****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

人の霊(7)


シリーズ「霊の中に生きる」 No.7

人の霊(7)

べレーシート

【新改訳2017】ヨハネの福音書 6章63節
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです


●ここで語られたイェシュアの重要な語彙を理解したいと思います。
①「いのちを与える(方)」(「ト・ゾーオポイウーン」τὸ ζῳοποιοῦν)。動詞の分詞(名詞化されたもの)で、「いのちを与える方」と訳すことが出来ます。
②「御霊」(τὸ πνεῦμά)は冠詞付きの「霊」で、原文では「その霊」となっています。
③「」(「サルクス」ἡ σὰρξ)は人の「たましいとからだ」を意味し、神に逆らう性質を持っているので、その部分はいのちをもたらすためには何の益もないことを言っています。
④「話す」(「ラレオー」λαλέω)は、イェシュアが自らの口で話されたことを意味します。福音書にはそれが多く記されています。
⑤「ことば」(「レーマ」ῥήμα)は、イェシュアが話された数々のことばを意味します。ロゴス(λόγος)は神のトーラー(律法・教え)のように客観的な教えを指しますが、レーマは「御霊によって人を生かすことば」を意味します。それは、人の心ではなく、人の霊の中で受けとめられる(=信じる)必要があります。
⑥「いのち」(「ゾーエー」ζωή)は、神ご自身であり、神から流れ出る聖霊そのものです。それはイェシュアが「人の心の奥底(原文=腹)から、生ける水の川が流れ出る」(ヨハネ7:38)と言われたものです。この生ける水の川はイェシュアが復活した後に栄光を受けられたことで、人の霊の中に注がれました。それまでは存在しなかったのです。この生ける水の川、つまり神の霊が人の霊を再生し、その中に入ることで、人を生かして、決して渇くことのない永遠のいのちの水を湧き出させるのです。今回はこの「いのち」についての話をしたいと思います。


1. 信仰は人の霊の中で起こる

画像の説明

●人のうちに泉となって流れ出るいのちを与えるために、イェシュアは栄光を受ける必要がありました。その栄光とはイェシュアの復活です。復活したその日に、イェシュアは「いのちを与える御霊となられた」(Ⅰコリント15:45)ことで、弟子たちに息を吹きかけて、聖霊を受けるようにと人の霊の中に入って下さったのです。それは機能不全を起こして死んだようになっていた人の霊を再生するためです。人の霊を再生(回復)するために、イェシュアの一連の贖いの出来事(受肉・洗礼・受難・死・葬り・復活)が必要だったのです。人の霊の中に神の霊が働き、そこに神のことばである種が植えられることで、人は「新しく造られた者」(新創造=New Creature)となったのです。この神の事実を霊の中でそのまま受け入れて信じて生きることが、「信仰によって生きる」「御霊によって生きる」ということなのです。しかし、それは簡単なことではありません。イェシュアが「肉は何の益ももたらしません」と言われたように、私たちが神のことばを霊の中で聞かずに、肉、つまり「たましい」(心)の中で聞くとどうなるでしょうか。それはアブラハムの妻サラのようになります。 

【新改訳2017】創世記18章1~2, 9~15節
1 【主】は、マムレの樫の木のところで、アブラハムに現れた。
彼は、日の暑いころ、天幕の入り口に座っていた。
2 彼が目を上げて見ると、なんと、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはそれを見るなり、彼らを迎えようと天幕の入り口から走って行き、地にひれ伏した。
9 彼らはアブラハムに言った。「あなたの妻サラはどこにいますか。」彼は答えた。「天幕の中におります。」
10 すると、そのうちの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには男の子が生まれています。」サラは、その人のうしろの、天幕の入り口で聞いていた。
11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっていて、サラには女の月のものがもう止まっていた。
12 サラは心の中で笑って、こう言った。「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。」
13 【主】はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑って、『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言うのか。
14 【主】にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」
15 サラは打ち消して言った。「私は笑っていません。」恐ろしかったのである。しかし、主は言われた。「いや、確かにあなたは笑った。」


