものが潜んでいて、私たちの理解の型紙や感情や意志に対して立ちはだかります。自分の思いを頑なに押し通すことは、直覚の働きを締め出してしまうことになります。私たちを常に「新しく造られた者」として、いのちを与えるイェシュアの御霊が、神のみこころに従って、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです(ローマ8:26)。霊における直覚は、そのとりなしの恵みの結果と言えないでしょうか。

●直覚によって神の導きを「知り」、そして思いの霊によってそれを「理解する」という見事な例証です。この原則は私たちにも適用できます。私もこのような導きによって、昨年の12月から新たな思いで「アシュレー・クラス」に専心する道に導かれました。そこには「知る」という霊の直覚と、思いの霊による新たな働きがあったことを証しすることができます。直覚によって神のみこころを「知り」、その後でそれを「理解する」という経験です。そのことを「心の霊において」(新改訳第三版)、「霊と心において」(新改訳2017)、「心の底から」(新共同訳)と訳しています。原文では「思いの霊」です。つまり、これは霊によって心が造り変えられて新しくされた心を意味しています。直覚によって神の導きを「知り」、思いの霊によって聖霊の導きを「理解する」ようになるのです。「知る」と「理解する」の組み合わせが繰り返されることによって、私たちは次第に「霊」と「たましい」の違いをより正しく見分けるようになっていくのではないでしょうか。

●このように霊によって生きるとは、直覚を働かせることです。何をすべきか、何をすべきでないかを直覚によって知ることができたとしても、そのことの意味を神のみこころに従って理解できないことは大いにあり得るのです。

4. 幻を見るという直覚の働き

●聖霊は、直覚を通して、私たちの霊の中に啓示することができます。パウロは実に多くの啓示を受けましたが、それは彼の霊の中においてです。使徒の働き16章9節には「その夜、パウロは幻を見た」とあります。「幻」はギリシア語の「ホラマ」(ὅραμα)ですが、ヘブル語にすると「ハーゾーン」(חָזוֹן)となります。

【新改訳2017】箴言 29章18節
幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。しかし、みおしえを守る者は幸いである。

●箴言にある「幻」も同じく「ハーゾーン」(חָזוֹן) ですが、口語訳では「預言」と訳されています。この箴言29章18節が意味することは、「神のご計画を知らない民は勝手にふるまい、その結果、滅びる」という意味です。俯瞰的な神のご計画における御国のヴィジョンを見つめることなしには、神の民が堅く立つことはできないことを示唆しています。「幻」という語彙の初出箇所は創世記15章1節です。

【新改訳2017】創世記15章1節
これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」

●アブラハムは幻の中で自分に対する神のご計画を語られました。その内容は「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。あなたの子孫は、このようになる。」というものでしたが、まさにこの幻は預言的です。神の歴史の全般にわたって繰り広げられて行く壮大なヴィジョンです。このヴィジョンはアブラハム・イサク・ヤコブへと受け継がれ、異邦人である私たちもこのヴィジョンに接ぎ木されているのです。

【新改訳2017】使徒の働き9章10~12節
10 さて、ダマスコにアナニアという名の弟子がいた。主が幻の中で「アナニアよ」と言われたので、彼は「主よ、ここにおります」と答えた。
11 すると、主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』と呼ばれる通りに行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソ人を訪ねなさい。彼はそこで祈っています。
12 彼は幻の中で、アナニアという名の人が入って来て、自分の上に手を置き、再び見えるようにしてくれるのを見たのです。」

●10節のアナニアも、12節のパウロも、同じく主は「幻の中で」語りかけています。この幻の中でとは彼らの霊の中においてであり、主は直覚によって彼らにそれぞれ語っています。パウロはすでにキリストと出会っているのです。つまり、彼の霊はでに回復されて、直覚によって幻の中で見ているのです。パウロは幻の中で何を見たのでしょうか。「アナニアという名の人が入って来て、自分の上に手を置き、再び見えるようにしてくれる」という光景です。しかしそれは神の壮大な計画の中のわずかな部分でしかありません。しかしパウロは次第により大きな幻を見せられることになります。一つ一つの幻は、神の偉大なご計画に基づいて示されて行きます。一つ一つの幻が神の壮大な計画と密接に結びついているのです。アナニアはパウロと出会ったときに、「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です」という神のご計画を語ったと思います。召命のことばの意味を主は段階的に実体化していきます。パウロもそれを経験するようになります。

事実、パウロへの幻は異邦人に福音を伝えることへの要請でした

①【新改訳2017】使徒の働き 16章10節
パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。
②【新改訳2017】使徒の働き 18章9節
ある夜、主は幻によってパウロに言われた。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。・・」
※パウロは異邦人に対して福音を語り続けるように、幻によって、つまり、直覚の中で語られたのです。
③【新改訳2017】使徒の働き 26章19節
こういうわけで、アグリッパ王よ、私は天からの幻に背かず、
※主が語られたように、パウロは「王たち」の一人、アグリッパ王に対して福音を語っています。

●幻は特別な人にしか示されないものなのでしょうか。それとも、直覚によって誰にでも示されるのでしょうか。パウロが直覚の中で見せられたこと、あるいは語られたことの一つ一つが実体化されていくのを私たちは見ています。直覚は同様に私たちにも機能する霊の賜物なのです。霊を働かせるとは、直覚の中で神の導きを知り、神のご計画を知り、かつ理解することなのです。

ベアハリート

●ウオッチマン・二ーは人の霊の機能として、「直覚・交わり・良心」があることを述べています。その中から、今回は「直覚」という機能を取り上げました。「直覚」という語彙そのものは聖書にありません。「直覚」を辞書で調べると、「考察によらずに、ただちに物事の本質を知覚するさま。直観的」とあります。つまり、第六感、英語では「シックスセンス」と言われます。聖霊による直観力は、聖書が意味する「信仰」とも言えるのです。なぜなら、信仰はキリストのことばを霊の中で聞くことによって生じるからです。今回、私は「直覚」を聖書にある例を通して説明できないものかと試みました。果たしてそれがふさわしいものであったのかは分かりませんが、一つの解釈として話しました。私たちが霊の中に生きるために、霊を活用するとはどういうことなのか、それは直覚という機能を活用することなのです。たましいという通路を通すことなく、直接的に神のみこころを知る、そのために、「直覚」という機能があることに留意したいと思います。それは、「うまく説明できないけれど、私の霊は喜んでいます」という確かな感覚なのです。

三一の神は私たちの霊とともにあります。

2022.9.18
a:1091 t:1 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional