****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

人の魂 (2)


シリーズ「霊の中に生きる」 No.15

人の魂(2)

べレーシート

●「霊の中に生きる」ということは、信仰によって神のいのちに生かされるということです。

①【新改訳2017】ローマ人への手紙 1章17節
福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

②【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙 2章20節
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

③【新改訳2017】Ⅱコリント人への手紙 5章7節
私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。

●上記のみことばは「信仰によって」が共通しています。ここでの「信仰」は「ピスティス」(πίστις)ですが、ヘブル語では「エムーナー」(אֱמוּנָה)です。「エムーナー」の語源は「アーマン」(אָמַו)です。その初出箇所は創世記15章6節で、アブラムは神が語った約束、すなわち「あなたの子孫はこのようになる」という神のご計画とみこころを「信じた」(「アーマン」אָמַו)のです。つまり、神の約束は必ず実現・成就するとして、神を「真実」(「アーメン」אָמֵן)であるお方としたことで、彼は「義」とされたのです。「義」(「ツェダーカー」צְדָקָה)とは、神と人との関係概念です。神と人のあるべき永遠の正しい関係を意味します。その関係は、私たちのたましい(知性・感情・意志)の領域ではなく、霊の領域で働く信仰によって成立します。アブラハムが信仰によって義とされたということは、後の御子イェシュアによって実現される予型だということです。その意味で、「霊とたましい」を一緒くたにしてしまうのではなく、「霊」と「たましい」を見分けることが大切なのです。なぜなら、神の民に約束されている真の安息は、霊の領域によって得られるものだからです。しかし、それを阻もうとするのが「たましい」(「プシュケー」ψυχή /「ネフェシュ」נֶפֶשׁ)です。

【新改訳2017】ヘブル人への手紙4章12節
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましい、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

ヘブル人への手紙では「霊」と「たましい」を見分けることの大切さを述べていますが、そのことに気づき、意識しているクリスチャンは少ないようです。神はイェシュアを受肉させ、死と復活のみわざによって何をしてくださったのでしょうか。それは、イェシュアが「いのちを与える御霊」となって、機能不全を起こしていた人の霊を再生させ、その霊の中に御霊として入ってきてくださったことによって、人を新創造してくださったのです。この霊の中で神のことばをあるがままに受け取ることが「信仰」なのです。その信仰によって、私たちが神のいのちを生きるようにされることが福音なのです。そこは生来のたましいで生きることがない領域であり、三一の神によって再創造された新しい領域なのです。その領域で生きることが「霊の中に生きる」ということなのです。

●すでに神は包括的な救いをなしてくださっていますが、いまだ完成はしていません。ということは、逆に言うなら、たましいはすでに十字架につけられて死んでいるのですが、神に敵対する肉(「たましい」と「からだ」)がいまだ生きているために、つまり新しい心と新しいからだに完全に変えられていないために、霊と肉との戦いはいまだ継続しているのです。しかしこの戦いはすでに決着がついているのです。

画像の説明

●イスラエルの民がエジプトから救い出され、彼らは荒野で神の恵みを経験します。つまり、彼らの生存に必要な「パン」(出16章)と「水」(出17章)が与えられました。「パン」と「水」とは「いのちのパンである神のことば」と「渇くことのないいのちの水」の予表です。そしてそのあとに「アマレクとの戦い」(出17章)が起こります。この「アマレクとの戦い」は、「敵に対する神の完全な勝利」の予表であり、「肉と霊の戦いにおいて、霊が勝利する」ことを意味しています。神はこのことを「アドナイ・ニッスイー」(יהוה נִסִּי)、つまり「主はわが旗」であるイェシュアによって勝利がもたらされることを啓示されました。この神の啓示を受け取って歩むのが「信仰」(「エムーナー」אֱמוּנָה)なのです。

1. 「たましい」の中の「感情・感覚」

●今回は、たましいの中でも「感情・感覚」について扱いますが、この部分はとても厄介です。感情の反意語は理性ですが、理性も感情もいずれもたましいの領域なのです。理性に傾くか、感情に傾くかの違いだけですから、いずれも神に反抗する性質をもっているのです。この「感情・感覚」にいかに対処するかが問題なのです。以下は、感情に属する語彙を並べたものです。