●三人の人がアブラハムのところに訪ねてきました。アブラハムは彼らをもてなしました。もてなしの会食の後で、三人の中の一人がこう言いました。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには男の子が生まれています」。サラは、その人のうしろの、天幕の入り口で聞いていましたが、心の中で笑ってしまったのです。なぜなら、「アブラハムとサラは年を重ねて老人になっていて、サラには女の月のものがもう止まっていた」からです。理性で考えるなら、だれでも笑ってしまうところです。神のことば(=神の約束)をこのようにたましい(心)で聞くなら、だれもが笑ってしまう話です。ところが、霊の中で聞くならば受け入れられ、そしてそのことが可能となるのです。サラは一時心の中で笑ってしまいましたが、その後はそれを信じて受けとめたことが記されています。

【新改訳改訂第3版】ヘブル人への手紙11章11節
信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
(※新改訳2017では11節の主語がアブラハムに変更されています。しかし夫婦ともに神のことばを信じたことは確かな事実と言えます。)

●イェシュアを胎に宿したマリアはどうだったでしょうか。御使いガブリエルがマリアに受胎告知をしたとき、マリアは戸惑いながらも、「どうぞ、あなたのおことば(レーマ)どおり、この身になりますように」と言いました(ルカ1:38)。エリサベツがそんな彼女と会った時に、「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです」(ルカ1:45)と言っています。そしてマリアは次のような賛歌(信仰の歌)を歌っています。「私のたましいは主をあがめ(原文は「ほめたたえ、賛美する」)、私のは私の救い主である神をたたえます(原文は「喜び踊ります)」(ルカ1:46~47)。このマリアの賛歌には、キリストにあって新しく造られた者たちの予表が啓示されています。マリアは神のことばである神のレーマを聞き、それを信じました。このレーマが霊であり、人にいのちをもたらすのです。

●ヘブル人への手紙11章1節に、信仰についての定義が記されています。それによれば、「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」とあります。これは同義的パラレリズムで書かれています。「信仰は、望んでいることを保証し」とあります。「望んでいること」とは、神のなされた数々の約束のことです。信仰がそれを保証するとはどういうことでしょうか。「保証」と訳されたギリシア語の「ヒュポスタシス」(ὑπόστασις)は substance, real being という意味で、「実体化、現実化」するという意味です。そのことを「目に見えないものを確信させるもの」と言い換えています。「確信させる」と訳された「エレコス」(ἔλεγχος)は目に見えないことを、目に見えるように証明するという意味です。つまり、これらを合わせて理解するなら、信仰とは神の約束を目に見えるように現実化(実体化)することだと理解することが出来ます。

●ローマ人への手紙でも、「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現する」(10:17)と定義されています。原文では「キリストについてのことば」ではなく、「キリストことば(レーマ)」となっています。まさにこれはヨハネが記しているイェシュアのことば、すなわち「わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです」と同義です。

●このように、キリストのことばを聞くことが信仰だとすれば、信仰はどこで始まるのでしょうか。信仰はどこで起こるのでしょうか。それはたましいを経由することなく、人の霊の中でキリストのことばを聞くことを通して起こるのです。人の霊の中には御霊も働いています。御霊はキリストのことばを常に指し示し、その意味することを教え諭す方です。その方を「助け主」とイェシュアは語っています(ヨハネ14:16, 26)。このような喜ばしい事実を、霊の中で聞くことによって信仰が生まれ、目には見えないことを実体化することになるのです。十字架の死と復活によってなされた神の客観的事実を実体化していくことが、聖書のいう「信仰」なのです。信仰は心ではなく、人の霊の中で起こるのです。ですから、霊を生かすために、主の御名を呼び求めなければなりません。そうするならば、神のことばが働いて信仰を生み出します。肉(たましいとからだ)は死をもたらしますが、霊はいのちをもたらします。

