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伝道者の書の瞑想を始めるに当たって

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伝道者の書は「光なき人生の虚無から、まことの光に生きることを指し示す」最高のテキストです。

0. 「伝道者の書」の瞑想を始めるに当たって

ベレーシート

●東京にあるM音大に入学した翌年の5月に私は受洗し、大学にあった「聖書研究同窓会」の夏の合宿に参加し、そこで初めて「伝道者の書」に触れました。まだ信仰生活も始まったばかりで、今から思うと、ほとんどこの書を理解してはいませんでした。しかしこの書は、私にとっては多くの時間を取って学ぼうとした思い出深いとてもなつかしい書です。それから44年後、改めてこの書に向かい合って瞑想することになります。どのような視点からこの伝道者の書を読むべきか、その視点をいくつか自分なりに整理しておきたいと思います。

1. 「永遠のいのちであるイェシュア」をあかしする書として

  • イェシュアはユダヤ人たちに「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(ヨハネ5:39)と述べています。ここにある「聖書」とは「ケトゥーヴィーム」(כְּתוּבִים)のことで、詩篇、箴言、ヨブ記、雅歌をはじめとする「諸書」、あるいは「聖文書」と呼ばれる範疇に入ります。この「伝道者の書」がどのようにしてイェシュアをあかししているのでしょうか。それがこの書を味わう視点になると信じます。
  • この書の1章1節に「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば」とあります。12節にも「伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった」とありますから、それはソロモンのことであると思われますが、同時に、ソロモンはやがて来られるソロモン王に勝るところのイェシュアの型であるとも言えます。というのは、真の伝道者であるイェシュアが再び来られる時にはエルサレムの王として来られるからです。イェシュアは天の御国(メシア王国、ないしは永遠の御国)から遣わされた真の「コーヘレット」(伝道者)と言えます。
  • ソロモンはこの世におけるありとあらゆる経験をした王です。彼は、「日の下」における知恵と知識を用いて永遠に益となることを求めようとしました。ところがその労苦はすべて「空しい」と悟ったのです。これはイェシュアが語った以下のことばと結びつきます。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書6章19~21節
19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

  • ここで語られた重要なイェシュアのことばは、「自分の宝は、天にたくわえなさい」ということです。「天」は神の世界を意味します。「日の下」であるこの世のどんな知恵によっても、「天」における宝を見出すことはできません。ただ、「日の上」である天から下って来られた方こそが、永遠に失われることのない「益」が何であるかを啓示し、それを得る秘訣をも教えて下さっている方なのです。その意味において、ソロモンはイェシュアをあかしする「型」である存在と言えます。
  • ソロモンも「日の上」にある「益」を啓示された者として、伝道者の書の最後の章にそのことを述べています。

【新改訳改訂第3版】伝道者の書12章13節
結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。
神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。


●ただし、この書を記したソロモンは「神」ということばを使っていますが、「主」ということばはこの書の中に一度たりとて使っていません。そのことが意味することは何でしょうか。それは、「主」という方は私たちの方から見出すことのできない方であり、神からの啓示によってのみ知ることのできるお方であることを指し示していると考えられます。この方と出会うことがない限り、「日の下でなされるすべては、結局のところ、すべてが空しく、なんの益もない」ということを指し示しているのです。

●伝道者の書には「益」と訳された「イットゥローン」(יִתְרוֹן)という名詞が10回ほど使われています。これは「伝道者の書」にしか使われていない語彙です。つまりここでの「益」(「イットゥローン」)が意味するものは、「日の下」における財宝に勝る卓越した収益、利益のことです。永遠に失われることのない価値ある「利益」、それは決して「日の下」では得られないことを知った者が、「空の空、すべては空」と総括していることに大きな意味があるのだと思います。

●「空の空、すべては空」のフレーズをイェシュアが使った別の表現をするなら、それはサマリヤの女に語った「この水を飲む人はみな、また渇きます。」(ヨハネ4:13)ということになります。また、伝道者の書の結論的なフレーズである「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」は、「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)というイェシュアのことばに言い換えられます。


2. 神のご計画の「終わり」から「日の下」を鳥瞰する目

  • イェシュアが父からこの世に遣わされたのは、やがて完成される神の永遠の御国の福音を人々に語り、そして奇蹟を行うことでそのデモンストレーションをなすためでした。つまり、神のご計画が実現された「結局のところ」の視点から、語られているということです。そのことを知る者でなければ到底語り得ないことです。それを聞き、見た人々は地的現実の視点からそれを理解しようとしても、なかなか理解できないのです。ですから、イェシュアのことばは聞いて、信じて、従うしかありません。心のへりくだった、心の貧しい者だけがそれを手にすることができるのです。イェシュアも言われました。「心(霊)の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」と(マタイ5:3)。
  • 使徒パウロは「日の下」の知恵を「この世の知恵」と表現し、「日の上」の知恵を「神の知恵」と表現しました(「日の上」という表現は聖書の中にありませんが)。

【新改訳改訂第3版】Ⅰコリント書1章17~21節
17 キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。


●パウロが使っている「知恵」(17節の「ことばの知恵」、19節の「知恵ある者の知恵」と「賢い者の賢さ」、20節の「この世の知恵」、21節の「自分の知恵」)は、すべて「日の下」にある「この世の知恵」のことを意味しています。そして「この世の知恵によっては、神を知ることがない」ということは、「神の知恵」そのものなのだとしています。この「神の知恵」が、永遠に価値のある益を私たちにもたらしてくださるのです。この「神の知恵」は箴言8章に啓示されているイェシュアご自身なのです。

●「神の知恵」と聖書の「光」の概念は同義です。神の光によって「日の下」を見るとき、「空の空、すべては空」ということばが意味することをはじめて理解することができるのです。「日の下」にあるすばらしいものを得るための、ありとあらゆる労苦がいかに空しいかを悟ることができるのです。

●詩篇73篇の作者であるアサフはダビデの幕屋を司る霊的なリーダーです。その彼が神の視点を見失い、この世の価値によって「日の下」を見た時、妬みが起こり、その心は獣のようになりました。もしその心を自分の世代の者に知られたなら、多くの者を裏切り、つまずかせるであろうと告白しています。彼は自分の心のうちにある妬みをどんなに静めようとしてもできませんでした。その彼が「神の聖所に入り」、そこで瞑想したときに、神の光によって「ついに、誇り高ぶる者の最後を悟った」のです。そのことによって、獣のようになったアサフの心は解放されただけでなく、「私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」と告白することができました。最後を知るということは、神の究極のご計画を知ることです。このことが、「伝道者の書」を学ぶ視点でなければならないと信じます。


2016.2.24


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