画像の説明

恐れ・不安・思い煩い・心配 ⇔ 安心・平安・慰め・安息
愛  ⇔ 憎しみ
優しい・嬉しい ⇔ 怒り・憤慨・嘲り・不愉快
歓喜(喜び)・興奮  ⇔ 悲哀(悲しみ)・失意・落ち込み
充実・満足 ⇔ 空虚・寂しい・空しい・
好ましい・麗しい ⇔ 嫌い・嫌悪

・・・これらはみな感情に属します。大局的に並べられていますが、その間を行ったり来たりしているのが、人のたましいです。それらが霊によって変えられるとどうなるのでしょうか。

●この世で感情ほど変わりやすいものはありません。第三の天にいるかと思えば、奈落の底に突き落とされるといった感情の浮き沈みを繰り返す人は、確実にたましいに支配されているのです。特に、「心配性の人」は「感情に支配されている」と言えます。たましいはこの上なく不安定であり、霊に支配されている人とは決して言えません。感情が強い人は、静かな霊の声には気づきません。霊によって生きようとする人にとって、感情は最大の敵となります。浮き沈みの激しい感情的な人を霊の支配下に置くことができるのでしょうか。それは信仰による奇蹟しかありません。前回にも学んだ箇所の並行記事を、再度取り上げたいと思います。この箇所には、生来の「感情」(緑色)と、霊によって新しくされた「思い」(黄色)と「意志」(ピンク色)が含まれています。今回は①「心配する」(思い煩い)と②「喜び」の感情について取り上げたいと思います。

【新改訳2017】マタイの福音書6章25~34節
25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのち(ψυχή=נֶפֶשׁ)のことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだ(σῶμα)のことで心配したりするのはやめなさい。いのち(ψυχή)は食べ物以上のもの、からだ(σῶμα)は着る物以上のものではありませんか。
26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのち(ψυχή)を延ばすことができるでしょうか。
28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

●最後の34節に「明日のことは明日が心配します」とありますが、それは、その日その日のすべきことに集中すべきであることを教えています。ところで、「心配」や「思い煩い」といった感情はたましいの領域です。ここでは生命の保障という意味で「心配しています」が、マルタのように接待のために「いろいろなことを思い煩って、心を乱している」ことも同じくたましいの感情の領域です。「心配する、思い煩う」と訳された「メリムナオー」(μεριμνάω)は、「心が分裂する」ことです。そのような「たましい」を「いのち」(ギリシア語は「プシュケー」ψυχή、ヘブル語は「ネフェシュ」נֶפֶשׁ)としています。つまり「生来のいのち」を意味しています。御霊によって刷新したいのちならば「ゾーエー」(ζωή)になります。たましいにおける感情から解放される唯一の鍵はただ一つしかないことを、イェシュアが語っています。それは「神の国と神の義を求める」ということです。ルカでは「御国を求める」となっています。これが「霊の中に生きる」ことなのです。

●霊の中に生きることは、「求める」という意志にかかっています。しかしこの意志は、生来のたましいにおける意志ではありません。なぜなら、生来の意志には「神の国と神の義を求める」ということがないからです。「御国を求める」という意志は御霊によって新しくされたものです。たとえどのような事態に置かれたとしても、この新しくされた意志を信仰によって働かせ続けることによって、生来の「心配、思い煩い」といった恐れの感情から逃れることができ、それに振り回されることがないことをイェシュアは語っているのです。ですから、「これらのもの(=何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか)すべてがあなたがたに必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます」という神のことばに対する信仰と、神の国と神の義を求める意志によって、自分の生来のいのちを心配することに打ち勝つことができることを述べています。なぜ「神の国と神の義を求める」という意志が自分のいのちを「心配する」ことから解放させるのかと言えば、そこには永遠のいのち、すなわち、神からのいのち(「ゾーエー」ζωή)が保証されているからです。このような望みは、私たちを地上のことから、上にあるものへと結びつけます。「生来のいのちであるたましいで生きる」ならば「思い煩う」という感情から逃れられませんが、「霊の中に生きる」ならば平安と安息が約束されているのです。そのことを、神はイェシュアの死と復活によって可能としてくださったのです。