●ここで簡単なテストをしてみましょう。神が望んでおられることを私たちがどのように聞いているか、霊の中で聞いているのか、それともたましいで聞いているのかを見分けるテストです。以下のことばを聞いて、自分がどんな反応を示すのかでそれが分かります。Ⅰテサロニケ5章16~18節にあるみことばで試してみます。ここには「・・しなさい」という三つのことばがあります。それはいつも神が私たちに望んでおられることです。

①「いつも喜んでいなさい。」
●最初のことばに対してどのような反応が起こったでしょうか。馬鹿じゃあるまいし、いつも喜んでいるなんてとてもできないと思うなら、それはたましいで聞いているのです。しかし、霊の中で聞くならどうなるでしょうか。「アーメン」となります。なぜなら、そこに御霊も働くからです。神のみことばに対して「アーメン」と言えるなら、その人は神の子どもであることを証ししていることになります。以下のことばも同様です。

②「絶えず祈りなさい。」
(これは絶えず神と交わっていなさいという意味で、お経のように祈りのことばを出していなさいという意味ではありません。)

③「すべてのことにおいて感謝しなさい。」
●人の霊の中に語られているのですから、たましいで聞くなら「アーメン」とは言えないのです。神のことばをあるがままに受け入れることが霊の中では可能なのです。私たちは霊とたましいを区別して考えていないかもしれません。しかし以下のみことばは、神のことばが生きて働く時にはそれがなされることを記しています。

【新改訳2017】ヘブル人への手紙4章12節
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごと(=動機)を見分けることができます。

【新改訳2017】ローマ人への手紙8章16節
御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。

●ここに、「神の霊」と「人の霊」がともに働いている(=ミングリングしている)ことがわかります。人の霊の中で御霊とともにイェシュアのことば(レーマ)を聞いて、あるいはイェシュアのなされた一連の事実を聞いて、それを信じることによって、「いのち」がもたらされるのです。

●神が人に対して「新しいこと」(新創造)をなすために、神の霊を人の霊とミングリングさせることから始められたのです。そこが神の出発点です。そしてそこから神は人のたましい(心)とからだを回復させるのです。「霊」を新しくして、「新しい心」を造り、「からだ」を癒やして、健やかにしていきます。そしてやがてイェシュアと同じように「御霊のからだ」としてくださるのです。それを証しするのがキリストの復活の事実です。初穂とは、キリストを信じるあなたもキリストの復活のからだと同じようになる(=変えられる)という保証です。もしこれがなされなければ、神の国を相続する(=受け継ぐ)ことはできないのです。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙15章50~54節
50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、
この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に呑み込まれた。」

●キリストにある者が「朽ちないものによみがえり」、御霊のからだに変えられるということは、すでに天において包括的に実現しています。そのいのちは隠されていますが、保証されています。しかし空中再臨による携挙が来て引き上げられるまでは個別的には実現されません。ですから実体化することを信じて待つことが求められます。

2. いのちのしるし

●「いのち」とは何でしょうか。「プシュケー」(ψυχή)と言われる「たましいのいのち」があります(例:マタイ6:25)。医療現場ではこのいのちを生かすために、医師たちが日々取り組んでいます。尊い働きです。しかし聖書のいういのちは「神との交わりのいのち」です。そのいのちは「ゾーエー」(ζωή)で表されます。

●イェシュアの十字架の出来事は、「最初のアダム」を終結させるために必要な出来事でした。十字架の血潮によって救いは百パーセント成就しています。私たちの罪(原罪)は完全にきよめられ、私たちの数々の罪(行いの数々の罪)も完全に赦されているのです。神が私たちの罪を二度と思い出すことはないのです。このことを信じるためには、たましい(心)を経由しないで、そのまま霊の中で信じなければなりません。みことばの力の保証は人の霊の中にある御霊によるものであり、それが人にいのち(ζωή)をもたらすことになるからです。御子を信じる者は「永遠のいのちを得る」とあります(ヨハネ3:16)。「永遠」とは、「天」と同様に「神」ということばに置き換えられます。つまり「永遠のいのち」とは「神のいのち」であり、それは「三一の神のいのち」であり、それを得るとは、「三一の神にあるいのちの交わりにあずかる」ことを意味します。それは愛に満ちた親しい交わりです。

