****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

人の魂 (1)


シリーズ「霊の中に生きる」 No.14

人の魂(1)

べレーシート

●昨年の5~10月まで「人の霊」について学びました。イェシュアは受肉され、洗礼の時に私たち全人類を自らの内に取り込んで、十字架の死において「最初のアダム」が背負っていた罪と死ののろいを終わらせました。そして葬られ、三日目に死人の中からよみがえり、「いのちを与える御霊」となられ、私たちの霊を回復(再生)しその中に入ってくださいました。このことを通して、三一の神が私たちの内に住んでくださり、私たちを新創造してくださったのです。その御霊は御父と御子の一切を含んでいます。この神の包括的な事実は、三一の神ご自身のすべてを私たちに与えることにあります。また私たちの霊と御霊がミングリングすることによって、「生きることはキリスト」、「キリストこそすべて」という信仰を与えて安息を与えてくださるのです。しかしその真理に覆いをかけ、それを阻もうとするのが、今回取り上げる「たましい」(「プシュケーψυχή)なのです。「たましい」は人の中で最も手ごわい部分と言えます。なぜなら、そこにサタンが足場を築いているからです。

●神の回復のみわざは、機能不全を起こしていた私たちの「霊」から始めて「たましい」、そして「からだ」という順に浸透して行きます。神を信じる者の「たましい」は、「いのちを与える御霊」によって徐々にですが造り変えられています。「たましい」は「知・情・意」の三つから構成されています。この「たましい」を「プシュケー」(ψυχή)で表わしますが、聖書は、「最初のアダム」である生来の「いのち」をも「プシュケー」で表しているのです。つまり、同じ「プシュケー」が「たましい」と生来の人間の「いのち」をも意味しているということです。しかし、死からよみがえられた「最後のアダム」であるイェシュアは、「いのちを与える御霊」となられたとあります(Ⅰコリント15:45)。この場合の「いのち」は「プシュケー」ではなく、「ゾーエー」(ζωή)で表される「いのち」です。この「ゾーエー」こそ神のいのちであり、私たちの霊を生かす根源的ないのちなのです。ですから、「ゾーエー」のいのちを私たちの宝としなければならないことを、イェシュアは弟子たちに語っています。しかも、この「朽ちることのない宝を天に積み上げるため」にも、神の国を求め続けることが不可欠であることを語っています。

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1. 「たましい」の中の「知性・思い・考え」

●今回は、「たましい」の中にある「知」の部分、すなわち「知性・思い・考え」にのみ注目したいと思います。イェシュアも「たましい」のこの部分について注意を促しています。

【新改訳2017】ルカの福音書12章22~31節
22 それからイエスは弟子たちに言われた。「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようかと、いのちのことで心配したり、何を着ようかと、からだのことで心配したりするのはやめなさい。
23 いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものだからです。
24 烏のことをよく考えなさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。それでも、神は養っていてくださいます。あなたがたには、その鳥よりも、どんなに大きな価値があることでしょう。
25 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
26 こんな小さなことさえできないのなら、なぜほかのことまで心配するのですか。
27 草花がどのようにして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。
28 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、どんなに良くしてくださることでしょう。信仰の薄い人たちよ。
29 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい。
30 これらのものはすべて、この世の異邦人が切に求めているものです。これらのものがあなたがたに必要であることは、あなたがたの父が知っておられます。
31 むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。

●ここでイェシュアが強調しておられることは、24節と27節にある「よく考えなさい」ということばです。これは「たましい」における「知」の領域のことばです。「知」の領域はとても重要です。なぜなら、サタンはこの領域に覆いをかけ、私たちを不安にさせ、気をもませるようにしているからです。しかしイェシュアは、「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい。これらのものはすべて、この世の異邦人が切に求めているものです。これらのものがあなたがたに必要であることは、あなたがたの父が知っておられます」と語っています。イェシュアの語ることばは「霊であり、いのち」です。私たちが霊を働かせて、イェシュアの語られることばをそのまま信じることで、その信仰は実体化するのです。「神は・・してくださるのなら、あなたがた(=弟子たち)には、どんなに良くしてくださることでしょう」と言っています。要は、イェシュアのことばをあるがままに霊の中で信じることが、「ゾーエー」のいのちを得ることにつながるのですが、そのときにイェシュアは「よく考えなさい」と言って、たましいの「知」に訴えかけているのです。

