****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

人の霊(3)


シリーズ「霊の中に生きる」 No.3

人の霊(3)

べレーシート

聖書の最高の教えは「霊の中で生きる」ことです。このことを意識できるのは、霊とたましいとを見分けて、それを区別することができることを意味しています。このことを聖書は何度も繰り返して語っているのです。イェシュアはご自分の弟子たちに、「わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです」(ヨハネ6:63)と言われました。イェシュアの語られるすべてのことばが「霊である」とはどういうことでしょうか。それは「霊によって聞くことがないと、その真意を理解することはできない」という意味なのです。このことの重大性を、私たちは気づいていません。なぜなら「たましい」で聖書を読んでいるからです。

【新改訳2017】ヘブル人への手紙4章12節
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、
たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、
心の思いやはかりごとを見分けることができます

人の構成

●この箇所には、神のことばは生きており、私たちを刺し通して、私たちの「霊」と、その霊を取り囲んでいる「たましい」を切り離すことができると言っているのです。「たましい」とは「心」(知・情・意)です。知性の面では「理解の型紙」とも言いますが、それは私たちの存在そのもの、つまり「私自身」「自我」です。しかし「霊」は神を受け入れるための最も奥にある部分で、幕屋でいうならば「至聖所」に相当する部分です。人の霊はキリストが復活されるまで罪によって機能不全を起こしていました。しかし復活のキリストによって人の霊が回復されるという出来事が起こったのです。復活は単に死からよみがえった出来事を意味するのではありません。キリストの復活は人の霊を回復させるために必要な神の出来事だったのです。

1.「たましいで生きる人」と「霊の中に生きる人」との違いを見分ける (A)

●ここで「たましいで生きる人」と「霊の中に生きる人」とを区別する一つの訓練として、聖書のある箇所を読みたいと思います。前回は「私の隣人とは誰ですか」との律法の専門家の質問に対して、イェシュアは「良きサマリア人のたとえ」によって答えました。つまり、「あなたの隣人とはサマリア人のような人、つまりイェシュアを自分の隣人と信じて愛することだ」というのがイェシュアの答えでした。「あなたもサマリア人がしたようにしなさい」ということではありません。そのように聞くことは「たましい」で聞くことです。その結果、死をもたらす教えとなります。さて今回の箇所は、べタニアの村に住む二人の姉妹「マルタとマリア」の箇所です(ルカ10:38~42)。いつものように、この箇所からこのテキストが語っている重要なことば(あるいはフレーズ)を選び出してください。

【新改訳2017】ルカの福音書10章38~42節
38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

●ルカは、「サマリア人のたとえ」の中に流れていた「イェシュアを信じて愛する」ということがどういうことかを再度示そうとしています。この話で重要なのは、「マリアは良いほうを選んだ」というイェシュアのことばです。「良いほう」は「良い相続分」とも訳されます。ヘブル語では「ハットーヴ」(הַטּוֹב)です。イェシュアが「良い」という場合、それは「神が与えるもの」という意味で、「選んだ」ということばは「自ら選び取った」(アオリスト中態)という意味です。どういう基準で選んだのかといえば、マリアは自分のたましい(心)で選んだのではなく、彼女の「霊の中で」選んだということです。

●イェシュアは復活されて「いのちを与える御霊」となられたのだから、この時点ではまだマリアに御霊がまだ与えられていないのではと思われるかもしれません。それが「理解の型紙」です。聖書は時間と空間を超えた霊的リアリティーの書です。ルカの福音書には、祭司ザカリヤとその妻エリサベツ、老シメオンやイェシュアの母マリアがすでに聖霊で満たされています。旧約では個別的な例として特別に霊に満たされている人が登場したように、旧約と新約の橋渡しの時代にもそうした先行的恩寵がマリアにもあったと考えられます。それは彼女の行動に表されています。つまり、マリアには必要なことを選ばせる霊が、神から与えられていたということです。ですから、「マルタとマリアの両方とも大切だ」とするなら、ルカの意図は覆われ、隠されたままとなってしまいます。

