人の霊(6)
シリーズ「霊の中に生きる」 No.6
人の霊(6)
べレーシート
神の永遠のご計画は、「三一の神ご自身のすべてを人に分かち与えること」です(ウイットネス・リー)。これが「神と人がともに住む家」(天と地)を創造する目的です。神の創造の手順は、御父から始まり、御子を通して、御子がいのちを与える御霊になることで、神が人の霊の中に入ることによってもたらされます。これを使徒パウロは以下のことばに含めています。
【新改訳2017】ローマ人への手紙11章36節
すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。
この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
●「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです」という部分を第一情報である原文で見ると、
「神」はすべて代名詞の「彼」となっていて、「すべてのものが彼から発し、彼によって成り、彼に至るのです」とあります。より正確を期すなら、「発し」「成り」「至るのです」という語彙はすべて意訳であって、それらを除いた、「すべてのことが彼から、彼によって、彼に」となっています。下線の部分にはそれぞれ前置詞が使われていて、順に「エク」(ἐκ)、「ディア」(διά)、「エイス」(εἰς)となっています。この前置詞は三一の神がどのようにしてすべてのものを人に分与したかを物語っています。つまり「彼」を、それぞれ「御父」「御子」「御霊」と言い換えることができるのです。このことによって、三一の神にあるすべてのものがいかにして人に分与されたのかという神のご計画の手順を示すものとなっているのです。同様のことは、イスラエルの神が「アブラハム・イサク・ヤコブの神」とされていることにも表されています。アブラハムは源であり、イサクは父を受け継ぐ子であり、ヤコブはアブラハムとイサクから受け継いだ約束を聖霊によって管理を受けた者だからです。
【新改訳2017】民数記6章24~26節(アロンの祝祷)
24 【主】があなたを祝福し、あなたを守られますように。
25 【主】が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
26 【主】が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』
●24節の【主】は「御父」、25節の【主】は「御子」、26節の【主】は「御霊」とみなすことができます。なぜなら祝福の源は御父であり、御父の御顔を映し出すのは御子であり、平安をもたらすのは御霊だからです。
1. 人の霊に対する三一の神の手順
(1) 御父はすべての出発点
●すべての源である御父、見えない方である御父がどのようにして私たちの中に住むのでしょうか。それは御父が御子の中にあることによってです。御子と御父は一つであり、御父は神のかたちである御子の中に啓示されているのです。弟子のピリポは「主よ、私たちに父を見せてください」と言いました。するとイェシュアは「わたしを見た人は、父を見たのです」と言われました(ヨハネ14:8, 9)。人は御子によって御父を見、御父に触れ、御父と交わることができるのです。御父はすべての出発点です。
(2) 御子の一連の出来事を通して
●御子は神ご自身の目に見えるかたちです。御子の受肉は百パーセントの神性と百パーセントの人性を含んだ不思議な存在です。その御子が33年半の間、御父のみこころに従い、受洗を通して私たちを取り込んで一体化し、最初のアダムのすべての罪ののろいを受けて、十字架の上でそのさばきを受けられました。このことによって、最後のアダムである御子の死は最初のアダムを終わらせたのです。さらに三日目に御子は死からよみがえって、その日に「いのちを与える御霊」となって人の霊の中に入られたのです(ヨハネ20:22、Ⅰコリント15:45)。復活された御子は第三の天に昇られ、御父の右に着座されました。すべての敵、支配、権力、権勢は今や御子の足の下にありますが、その御子が私たちの霊の中にもおられるということが大事なことなのです。
(3) 御霊へと
●神のご計画によれば、神のすべてを人に分与するための第一段階は、御父が御子の中に自らを置いたことです。つまり御父が御子の中に具体化したことです。御父の中にあるものはことごとく御子の中にあります。第二段階はその御子が人の姿へと受肉したことです。御子の一連の出来事を通して第三段階がもたらされます。つまり、復活によって「いのちを与える御霊」となって私たちの霊の中に入ることができたのです。このことによって、神と人がミングリングするということが成就したのです。つまり「神と人とがともに住む」ことが実現したのです。このことはすでにイェシュアが最後の晩餐のときに、弟子たちに語っておられました。
【新改訳2017】ヨハネの福音書 14章16節
そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