●サタンはたましいの感情の領域に居座って、私たちの生来のいのち(「プシュケー」ψυχή)に対して「思い煩う」という感情を植え付け、安息を得ることができないようにさせています。そのため、私たちは感情によるアップ・ダウンを繰り返すのです。しかし、私たちはすでに生来の感情によって生きることに死んだのです。私たちはキリストとともに十字架の上で死んだのです。そしてキリストは死からよみがえられ、「いのちを与える御霊」となって私たちの霊を再生させ、その中に生きておられて、すでに新しく生きるゾーエーといういのちを与えてくださっているのです。この包括的な事実を、私たちが個別的に信じて生きていくことで、神の「新創造」がもたらされ、神と人が共に住むことができるのです。そこでは、新しくされた私たちの霊と三一の神がともに住むことが実現しているのであって、生来の私たちと神とが共に住むことではありません。なぜなら、生来のたましいにはサタンがしっかりと足場を築いているからです。そのサタンの支配から解放されるには、私たちがすでにキリストとともに死んだことを認めることです。それは私たちの感情に一切頼らないということを意味します。そのことを自覚して歩むことが、霊とたましいを見分け、区別して生きることなのです。

●常に、今の自分の感情がどこから来ているのかを静かに思い起こすことです。生来のたましいである「プシュケー」、あるいは「ネフェシュ」は、渇きを満たすために常にうごめき、じっとしていない実体です。満たされて安心したとしても、確実に満たされる保障を求め続けるために「思い煩い」が生じるのです。神は私たちの生来のいのちがそのような性質をもっていることを十分ご存じで、その必要を満たしたいと願っているのですが、生来のいのちはそのことになかなか気づかず、その渇きの不安のゆえに、自分の力で満たそうとしてますます「思い煩う」ようになるのです。また自分のいのちを満たしてくれるものであれば、何でも神としてしまう弱さをまとっているのが生来のたましいです。そこから偶像礼拝がもたらされてしまうのです。イスラエルの亡国の出来事であったバビロン捕囚は、すべての必要を神が与えると約束されたにもかかわらず、また歴史の中でそのように実際に導いて来られたにもかかわらず、その神を心底信じることのできない人間がもたらした不信仰の痛みです。その痛みは、後の神の民に対して教訓となるためのものでした。

●「思い煩い」の感情による病は、たとえ神を信じている者でもかかる厄介な病です。ある医者に言わせると、多くの病気の原因はこの「思い煩い、心配」から来るストレスによるだそうです。ひとたびこの病にかかるなら、神の処方箋によらなければ癒されることは難しいのです。しかし、神の処方箋はすでにイェシュアを通して明確に与えられています。それは「神の国を求めること」です。換言すれば、「天から下ってきたパンであるキリストのことばを食べること」です。それ以外の処方箋はありません。もし「思い煩い病」が癒されなければ、今日も、明日も、そしていつも、心配して、思い煩って生きる人生を送らなければなりません。天の父の備えられている「霊的な祝福」にあずかって生きることはできないのです。それゆえイェシュアは、「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」と祈るように言われたのです。この日ごとの糧とは、神の国を求めるのに不可欠な神のことばのことです。それを今日も与えてくださいという意味なのです。口から食べる三度の食事を意味するのではありません。これはたましいの領域のことで、イェシュアは御国のことを語っておられるのです。イェシュアの口から語られることばは、「霊であり、いのち」です。イェシュアの語ることばも、そして奇蹟もすべて御国のことであり、そのデモンストレーションに過ぎないのです。ですから、イェシュアのことばを、たましいを通して聞いてはならないのです。霊で聞く、霊で悟ることが必要なのです。

2. 「たましいの喜び」と「霊にある喜び」

●感情の中に「喜び」があります。これについても、イェシュアが「たましいによる喜び」と「霊による喜び」の違いについて語っています。その箇所を見てみましょう。

【新改訳2017】ルカの福音書10章17~22節
17 さて、七十二人が喜んで(χαρά)帰って来て言った。「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」
18 イエスは彼らに言われた。「サタンが稲妻のように天から落ちるのを、わたしは見ました。
19 確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
20 しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶ(χαίρω)のではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい(χαίρω)。」
21 ちょうどそのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。
22 すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。子がだれであるかは、父のほかはだれも知りません。また父がだれであるかは、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかは、だれも知りません。」