●マルタはイェシュアを家に迎え入れてもてなしをしています。原語の「ヒュポデコマイ」(ὑποδέχομαι)の「ヒュポ」は「屋根の下に」、「デコマイ」は「受け入れる」という意味で、「喜んで迎え入れる、歓迎する」という意味です。すばらしいことですが、彼女の行動は肉(思い・感情・行為)に影響されています。マリアもイェシュアをもてなしているのですが、彼女の場合はマルタとは異なった仕方でもてなしをしています。マリアのもてなしは「主の足もとに座って」「主のことばに聞き入っていた」(「聞き入る」は未完了形で、ずっと途切れることなく聞き続けていることを表しています)というもてなしです。二つのことばは、私たちが「霊の中に生きる」ことにおいてとても重要なのです。

●「座って」と訳された「ヤーシャヴ」(יָשַׁב)は「座る、とどまる、住む、結婚する」を意味します。「聞き入っていた」は「シャーマ」(שָׁמַע) で「聞く、聞き入る、聞き従う、ことばを深く黙想する、味わう」を意味します。「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現する」(ローマ10:17)とあります。マリアの二つのもてなしが「神であるイェシュアを愛する(אָהַב)こと」の真意と言えます。

●「足もとに座る」という行為は、新約ではイェシュアとマリアの関係にしか使われていません。これはイェシュアに対するマリアの親密な思いを表わすと同時に、霊的な結婚(求婚)さえ感じます。それは「座る」のヤーシャヴに「結婚する」といった意味合いがあるからです。ルツ記の中に「足もと」と訳された「マルゲルート」(מַרְגְּלוּת)が4回あります(3:4, 7, 8, 14)。これはルツが姑ナオミから教えられた求婚のしぐさで、自分たちを贖ってくれるボアズに対する親愛なる思いがあることを表しています。同様に、マリアがイェシュアの「足もとに座る」とはイェシュアに対する愛(求愛)を意味しています。イェシュアは「それが彼女から取り上げられることはありません」と言われました。「それ」とは「彼女が自ら選び取った良いもの」のことです。したがって、ここでの「足もとに座る」とは決して表面的な意味ではなく、イェシュアとの「霊による愛の交わり」、「マリアの霊とイェシュアの霊とのミングリング」を表象しているように思われます。
※42節の「それが彼女から取り上げられることはありません」の箇所ですが、以前の訳では「彼女からそれを取り上げてはなりません。」と訳されていました。しかし【新改訳2017】ではそれが改訳されました。マルタが取り上げようとしても、それは取り上げることのできないものなのだというニュアンスです。実際、マルタの言い分はマリアにも聞こえていたはずです。マリアは霊の中にいるために、マルタの声はどこ吹く風だったのです。

●マリアの「足もとに座る」ということが、次の11章でも展開していきます。11章は祈りについて記されています。それを記すことで、「マリアは良いほうを選んだ」ということがより一層明確にされます。

【新改訳2017】ルカの福音書11章9~13節
9 ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出しま
す。たたきなさい。そうすれば開かれます。
10 だれでも求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
11 あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。
12 卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。
13 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いもの(良い贈り物/複数)を与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」