●「いのちを与える御霊」は、イェシュアの語られることばを信じるようにと絶えず促します。それを信じて従うことが「ゾーエー」(ζωή)の「いのち」につながるからです。「プシケー」(ψυχή)である生来の「いのち」に生きるのか、それとも「ゾーエー」の「いのち」に生きるのか、その霊的な戦いが絶えず迫られていることになります。それは神とサタンとの戦いが私たちの「思い」の中で絶えずなされているからです。この戦いを、パウロは「肉の思い」と「霊の思い」と表現しています。

2. 「肉の思い」と「霊の思い」

【新改訳2017】ローマ人への手紙 8章6節
肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。

●ここで「思い」と訳された名詞「フロネーマ」(φρόνημα)は、新約で4回(ローマ8:6, 6, 7, 27)しか使われていませんが、「知」を表す語彙として非常に重要な語彙です。ただし動詞の「思う、考える、心にかける」と訳された「フロネオー」(φρονέω)は26回も使われています。そのうちの一つは前節(8章5節)「肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます」で使われています。

(1)「肉の思い」・・生来のたましい
Greek
「ト・フロネーマ・テース・サルコス」
(τὸ φρόνημα τῆς σαρκὸς)
Hebrew
「ヘグヨーン・ハッバーサール」(הֶגְיוֹן הַבָּשָׂר)
「マハシェヴェット・ハッバーサール」(מַחֲשֶׁבֶת הַבָּשָׂר)

(2)「霊の思い」・・御霊に浸透されたたましい
Greek
「ト・フローネーマ・トゥー・プニューマトス」
(τὸ φρόνημα τοῦ πνεύματος)
Hebrew
「ヘグヨーン・ハールーアッハ」(הֶגְיוֹן הָרוּחַ)
「マハシェヴェット・ハールーアッハ」(הָרוּחַ מַחֲשֶׁבֶת) 

●ギリシア語の「思い」を訳したヘブル語の一つは「ヘグヨーン」(הֶגְיוֹן)で、これは「ヒッガーヨーン」(הִגָּיוֹן)の連語形で、心の「思い」や「瞑想」を意味します(詩篇19:14)。もう一つは「マハシャーヴァー」(מַחֲשָׁבָה)で、その連語形が「マハシェヴェット」(מַחֲשֶׁבֶת)で、「思い」「計らい」「計画」「目的」を意味します。

●いずれにしても、私たちは「死」を選ぶか、それとも「いのちと平安」を選ぶかを迫られているということです。肉の思いを選び取るなら死です。しかし御霊の思いを選び取るならいのちと平安です。そのためには、「霊とたましい」を見分けなければなりません。

【新改訳2017】ヘブル人の手紙4章12節
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、
たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

●上記のみことばは「神のことばが生きて働くなら、それは両刃の剣よりも鋭く、関節と骨髄を切り分けるように、たましいと霊、あるいは心の思いやその動機を見分けて判断することができる」ことを教えています。その秘訣は、神のことばを生きて働かせることにあります。そのためには神のことばをあるがままに信じて受け取ることです。これは霊においてなされることで、たましいではできないことです。ですから、霊を働かせる必要があるのです。しかし、私はこの人の霊について知りませんでした。ウイットネス・リーによって初めて教えられました。実にパウロはそのことをローマ書8章16節で「御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」と語っていたのです。

●パウロは神のことばによって霊とたましいを見分けた結果を、「私たちはキリストの心を持っています」と表現しています。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙2章16節
「だれが主の心(νοῦς)を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心(νοῦς)を持っています

※「ヌース」(νοῦς)は本来「思い、知性、考え方」を意味します。口語訳・聖書協会共同訳は「思い」と訳し、英語ではmindと訳しています。「心」は漠然としているため、「思い」のほうがふさわしいです。

