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何のための(だれのための)労苦か

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伝道者の書は「光なき人生の虚無から、まことの光に生きることを指し示す」最高のテキストです。

2. 何のための(だれのための)労苦か

【聖書箇所】2章1~26節

ベレーシート

1. 「心の中で」(「ベレーヴ」בְּלֵב)

  • 「伝道者の書」にはしばしば「心の中で」というフレーズがあります。それは独白を意味します。「独白」には、「神の独白」と「人の独白」がありますが、いずれも、それは「本音」を言い表わす表現であり、見逃すことのできないものです。「心の中で」という表現が聖書で最初に出て来る箇所は、ノアの洪水の出来事の後の神の独白です。その次はアブラハムの独白です。いくつか見てみましょう。

A. 神の独白
【新改訳改訂第3版】創世記8章21節
【主】は、そのなだめのかおりをかがれ、【主】は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。


●主が「心の中で」と記されているのは、聖書全体の中でこの箇所にしかありません。これは驚くべきことです。なぜなら、主はご自身の心の中にあることはすべて語られているからです。聖書には神のすべての思いが啓示されているということになります。それゆえ、主のことばは真実だと言えます。

B. 人の独白
(1)【新改訳改訂第3版】創世記 17章17節
アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」

(2)【新改訳改訂第3版】創世記 18章12節
それでサラ心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」

(3)【新改訳改訂第3版】創世記 24章45節
私(アブラハムの最年長のしもべ、エリエゼル)が心の中で話し終わらないうちに、どうです、リベカさんが水がめを肩に載せて出て来て、泉のところに降りて行き、水を汲みました。・・・

(4) 【新改訳改訂第3版】創世記27章41節
エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」

(5) 【新改訳改訂第3版】Ⅰサムエル記 27章1節
ダビデ心の中で言った。「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう。」

(6) 【新改訳改訂第3版】Ⅱサムエル記 6章16節
【主】の箱はダビデの町に入った。サウルの娘ミカルは窓から見おろし、ダビデ王が【主】の前ではねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。


●以上、6人の「心の中」のうちを聖書は記しています。人間の「心の中で」起こっている思いは、不信、疑念、殺意、不安、軽蔑、神への願いなどまちまちですが、必ずしも良いと言えるものではなく、言葉では口外できない本心が綴られています。人間が「心の中で」の間違った思い、偽りの安心もそうです。

●イェシュアのたとえ話の中に、ある金持ちの畑が豊作となり、その彼が心の中で言ったことが記されています。「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。・・あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。さあ安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(ルカ12:17~19)と。彼は自分のたましいに。向かって、もう安心だと言い聞かせています。これが彼の本心です。しかしこれは偽りの安心です。自分の安心のために貯めたものが、死に対しては何の力にもならないことを警告しているのです。神の国と神の義を求める者には神がすべての必要を与えて下さるからと約束し、からだのことで心配してはならないとイェシュアは警告しています。


●伝道者の書では、この「心の中で」というフレーズは5回です。以下に見るように、2章(1, 3, 15節)と3章(17, 18節)に集中しています。

① 2章1節
私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。しかし、これもまた、なんとむなしいことか。」
② 2章3節
私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけようと考えた。人の子が短い一生の間、天の下でする事について、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた。
③ 2章15節
私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか。」私は心の中で語った。「これもまたむなしい」と。
④ 3章17節
私は心の中で言った。「神は正しい人も悪者もさばく。そこでは、すべての営みと、すべてのわざには、時があるからだ。」
⑤ 3章18節
私は心の中で人の子らについて言った。「神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。」


●上記のように、「伝道者」(「コーヘレット」קהֶלֶת)は本心をさらしているのです。自分が自由に使える財産を使って快楽を追求してみようと記しています。しかしどんなに快楽を追求してもその行き着く所は死であり、賢かろうが愚かであろうが、みな同じ運命にあることを知ってむなしさから逃れられないことを知るのです。

このように「伝道者」は考えるのです。そして傷つく。余りに正直すぎて傷つくのです。そこが、他の人物と異なっています。


2. 「風を追うようなもの」(「レウート・ルーアッハ」רְעוּת רוּחַ)

  • 風を追うようなものだ」と訳されているフレーズは伝道者の書にのみ使われているフレーズです。以下はその箇所です。
    1章14, 17節/2章11, 17, 26節/4章4, 6, 16節/6章9節の9回。原文では「レウート・ルーアッハ
    (רְעוּת רוּחַ)、直訳は「風の追求・切望」、あるいは「風の連れ合い」とも訳せます。
  • 口語訳は「風を捕らえるようなもの」と訳しています。風は常に気まぐれに吹き、人にはコントロールできません。したがって、それを自分の連れ合い、あるいは、追求・切望の対象とすることは、それに振り回されて終いには疲れ果ててしまうことを示唆しています。

2016.2.26


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