●「良いもの」(良い贈り物)と「聖霊」は同義的パラレリズムです。「天の父は求める者たちに聖霊を与えてくださる」⇒「マリアは良いほう(「ホ・ハギオス」良い方(かた)=聖霊)を選んだ」ということが示されています。「求めなさい(Ask)。そうすれば与えられます。探しなさい(Seek)。そうすれば見出します。たたきなさい(Knock)。そうすれば開かれます。」とあるように、キリストの奥義は三段階によって開かれます。マリアが「足もとに座り」とは「求める」ことに相当し、イェシュアの語るみことばに「聞き入っていた」とは「探す」ことに相当します。「たたく」という最後の段階は、彼女が神のご計画を知らされたことによりイェシュアの死を悟り、埋葬の用意をしたことで、奥義が「開かれた」ことが分かります。これが「たたくことで開かれる」という意味です。弟子のだれもが悟れなかったことを、なぜマリアは悟ることができたのでしょうか。それは、彼女が「求めて、探して、たたく」ことをしたからです。それゆえ、彼女はイェシュアの頭に高価な「香油を注ぐ」という記念すべき行為をすることができたのです。その香油は自分の結婚のためにと取っておかれたものです。それをイェシュアの葬りのために注いだのです。これらの一連のことがイェシュアを信じて愛することを意味します。イェシュアが「必要なことは一つだけです」と言われたのはこのことでした。特に、第三段階目の「たたく」は、イェシュアの死によって開かれる幕屋の「至聖所」に相当し、隔ての幕が開かれて奥義を啓示されたのです。

●「霊の中で生きる」とは、マリアのように「キリストの奥義」を悟ることです。聖霊の働きはイェシュアを証しし、イェシュアの言動の真意を悟らせて教えることです。イェシュアの言動のすべては、御父の言動そのものです。イェシュアの霊はいつも私たちの霊の中におられるのです。ということは、そこにキリストの霊も、また御父の霊もいることになり、三一の神がともにいることになります。その結果として「霊の中に生きる」とは、私たちを神のかたちであるイェシュアに没頭することへと導きます。それは、「あなたがたの中におられるキリスト」を悟らせ、キリストがすべてのすべてとなることを得させるのです。このことは「神の国はあなたがたのただ中にある」(ルカ17:21)と言われたイェシュアのことばの成就です。

●「週の初めの日」に死から復活されたイェシュアは、その日の夕方に、弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言ってそれを与えました。そのときから、「いのちを与える御霊」となったキリストの霊が人の霊の中に入って来られたのです。これが復活の出来事が意味する神の新しい創造です。この創造は人の霊の中にすでに起こった一回的な包括的出来事です。「最初のアダム」を創造された時、神は「最初のアダム」の中にすべての人間を包括させました。それゆえ、「最初のアダム」が罪を犯した時、すべての人類は罪を犯した者とみなされ、死んだ者となりました。これは「霊的な死」です。このことによって、たましいとからだも死が支配するようになったのです。それは型です。同様に、「最後のアダム」であるキリストが「いのちを与える御霊」となって弟子たちの霊の中に入って来られたとき、すべての人類は包括的にキリストにあるいのちを与えられたのです。人の霊の中にキリストが入ることによって、いのちが人を支配するようになったのです(ローマ5:12~19)。

画像の説明

●「私たちの中にキリストがおられる」というのは奥義です(コロサイ1:27)。このキリストのうちに、神の知恵と知識の宝がすべて隠されているのです(コロサイ2:3)。「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」(ローマ10:17)とパウロは語っています。つまり信仰とは人の霊の中におられるキリストのことばに、たましいの司令塔を置くことを意味します。信仰が人の霊の中で働くなら、その影響は私たちのたましいに影響を及ぼします。しかし信仰が働かない場合、それまでのたましいは霊からの指令を受けることなく善悪の判断を下すため、神のみことばが生きて働くことはありません。パウロはこうしたたましいの性質を「肉」と呼んでいます。「肉」はことごとく神に逆らう性質を持っているために、神の教えを悟ることも、また聞き従うこともできないのです。

●キリストを信じた人であっても霊を働かせることがないならば、おのずと肉が働いてしまうのです。私たちが「霊を働かせる」ことを、パウロは「御霊に従って歩む」という言い方をしています(ローマ8:4)。このようにパウロは、「御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます」(同8:16)と言って、神の霊と人の霊との二つがミングリングすることを述べています。