【新改訳2017】ピリピ人への手紙 2章5節
キリスト・イエスのうちにあるこの思い(動詞「思いを抱き」「プロネオー」φρονέω)を、あなたがたの間でも抱きなさい。

キリストの思いを持つとは、私たちの考えを放棄して、キリストの考えを持つことを意味します。それは、人の思いがキリストによって新しくされ、支配されていることを意味します。私たちの霊が再生された後に、キリストの霊がたましいへと拡大されて、つまり私たちの思いに広がるなら、私たちの思いはキリストで満たされた思いを持ちます。その結果、私たちの考えや思いは、キリストの香りで満ち、キリストの香りを放つ存在となるのです。

●新しくされていない思いには覆いがかかっており、主との交わりを分断する障害となります。サタンは私たちの「理解の型紙」によって思いを覆うことができます。

【新改訳2017】Ⅱコリント人への手紙4章4節
彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。

●それゆえ霊の中に生きる者は、「覆いのないキリストの思い」が必要です。人の考え、この世の常識、宗教的観念、教理、伝統といったものが「覆い」となります。その覆いから自由になるためには、みことばの光が不可欠です。霊的な事柄に対する新しい知識や理解でさえも、それに安住するならば、それが私たちの覆いとなるかもしれないのです。ですから「霊であり、いのちである」神のことばに対して、上からの光に照らされるためには、いつもオープン・マインドでいることが必要です。主からの新しい啓示を受けるためには、いつも主に対して思いを開いていなければならないのです。「シェーム・イェシュア」によって、いつも「目を開いてください」と祈らなければなりません。そのように祈るならば、上からの新鮮な理解や新鮮な導きを新たに受けるに違いありません。

●「肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安」とあるように、御霊の思いは私たちの霊的な生活において非常に重要です。私たちの霊はイェシュアが復活された時に包括的に再生されて新しくされているのです。そのことを信仰によってそのまま受け取らなければなりません。もしそのことを信じずに、思いが新しくされていないとしたら、どこかに問題があるのです。パウロはその問題を以下のことばで明らかにしています。「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心(原文=思い「ヌース」νοῦς)を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります」(ローマ12:2)。すでに再生された私たちの霊を働かせて、自分の思い(νοῦς)を主に従わせるようにしなければなりません。つまり、それは神のことばをあるがままに受け入れることなのです。そうするならば、私たちの霊に住んでおられる主(=聖霊)が、キリストの思いを浸透させて、「私たちはキリストの思いを持つ」ようになるのです(Ⅰコリント2:16)。

3. 霊的開眼ための祈り

●福音書には、目の見えない者たちがイェシュアによって目が開かれるという奇蹟が多く見られます。この目は霊的な目です。霊の目が覆われて見えなくなっている者を見えるようにするのは、メシア以外にはいません。イェシュアが目を開かせるというのは、イェシュアこそメシアであるという確かなしるしなのです。それゆえ、旧約では目が開かれる奇蹟がほとんど見られないのです(例外として:Ⅱ列王記6:15~17のエリシャの召使い)。詩篇119篇に以下の重要な祈りがあります。これは預言的な祈りです。

【新改訳 2017】詩篇119篇18節
私の目を開いてください。
私が目を留めるようにしてください。
あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。

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(原文直訳)
取り除いてください  私の目の覆いを。
そうすれば、私は目を留めることができます。
あなたの教え(トーラー)にある不思議さに。

●ダビデが「ただ一つのこと」を求めたように、この祈りも、最も大切なものを求めてそれに目を留めようとしています。そのためには、どうしても目の覆いが取り除かれなければ、みおしえのうちにある奇しいことに目を留めることができないということを知っていたのです。「あなたのみおしえにある奇しいこと」をいろいろな聖書の翻訳で調べてみると、新共同訳では「あなたの律法の驚くべき力」、関根訳では「あなたの律法のうちにある妙なるもの」、フランシスコ会訳では「あなたの教えのすばらしさ」、バルバロ訳では「あなたの法の不思議」、NIV訳では“wonderful things from Thy law”と訳しています。神のトーラーのうちにある「奇しいこと」「驚くべき力」「妙なるもの」「すばらしさ」「不思議」「wonderful things」と表現されたその実体(正体)とは何なのでしょうか。作者の目が開かれて、目を留めたいと願っているその驚くべき教えとは、トーラーに隠されている「キリストのこと」です。なぜなら、「トーラー(律法)が目指すものはキリスト」だからです(ローマ10:4)。ですから、この祈りは預言的なのです。