●「御霊の思いはいのちと平安」(ローマ8:6)ともあります。三一の神にある交わりのいのちは、人に真の平安(「エイレーネー」εἰρήνη)を得させます。反対に、「肉(σάρξ)の思いは死」とあります。肉は「最初のアダム」に相当し、御霊は「最後のアダム」に相当します。「最初のアダム」に属する思いの究極は「不安と恐れ、そして死」です。しかし「最後のアダム」に属する思いの究極は「平安」です。その「平安」は単に争いのない、心穏やかな、安心という意味ではなく、ヘブル語の「平安」(「シャーローム」שָׁלוֹם)の意味です。それは「神との和解、神のご計画の完全な成就、健全さ、健やかさ、愛の交わり、完全な悟り、繁栄、勝利」を含んだ概念です。

●ヘンリー・ナウエンは、その著『いのちのしるし』(女子パウロ会、宮澤邦子訳、2002)の「はしがき」の中で、「わたしたち人間は恐れに満ちた存在である。・・・恐れはわたしたちの内面深くまでしみこんでいるので、気づいているにせよ、いないにせよ、わたしたちの選択や決心の大部分はそれによって左右されてしまう」と述べています。ひとたび恐れが私たちの生活を支配するようになるやいなや、私たちは愛の家から語られることばを非現実的なものとして信じられなくなってしまいます。恐れをかき立てる現実的な世界のただ中で、果たして私たちが「全き愛は恐れを締め出します」という真理を知り、それによって恐れから自由になることが果たして出来るのでしょうか。そのためには、以下の「いのちのしるし」を信仰によって身に着ける必要があります。

●ヨハネの福音書15章から「いのちのしるし」としてイェシュアが弟子たちに語っておられる三つのことばを選び、それについて考えてみましょう。

(1)<親しさ>・・「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。」(4節)

●いのちのしるしの第一は「とどまる」ことです。「わたしにとどまる」ことが、7節では「わたしのことばがあなたがたにとどまる」と言い換えられ、9節では「わたしの愛にとどまりなさい」と言い換えられます。これはイェシュアのなされた一連の事実と、イェシュアのことばと、その愛の中にとどまることを意味しています。

●「とどまる」(「メノー」μένω)という語彙は、「住む」「つながる」「結ばれる」ことを意味する語彙です。特に「一つとなる」という意味のヘブル語は「ダーヴァク」(דָּבַק)です。その初出箇所は創世記2章24節で、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」の「結ばれ」に使われています。もし、この24節を「たましい」で理解するなら、親から自立した家庭を築きなさいという倫理道徳の教えとなりますが、「霊」で聞くならばそういう理解にはなりません。「父と母を離れる」その真意はイェシュアが来られることで初めて明らかにされるのです。「父と母」とは、ユダヤ教の「神殿」および「律法主義」のことです。これが父と母の意味であり、男を啓示するイェシュアと妻である教会が結ばれるためには、「父と母を離れなければならない」という教えが隠されています。教会につながる私たちはキリストとともに、宗教であるユダヤ教から「離れる」(=見捨てる)ことを通して、はじめて一体になることを告げている預言的なことばなのです。立派な家庭を築くための教えならば、世の中の人でも当たり前に知っていますし、それを実践しています。ここでは神と人がともに住むためには、宗教を見捨てるということで結ばれ、一体となることを啓示しています。

●いずれにしても、「とどまる」ということばがそのような結びつきを含んでいるということなのです。初代教会におけるステパノのような弟子たちはその模範です。

(2)<豊かさ>・・「人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」(5節)