●キリストが復活したことによって、人の霊の中に「いのちを与える御霊」となって入って来てくださったという事実、これこそが神の事実であり、福音なのです。この事実を信仰によって受け入れることが、私たちが「新しい人」として生きる出発点なのです。私たちは「キリストにあって新しく造られた者」となったのですから、パウロがいうように、「私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません」というのは、至極当然のことです。それは、「たましい」と「霊」を明確に区別することがなされた結果です。「霊の中で生きる」ことを選び取ったパウロに、それまで隠されていた多くの奥義が啓示されたのもうなずけます。

2.「たましいで生きる人」と「霊の中に生きる人」との違いを見分ける (B)

●「たましいで生きる人」と「霊の中で生きる人」としてマルタとマリアの二人の姉妹を取り上げましたが、もう一つの例を取り上げたいと思います。再度、その箇所で大切なことば(あるいはフレーズ)を見つけてください。御霊が指し示していることばです。

【新改訳2017】ルカの福音書8章22~25節
22 ある日のことであった。イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、弟子たちは舟を出した。
23 舟で渡っている間に、イエスは眠り始められた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、彼らは水をかぶって危険になった。
24 そこで弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と言った。イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。
25 イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」

●25節、イェシュアが弟子たちに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と叱責しているにもかかわらず、弟子たちはその叱責に何ら反応することなく、「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか」と驚いています。この弟子たちの驚きは、彼らのたましいである「心」の感情が反応しただけです。ここで弟子たちが学ぶべきことは何だったのでしょうか。

●イェシュアの語った「湖の向こう岸へ渡ろう」ということばは、弟子たちにとっては単なる次の行動としてしか捉えられていませんでした。イェシュアの語ることばはすべて「霊であり、いのち」なのです。それを「霊の中で」捉えていないとどうなるでしょうか。目に見える出来事に翻弄されてしまうのです。事実、突風が湖に吹きおろして来て、舟が水をかぶって沈みそうになると、弟子たちは眠っているイェシュアを起こして、「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と叫んでいます。これが「たましいで生きる人」の姿であり、私たちの姿ではないでしょうか。イェシュアは「霊の中に生きている」典型的な人です。ですから、寝ていられるのです。マルコは「枕をして」と記しています。

【新改訳2017】Ⅱコリント人への手紙5章17節
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

●ここでパウロは「古いものは過ぎ去って」と言っています。「古いもの」とは何でしょうか。それは二つの意味があります。その一つは「最初のアダム」です。イェシュアは私たちを取り込んでくださって、十字架でともに死んでくださいました。そのことによって「最初のアダム」がもたらした罪と死の呪いはさばかれ、「最初のアダム」のすべてを終わらせてくださったのです。それゆえ、私たちは「最初のアダム」のゆえに何ら責められることはないのです。

●第二の「古いもの」とは、キリストなき教えである「ストイケイア」(στοιχεῖα)です。それは「もろもろの霊」(悪霊)から来るもので、それによって人は「恐れ」に捉われ、奴隷にされてしまう諸力です。それが当時の宗教指導者である律法学者、パリサイ人たちがもたらしたものです。これらは、「幼稚な教え」「役立たずの宗教」「人の言い伝え」(信条・伝承・伝統・習慣など)とも言い換えられる宗教の霊です。そのような「古いもの」から「逃れる」ことをパウロは言っているのです。「~から逃れる」ということばは消極的な表現ですが、積極的な表現にするならば、「~へ渡ろう」ということにならないでしょうか。イェシュアの「向こう岸へ渡ろう」ということばは「霊のことば」です。同じ御霊を持っていなければ、決して理解することができないことばなのです。