●この祈りはキリストの贖いによって包括的にすでに実現しています。聖書のすべてはキリストを証しするものです。聖霊の働きはそのキリストを指し示し、キリストの語られた「霊であり、いのち」を与えることば(=レーマ)を悟らせることによって、人にゾーエー(ζωή)のいのちをもたらすことです。聖霊はすでにイェシュアを信じる者たちの霊の中におられます。その霊を「シェーム・イェシュア」によって働かせることによって、私たちの目の覆いが取り除かれるのです。別の言葉で言うなら、心の中に出来上がっている自分の理解の型紙が破れて、思いという固い殻が破られることを意味します。自分の「理解の型紙」に頼っていては、いのちが流れ込むことがないからです。自分の思いを完全にニュートラルの状態にして、主のことばをありのままに聞いて信じるときに、いのちが流れるのです。

●「目が開かれる」というのは、聖霊の働きによって、トーラーの目指しているキリストがたましいの「思い」に浸透して、理解されることを意味します。思いの部分が聖霊によって開かれることで、たましいの「感情」に「喜び」を感じるようになるのです。ちなみに、詩篇119篇24節(同じ段落)には、「あなたのさとしこそ、私の喜び」と告白されています。ここでの「喜び」とは、神による不変の喜び、神に愛されていることの喜び、いつでも神に相談できる信頼の喜び、支えられ生かされているという喜びです。そしてこの「喜び」はイェシュアがもっておられた喜びでもあります。イェシュアは言われました。「わたしにとどまりなさい。わたしのことばにとどまりなさい。わたしの愛にとどまりなさい。」と。なぜなら「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました」(ヨハネ15:4~11)と語っているからです。思いが新たにされることで「喜び」を感じるようになるのです。

●たましいを構成する「知性・感情・意志」の中で最も重要な部分は「思い」です。そこから「感情」、そして「意志」に及んでいくのです。「意志」は「神を愛する」ことを含みます。神の第一戒である「神を愛する」とは、聖霊によって新しくされた「意志」によって実現可能な戒めとなるのです。生来の意志では神を愛することはできないのです。なぜなら神に敵対する「肉」が働いているからです。これが可能とされるのは「ニフラーオート」(נִפְלָאוֹת)、つまり神の「不思議さ、驚くべき力」によるのです。すなわちそれは「キリスト」なのです。

●人の「思い」(知性)にはサタンがしっかりと足場を築いています。つまり人間の「思い」はサタンの要塞となっているのです。そこは霊的な戦場でもあります。人の思いは人の思考を司る器官で、物事を知り、考え、想像し、記憶し、理解する部分です。その思いが人の感情や意志(行い)を左右するのです。そのことを検証する話として、「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」と言った青年のことを見てみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書19章16~22節
16 すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」
17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」
18 彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。
19 父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」
20 この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」
21 イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
22 青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。

●これは「永遠のいのち」を求めながらも、それを得ることなく、悲しみながらイェシュアのもとを去った青年の話です。何が問題だったのでしょうか。「永遠のいのちを得たいという思い」があったにもかかわらず、なぜそれを得ることができなかったのでしょうか。それは彼の「問い」に問題があります。その「問い」とは「どんな良いことをすればよいのか」という思いから来る問いです。

●「永遠のいのち」とは、神を知り、神のいのちの交わりの中に生きることを意味します。何をすればそのいのちを得られるのかと思っているところに重大な欠陥があるのです。善い行いをすることで、神のいのちが得られると思い込んでいる(実際はサタンによって思い込まされている)のです。この青年は単なる一個人のことではなく、ユダヤ教を代表していると考えられます。彼に代表されるユダヤ教は「善悪の知識の木」だけを食べてそれと一体となっている「蛇の子孫、まむしの子孫」です。すなわち「もろもろの悪霊」(ストイケイア)に支配されているのです。ストイケイアは人の思いを支配することで、真理に対して覆いをかけて盲目にさせる霊的な力です。