●この「もう一人の助け主」は「あなたがたとともにおられ、またあなたがたのうちにおられるようになるのです」(17節)と言っています。いつまで「あなたがたとともにおられ、あなたがたのうちにおられる」かと言えば、「永遠に」です。「もう一人の助け主」は「御霊」(聖霊)のことですが、イェシュアは「わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」(ヨハネ14:23)とも言っています。つまり、ここでの「わたしたち」とは「御父と御子」のことです。私たちの霊の中に「いのちを与える御霊」が入ったということは、御父も御子も同時に入ったことを意味しているのです。これは三一の神が、御子イェシュアの一連の出来事を通して一つの霊(「主は御霊です」Ⅱコリント3:17)となって、私たちの中に入ることができたことを意味しているのです。このようにして、神ご自身がそのすべてを人に分与するというご計画が実現したのです。パウロはそのことを「すべてのものが神(御父)から発し、神(御子)によって成り、神(御霊)に至る」と言い換えたのです。パウロはヘブル的修辞法(パラレリズム)の達人です。そして、このことを受け入れることが聖書のいう「信仰」なのです。
●今や、三一の神が「一つの霊」として私たちの中に、しかも最も内側におられるのです。そこは幕屋の至聖所であり、シークレット・プレイス(Secret Place)です。ですから、私たちは「霊の中に生きる」ことを学ばなくてはならないのです。「霊の中に生きる」ときに、神のすべてが私たちの中に分け与えられるのです。三一の神が私たちの霊の中で霊的な内なるいのちとなります。神が私たちを新しく造るために最初になされたのは、人の霊の回復なのです。それによって私たちの心とからだを新しくするというのが、神のご計画なのです。ですから、今や私たちは「霊の中に生きる」ということに集中しなければならないのです。
2.「人の霊」についての聖書の記述
●この「人の霊」の存在について、私は長い間知りませんでした。教えられてこなかったからです。あるいは、この世の神であるサタンが思いを暗くしていたのかもしれません。しかし、20世紀の偉大な霊的指導者であるウオッチマン・二ーを通して、聖書の中にそれが書き記されていることを教えられたのです。これは私に対する神の導きがあったと思っています。二ーの後継者であるウイットネス・リーもこのことを教えていますが、それはそもそも聖書の中に記されているのです。にもかかわらず、長い間、キリスト教の歴史の中で見失われてきたのです。それを回復しようとする流れが歴史の中に途切れることなくあったにもかかわらず、サタンによって覆われていたと言えます。先ずは、「人の霊」の存在について、使徒パウロが明白に述べている箇所を見てみたいと思います。
A パウロの場合
(1) 【新改訳2017】Ⅱテモテの手紙 4章22節
主があなたの霊とともにいてくださいますように。恵みがあなたがたとともにありますように。
(2) 【新改訳2017】ピリピ人への手紙 4章23節
主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。
(3) 【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙 6章18節
兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。
(4) 【新改訳2017】ピレモンへの手紙1章25節
主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。●これらはすべてパウロの手紙の最後に書かれているのです。それはパウロが宛先の人々に「人の霊」の存在を忘れないように書いたものだと考えられないでしょうか。神との交わり、神の恵みも、すべては人の霊の中で受け取られるからです。この事実を忘れないための表示だと考えられます。このような結びの言葉を、私たちの手紙やメールでどれだけ使ったことがあることでしょうか。もし一度もないとしたら、その人は「人の霊」の存在の重要性について聞いたことがないと言えるのです。
(5) 【新改訳2017】ローマ人への手紙8章16節
御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。●ここでは、「御霊」と「人の霊」がともに、つまりミングリングされて神の子どもであることを証しすることが記されています。単なる御霊だけでなく、「人の霊」も共同して働いていることが分かります。「御霊」と「人の霊」が異なる存在であることが理解できます。人の霊は御霊を受け入れる唯一の場所なのです。
(6) 【新改訳2017】ローマ人への手紙1章9節
私が御子の福音を伝えつつ心から仕えている神が証ししてくださることですが、私は絶えずあなたがたのことを思い、●ここで「心から」と訳されている部分は、原文では「私の霊の中で」(ἐν τῷ πνεύματί μου)とあります。パウロは「私の霊」、つまり「人の霊」を意識して使っているのです。
B ヨハネの場合
【新改訳2017】ヨハネの福音書3章6節
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。●御霊によって生まれた者の「霊」とは「人の霊」のことです。つまり、御霊によって生まれるのは機能不全を起こして死んだようになっていた人の霊のことです。肉とは人の「たましい(心=知・情・意)とからだ」を含む語彙です。ここでは人の霊と肉が対照的に示されているのです。肉は人を新しくすることはできませんが、人の霊が回復し、新しくされることで、人のたましいとからだも新しく生まれるのです。神の新しい創造は私たちの霊から始められるのです。このように、聖書が「人の霊」について記していることは一目瞭然です。そこで次に、「人の霊」が神のいのちを入れる容器であることを考えたいと思います。