●ここでの「幼子たち」とは、イェシュアの弟子たちのことです。弟子たちの喜びとイェシュアの喜びの違いが併記されています。弟子たちの喜びは、『主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。』というものでした。ところがイェシュアは、「霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われました。これはどういうことでしょう。

●弟子たちの「喜び」は目に見えることで引き起こされたものです。そうした「喜び」はたましいに属するものです。ですからイェシュアは、目に見えないことからもたらされる確かな「喜び」にこそ、目を留めるべきことを語られたのです。たましいによる喜びは天気のようにすぐに変わってしまう、はかないものです。確かに、弟子たちは霊的な事柄を目撃して喜んでいるのです。しかしこれは霊から来る喜びではなく、たましいから来る喜びに過ぎないのです。目に見えるものによって、あるいは、耳にすることによって引き起こされる感情はたましいによるものです。たとえどんなに恵まれるようなことを見聞きしたとしても、それによって引き起こされた喜びは霊からのものではなく、たましいからのものなのです。ですから、イェシュアは即座に弟子たちに注意したのです。

●そのあとで、イェシュアが「聖霊によって喜びにあふれて言われた」とあります。つまり「霊による喜び」を御父に対して言い表しています。イェシュアは「あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました」と言われました。「これらのこと」とはどんなことでしょうか。それは「彼らの名が天に書き記されている」という事実です。これは目に見えない事柄です。信仰によって受け取らなければ言えないことです。「あなたがたの名が天に書き記されている」ということを、パウロ流に言い換えるならば、「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されている」(コロサイ3:3)となります。こうした「霊の喜び」は、私たちの生来のたましいが死んでいなければ、言い表すことはできません。

【新改訳2017】コロサイ人への手紙3章1~3節
1 こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
2 上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。
3 あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのち(「ゾーエー」ζωή)は、キリストとともに神のうちに隠されているのです。
4 あなたがたのいのち(「ゾーエー」ζωή)であるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。

●2節の「上にあるものを思う」とは「神の国(御国)を思う」と言い換えることができます。それは自分のたましいがすでに死んでいることを認め、「地にあるもの」から訣別して生きることを意味します。そうした生き方が「霊の中で生きる」ことを意味するのです。種がやがて花を咲かせるように、御国のうちに隠された私たちのいのち(ゾーエー)の種は、キリストの再臨とともに栄光のうちに現れるときに花を咲かせるからです。この信仰によって生きることが、「霊の中に生きる」ことなのです。

●たましいの「喜び」は、状況によっては「悲哀」に変わってしまいます。ですから、「霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とイェシュアが言われたことを正しく理解しなければなりません。霊的な事柄ではあっても、目に見えることで引き起こされた「喜び」はたましいの領域であることが多いのです。むしろ、イェシュアは目に見えないことを「喜ぶ」ことを語られたのです。それは霊から来る喜びです。ですから、私たちの喜びが果たして霊から来ているものなのか、たましいから来ているものなのか、見分ける必要があるのです。見分けることを通して、イェシュアがそうであったように、私たちもますますイェシュアのように霊の領域にある感情を持って生きるようにされるのです。

3. 「麗しさ」(好ましさ)という感性

●最後に取り上げるのは、感情というよりは、感性です。この感性にもたましいの領域と霊の領域があります。雅歌に見られる花婿と花嫁の感性は霊的な領域にあるものです。以下は、花婿が花嫁に対して語っている箇所です。

【新改訳2017】雅歌 4章10節
私の妹、花嫁よ。あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しく、
あなたの香油の香りは、すべての香料にまさっている。