●「向こう岸」とは神のご計画における最終地点です。それは旧約の預言者が繰り返して語って来た「メシア王国の成就」です。しかしそこに行くまでは、反キリストによって湖は突風が吹いて大荒れになるのです。預言者たちはそのことも預言しています。「湖」はヘブル語で「ヤーム」(יָם)といって、「海」と同じことばです。「海」とは神に逆らう諸国や勢力の象徴です。それは反キリストによる支配を意味します。やがてイスラエルの民は未曽有の苦難に遭うのですが、イスラエルの残りの者は神によって額にしるしが与えられて、反キリストから守られるのです。そして彼らは「恵みと哀願の」(ゼカリヤ12:10)が与えられることで神に奇蹟的に立ち返ります。波が静まるように、反キリストの支配は再臨のメシアによって終焉し、彼らはメシア王国に入って行くのです。このことを預言的に示しているのが、この出来事です。「湖の向こう岸へ渡ろう」とは、メシア王国への神の約束が預言されたことばなのです。これはやがて歴史において必ず成就し、実現するのです。

●と同時に、イェシュアが「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)と言われたように、私たち個人個人に対しても、人の霊の中にある「至聖所」の中に神がすでに住んでくださっていることばでもあるのです。それゆえ、私たちは私たちの同意の有無にかかわらず、神の御前と言われる至聖所で生きることを促していることばでもあるのです。幕屋や神殿の中心は「至聖所」です。そこは「シークレット・プレイス」(secret place)であり、サタンが決して入ることのできない「砦」なのです。その「砦」は「人の心」にではなく、「人の霊」の中にあります。人の心はサタンの足場となっており、それは肉です。そこは恐れに支配されるところです。私たちのただ中に神の国が明確に現わされるためには、「肉」から「霊の中へ」と「渡る」必要があるのです。つまり「霊」を用いる(霊を働かせる)必要があります。それはまさにヨシュアに率いられたイスラエルの民のように、ヨルダン川を渡ってカナンの地に入ることで神の安息が与えられたのと同様です。

●「ヘブル人」ということばは「川を渡る者」を意味します。「へブル人」の初出箇所は創世記14章13節です。そこでは「ヘブル人アブラム」とあります。「ヘブル人」はヘブル語で「ハーイヴリー」(הָעִבְרִי)と言います。
אַבְרָם הָעִבְרִי(アヴラーム・ハーイヴリー)で「ヘブル人アブラム」となります。彼は「川を渡って来た者」なのです。彼の出身地は「ウル」で、偶像礼拝に満ちた所でした。そこから神に召し出されて、川を渡ってカナンの地にやって来た者こそアブラムであったのです。信仰の父アブラムが川を渡ったのなら、私たちもアブラムに接ぎ木された者として「川を渡る」、「向こう岸へ渡る」必要があります。それは神のご計画が実現されて安息を得るためです。

●このように、湖上での嵐の訓練はイスラエルの民が民族的に「向こう岸へ渡る」ことのための預言的な啓示です。向こう岸へ渡る際に、海は荒れて、水が舟の中に入って来て溺れそうになって死んでしまうという思いが弟子たちの心を支配しました。イェシュアは「霊の中にいて」眠っています。しかし弟子たちの心は恐れと不安で占められていました。彼らの「理解の型紙」であるたましいが反応し続けていたからです。この出来事は、「霊の中に生きるイェシュア」と「たましいで生きる弟子たち」の決定的な違いを見せてくれる一つの「絵」なのです。

ベアハリート

●今回は「マルタとマリア」の話をしましたが、この話は「霊とたましいの領域は別である」ということを強調して語らないと、教会の中に混乱が起こる箇所でもあります。この話はとりわけマルタとイェシュアとの会話でしたが、宗教指導者たちとイェシュアとの「霊とたましい」の戦いはその比ではなく、壮絶なものがあります。そのことについては次回にふれたいと思います。イェシュアが語ること、イェシュアがなさることは、すべて霊であり、いのちをもたらすものです。ですから、私たちは「たましいの中に」ではなく、「霊の中に生きる」ことを学ばなければならないのです。

主の霊が私たちの霊とともにおられます。

2022.5.29
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