3. 人の霊は神の宝の器
【新改訳2017】Ⅱコリント人への手紙4章7節
私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
●このパウロのことばを味わいたいと思います。まず「私たちは、この宝を」とあります。「この宝」とは何でしょうか。それはその前の節にある「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」のことです。「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」という表現は、イェシュアのうちに神の栄光を見るという偉大な思想が語られています。イェシュアが「わたしを見た人は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)と言われたように、ここでパウロは、イェシュアをいつも見続けるならば、神の栄光が私たちにも理解できるようにしてくださったのだと語っているのです。「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ(表現)」(ヘブル1:3)です。
●「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」こそ土の器の「宝」なのですが、この知識は膨大なもので、御霊が「人の霊」の中に働いて人の心を照らすことで輝かせてくださったものだとしています。つまりここでの「人の心」とは「霊によって造り出された新しい心」ということができます。
●「土の器」の「土」も「器」もいずれも複数形です。つまり「土で作った数々の器」を意味します。その器の中に「宝」を持っているというのです。「宝」(「セーサウロス」θησαυρός)は単数形です。これは文脈で見るなら、「キリストの香り」「キリストの手紙」と同様に「キリストの福音」「メシアの福音」「御国の福音」とも言い換えることができます。それが測り知れない神の力となって明らかにされるのだとパウロは述べているのです。
●ここでの「器」は「人の霊」のことで、「神を入れる容器」と言えます。御子イェシュアが御父を入れるいわば「容器」であったように、教会も三一の神を入れる容器でもあるのです。ヘブル語では「ケリー」(כְּלִי)ですが、これは牛の「くびき」をも意味します。「容器」と「くびき」が同義だとするなら、イェシュアが「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎがきます」(マタイ11:29)と語ったことばのイメージが理解できます。つまり「わたしのくびきを負う」とは、「あなたがたはわたしを入れる容器となれ」という意味にも解することができるということです。そしてこのことは、神が人間を創造した目的でもあるのです。
●「宝」は神の「測り知れない力」を秘めています。それが解き放たれるならどんな力が現されるのでしょうか。そのことが7~11節に記されているのです。ただしそこでの「宝」は「イェシュアのいのち」に言い換えられています。
●ここには見事なほどに、へブル的修辞法によるパラレリズムが使われています。パウロは一体ここで何を強調しようとしているのでしょうか。「それ(宝)は、この測り知れない力が神のものであって、私たち(土の器)から出たものではないことが明らかになるためです」が、「イェシュアのいのちが私たちの身に現れる」「イェシュアのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れる」とも言っています。
●「土の器」というのは「もろく、壊れやすい」という意味ですが、その土の器の中に「測り知れない」(「ヒュペルボレー」ὑπερβολή)宝が隠されているということをパウロは強調しています。「ヒュペルボレー」は「極度に、はなはだしく、最高の、最も優れた」という意味で、パウロだけが使っている語彙です(8回)。「ヒュペルボレー」は「を~超えて」を意味する前置詞「ヒュペル」(ὑπερ)と「石を投げて届く距離」を意味する「ボレー」(βολή)との合成語です。パウロという人は、神の世界を表すのに「絶大な」を意味する「ヒュペル」(ὑπερ)を好んだ人です。それをもとにパウロは独自の新しい言葉を数々創り出しました。
●土の器の中にある「宝」が持つ力は、神からくる「測り知れない、並外れな、絶大な、卓越した」ものです。それゆえ8節の「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません」ということが経験されたのです。さらに9節の「迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」となるのです。「苦しめられる、迫害される」という現実はある。「しかし・・がない」(「アッラ・ウー」ἀλλά οὐ=省略「アッルー」ἀλλ' οὐ)という強意の二重否定がなされています。つまり、どんなことがあったとしても、「窮することがない」「行き詰まることがない」「見捨てられることがない」「滅びない」ということが強調されているのです。これはまさに台風の目の中にいるシークレット・プレイスの恵みではないでしょうか。土の器としての人の霊の中にある宝がそうさせるのです。私たちのたましいがそうするわけではないのです。私たちのたましいは、イェシュアが「向こう岸へ渡ろう」と言って一緒に舟に乗り込んだけれども、突如、大暴風が起こって、舟が大波をかぶった時の弟子たちの心と同様です。この時イェシュアが眠っておられたのは、イェシュアが御父の中におられたからです。「霊の中に生きる」とはイェシュアと同様なことになるのです。これが「霊の中に生きる」祝福であり、至聖所にいることのできるシークレット・プレイスの恵みなのです。さらにパウロは「霊の中に生きる」恵みを以下のように語っています。