●「香り」の「レーアッハ」(רֵיחַ)と「霊」の「ルーアッハ」(רוּחַ)は同語根です。つまり、ここでの香りという「好ましさ、麗しさ」という感性(感覚)は霊的なものであるということです。私たちの生来の香り(感覚・感性)は神には受け入れられないのです。10節の動詞は「麗しい」(=美しい)と訳された「ヤーファー」(יָפָה)だけです。花婿は花嫁に対して「あなたの香油の香りは、すべての香料にまさって麗しい」と語っています。その香油の香りとは、花婿キリストが与える「聖なる注ぎの油」のことであり、「いのちを与える御霊」のことなのです。この香油の香りこそきわめて甘い香りであり、芳しい香りなのです。この甘い香りはキリストの死と復活によってもたらされる「甘さ」なのです。そのことを話したいと思います。

●キリストを証しするモーセの幕屋では数々の香料(「ベサーミーム」בְּשָׂמִים)が用いられています。これらの香料は神と人との麗しい関係を啓示しています。「麗しい関係」とはどのような関係なのでしょうか。モーセの幕屋において、神は、イスラエルの民によって献げられた数々の香料を用いて「聖なる注ぎの油」と「聖なる香」を作るように命じました。「聖なる注ぎの油」は神の民を聖別するためのもの、「聖なる香」は神に献げるためのものです。つまり双方の香りによって神と人との交わりがなされるのです。このことは非常に重要なことです。それらは「聖なるもの」であり、「霊的な香り」なのです。これはたましい(知・情・意)全体に影響します。神と人との交わりの感覚において、それは生来の感覚における交わりではなく、霊の感覚による交わりです。その霊の感覚とは漠然としたものではなく、明確にキリストの死と復活に基づくものなのです。

(1) 「聖なる注ぎの油」・・神の民を聖別するための香油 

【新改訳2017】出エジプト記30章22~31節
22【主】はモーセにこう告げられた。
23「あなたは最上の香料を取れ。液体の没薬を五百シェケル、香りの良いシナモンをその半分の二百五十シェケル、香りの良い菖蒲を二百五十シェケル、
24 桂枝を聖所のシェケルで五百シェケル、オリーブ油を一ヒン。
25 あなたは調香の技法を凝らしてこれらを調合し、聖なる注ぎの油を作る。これが聖なる注ぎの油となる。
26 そして、次のものに油注ぎを行う。会見の天幕、あかしの箱、 ・・・
29 こうして、これらを聖別するなら、それは最も聖なるものとなる。これらに触れるものはすべて、聖なるものとなる。
30 あなたはアロンとその子らに油注ぎを行い、彼らを聖別して、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。
31・・・これは、あなたがたの代々にわたり、わたしにとって聖なる注ぎの油となる。

●「没薬」と「シナモン」はキリストの死の象徴であり、「菖蒲」と「桂枝」はキリストの復活の象徴です。いずれもそれは甘い香りなのです。これらの四つの香料にオリーブ油が加えられます。「オリーブ油」は「神の霊」を象徴します。これらをミングリングして「聖なる注ぎの油」を作り、幕屋のすべての器具と祭司たちに油注ぎをすることで、それに触れたものはすべて聖とされるのです。この複合された「聖なる注ぎの油」こそが「いのちを与える御霊」(Ⅰコリント15:45)であり、そしてこれが「御子から受けた注ぎの油」なのです。 

【新改訳2017】Ⅰヨハネの手紙2章27節
しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。

(2) 「聖なる香」・・神に献げるための香

【新改訳2017】出エジプト記30章34~36節
34 【主】はモーセに言われた。「あなたは香料のナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香と純粋な乳香を取れ。これらは、それぞれ同じ量でなければならない。
35 これをもって、調香の技法を凝らして調合された、塩気のある、きよい、聖なる香を作れ。
36 また、その一部を打ち砕いて粉にし、その一部を、わたしがあなたと会う会見の天幕の中のあかしの箱の前に供える。これは、あなたがたにとって最も聖なるものである。

●「聖なる香」とは幕屋において祭司が香壇で神に献げるものです。「聖なる香」の成分であるナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香はキリストの死を象徴し、「乳香」はキリストの復活を象徴します。神と人との関係の麗しさは、すべて「死と復活」という「聖なる注ぎの油」と「聖なる香」に基づいているのです。その香りによって甘い霊の交わりが可能となっているのです。私たちはキリストの死と復活による甘い香りなのです。

三一の神の霊があなたがたの霊とともにおられます。

2023.1.22
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