●「行い」は、たましいの中の「意志」の領域にかかわるものです。たましいの「思い」の領域がサタンの要塞となっているので、その行い(意志)の領域も当然その影響を受けます。案の定、彼は「悲しみながら」(感情)、イェシュアのもとを「立ち去りました」(行い・意志)。自分のことが分かっていなかったからです。自分の思いに覆いがかかっていることを知らずにいるので、「どんな良いことをすればよいのか」と尋ねているのです。サタンは人の思いに働いて、神の「ニフラーオート(不思議)」に対して覆いをかけて盲目にしているのです。人の思いはサタンによって最も攻撃を受けやすい部分なのです。人の罪は「人の思い」から始まっています。つまり蛇のうそを信じてしまったのです。「信じる」というのは「思いの領域」です。神は霊を回復して、たましいの思いの領域から回復のわざを始めようとしているのです。

●アシュレークラスの入会条件が一つあります。その条件とは、イェシュアが語っていることをそのまま受け入れることが出来るかどうかです。具体的には「聖書は、わたしについて証ししているものです」というイェシュアのことばです。このことを試すために、詩篇1篇を用いてテストをします。そのテストの目的は、その人の「理解の型紙」を壊すことです。そしてそのことに対して柔軟であるかのテストです。

べアハリート

●霊の機能が再生していない人の思いの中にはサタンが足場を築いています。しかし霊の機能が回復した人であっても、サタンの思いのままにあやつられています。これがパウロのいう「肉の思い」です。「肉の思い」で聖書を読むなら、聖書の中にイェシュアの証言を見つけることができず、いのちを得ることができないのです。置換神学による解釈も「肉の思い」で聖書を読んでいることになります。そのことに気がつきません。「肉の思いは神に敵対する」とパウロは言っています。この「肉の思い」が「御霊の思い」に変えられなければ、「永遠のいのちを得る」ことはできません。なぜなら、永遠のいのちは神を信じて、神を知ることから始まるからです。「御霊の思い」に従って歩む者には「律法の要求が満たされる」のです。「御霊に従う者は御霊に属することを考える」と言っています。つまりいつも聖書の中にキリストを見出し、キリストにあって生き、「生きることはキリスト」、「すべてはキリスト」ということになるのです。その結果、「いのちと平安」がもたらされるのです。

●「御霊の思い」がたましいに浸透していくことによって、キリストの「奥義を語る」ようになります。

【新改訳2017】コロサイ人への手紙4章3~6節
3 同時に、私たちのためにも祈ってください。神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください。この奥義のために、私は牢につながれています。
4 また、私がこの奥義を、語るべき語り方で明らかに示すことができるように、祈ってください。
5 外部の人たちに対しては、機会を十分に活かし、知恵をもって行動しなさい。
6 あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。
そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。

●この箇所でパウロはキリストの奥義(「ミュステーリオン」μυστήριον)を語れるように祈ってくださいと懇願しています。さらにこの奥義を語るべき語り方で明らかに示すことができるようにとも語っています。そして同時に、パウロだけでなく、「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい」と命じています。この「塩味の効いたもの」とは「奥義」のことです。ここでの「塩」とは、幕屋での「聖なる香」に添えられる「塩」を意味しています。

●香料のナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香と純粋な乳香のうち、前者の三(ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香)は「キリストの死」を、残りの一(乳香)は「キリストの復活」を象徴しています。さらに三は「父・子・霊」を意味し、一は神を意味します。この三一の神は奥義です。このように、奥義を理解し語ることが「塩味の効いたことば」なのです。コロサイ人への手紙全体が「キリストの奥義」を啓示していますが、教会はキリストの奥義に目が開かれて上からの悟りを与えられる必要があるのです。教会と訳された「エックレーシア」は、花婿の口づけを求める花嫁として、「キリストの奥義を語る者」とならなければなりません。

三一の神の霊があなたがたの霊とともにおられます。

2023.1.8
a:1178 t:6 y:5

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