4. 私たちは落胆しない
【新改訳2017】Ⅱコリント人への手紙4章15~18節
15 すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、
神の栄光が現れるようになるためなのです。
16 ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
17 私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。
18 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。
●16節の「私たちは落胆しません」というその根拠は「この宝を土の器の中に入れている」からですが、その究極的理由は「すべてのことは・・神の栄光が現れるようになる」からです。具体的には、以下の理由からです。
(1) 内なる人は日々新たにされている
●「内なる人」とは何でしょうか。それは回復された「人の霊」のことです。御霊とミングリングされることで、それは日々、新たに刷新されて行きます。そしてそれは私たちの新しい心を形成していくのです。このことはエレミヤ書31章33節とヘブル書8章10節にある「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す」ことの成就です。反対に、「外なる人」とは死ぬべき私たちの「たましいとからだ」を意味します。それらはすでに十字架において包括的に死んでいますが、経験としては次第に消耗し衰えていく運命にあります。
(2) 一時の軽い苦難が、重い永遠の栄光をもたらす
●「内なる人」である私たちの霊は御霊によって強められますが、同時に苦難を通しても強められて、私たちの信仰が成長させられ、やがては私たちに「重い永遠の栄光」がもたらされるのです。「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。」(箴言27:17)とあります。私たちがどのようにして磨かれていくかと言えば、摩擦によってです。自動車は何で走るのでしょうか。「それはエンジンに決まっている」と思われるかもしれません。いいえ、どんなにすばらしいエンジンを持った車でも、それだけでは走りません。車はタイヤと地面との間に起こる摩擦によってはじめて走るのです。摩擦が起こらなければ自動車は前進もしないし、後退もできません。また右にも左にも曲がらないのです。また摩擦が起こらなければブレーキを踏んでも止まることはできません。「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる」とは真理なのです。さまざまな摩擦は神がご計画を進める上においても重要であり、真理なのです。神のご計画において摩擦(苦難)のない進展はあり得ないのです。また私たちの信仰の成長のためにも、苦難は神が備えられた大切なものなのです。「私たちの一時の軽い苦難」とは「私たちのたましいの苦難」のことです。それがなぜか「一時の軽い苦難」とされます。なぜなら、それ以上のこと、つまり並外れた(卓越した)栄光がもたらされる(=成就する)からです。
(3) 同じ信仰の霊をもっている
●パウロの「私たちは落胆しません」(16節)という宣言の根拠は、キリストにある終末的信仰にあります。これと同じ信仰の霊がなければ、お互いに励まし合い、慰めることはできません。
【新改訳2017】Ⅱコリント人への手紙4章13~14節
13 「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。
14 主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。
●パウロはコリントの教会の人たちと同じ信仰の霊をもっているので、励まし合うことができることを感謝しています。その同じ信仰とは「主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ(未来形)、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださる(未来形)ことを知っている」という信仰です。この終末的信仰は「見えるものにではなく、見えないものに目を留める」とも言い換えられています。「見えないものに目を留める」ことができるのは「人の霊」によってなのです。それゆえにパウロは「私たちは落胆しない」と言っているのです。私たちはもっと霊を活用すべきなのではないでしょうか。
三一の神は、私たちの霊とともにおられます。
2022.7.10
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