●いのちのしるしの第二は、「多くの実を結ぶ」ことです。ぶどうの実はふどう酒です。ここでいう「豊かさ」とは、神と人の関係性における交わりの豊かさで、それは「平安・安息」となって表されます。

●人は親という存在によってかかわりを持つようになります。そのかかわりはその人の人生の多くを決定付けます。精神病は人との関係においてもたらされる関係の病です。人が恐れを感じるとき、自分のうちに引きこもり、豊かな関係を築くことができなくなります。ついには他者に背を向け、手を差し伸べることをしなくなり、自ら作り出した防御の態勢へと退行していきます。人からほめられてもそれを否定し、他人の親切を素直に喜べない、あるいは勘ぐってしまう心。期待した関係が得られなければ、その怒りが中傷や陰口となって表われる。冷淡、しらけ、孤独は、みな期待した関係を得られなかったことの結果です。かかわりを欲するがゆえに起こる甘えという心の依存、これらはみな愛に病んでいる証拠です。と同時に、恐れは何かをしなければならないという脅迫をもたらします。業績や成功を強調する今日の社会では、私たちは業績や成功が安心と同じものであるかのような思いを持っています。それらを確保することで、役立たずになることへの恐れが取り除かれると思っています。そのためにいつもプレッシャーを感じながら生きているのです。そのため、人からの拒否や批判に対して非常に傷つきやすくなります。しかし神とのかかわりから得るいのちは、こうしたものに左右されない「平安と安息」がもたられるのです。

(3)<喜び>・・・「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、・・・」(11節)

●いのちのしるしの第三は、「満ち溢れる喜び」です。「満ち溢れる喜び」こそ、「霊の中に生きる」すべての人に、例外なく約束されているものです。弟子たち七十二人が伝道の旅から喜んで帰って来ました。「大成功」だったからです。「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」と彼らは有頂天でした。そのときイェシュアは弟子たちに、「ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10章17~20節)と言われました。

●「あなたがたの名が天に書き記される」とはどういうことでしょうか。それは「たとえ地上で大事なものを失っても、ゆるがない喜びと安心を持てること」です。決して見離され、見捨てられることがないという安心、たとえ、自分の父、母が私を見捨てたとしても、神は私を見捨てないという安心感、それは、神(父)とのゆるぎない信頼関係を持つことによってのみ与えられる喜びです。たとえ地上のものを失っても、ゆるがないものによって支えられていることを喜ぶこと。それは親しい神との交わりから来るものです。それは「聖霊による喜び」という言い方もされます。ちなみに、「天に」とは「神に」ということばと同義です。あなたの名が神の心に書き記されているということは、いつもあなたのことを忘れることなく、心に留め、かかわり続けてくださっているということを意味します。そして神の子どもとして特別に扱ってくださるということです。

ベアハリート

●このように、いのちのしるしの三つのことばは、私たちが「恐れの家」から逃れ出て、「愛の家」に住むようにとの御子の招きの声です。それは御父の招きでもあります。私たちの霊の中に三一の神がすでに住んでおられるのです。ですから、イェシュアの語ることば(レーマ)を霊の中で聞いて信仰を働かせる必要があります。たましい(心)はすでにサタンが足場を築いているところです。そこはサタンが恐れを植え付け、その恐れのゆえに偶像を求めさせる場でもあります。しかし神はキリストによってそれを私たちとともにすでに十字架につけてしまわれました。恐れの家から霊の中にある三一の神の愛の家に住むことができるようにしてくださったのです。ですから、霊の中で父の声を聞き、またキリストのことばを聞いて、信仰によって整えられていく必要があるのです。そうするならば、神の力が解き放たれて、私たちの霊に喜びが満ち溢れるのです。いつも、絶えず、です。

三一の神は私たちの霊の中に生きておられます。

2022.7.25
a:1328 t:2 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional