****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

信じる群れとしての教会共同体

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7. 信じる群れとしての教会共同体

【聖書箇所】 4章23節~5章11節

ベレーシート

  • 使徒の働き4章23節~5章11節には、主を「信じる群れ」が、はじめて「教会」ー「エクレシア」ということばで表現されています。正確には「教会全体」(新改訳、口語訳、新共同訳)とあります。つまり、主イエス・キリストを「信じる群れ」-それが二人でも三人であったとしても、「教会全体」(単数)と呼ばれるのです。ちなみに、パルバロ訳は「全教会」と訳しています。
  • 「エクレシア」のヘブル的背景を見るみると、「エクレシア」はヘブル語の「カーハール」(集まり、集い、集会、集団、会衆)の訳語であり、「集まる」「集める」「召集する」という動詞の「カーハル」קָהַלから来ています。従って「教会全体」とは「全会衆」「群れ全体」とも訳せるのです。ローカル・チャーチのイメージではなく、ユニヴァーサル(普遍的)・チャーチのイメージです。
  • ルカはこの初代の「教会全体」の上に、「大きな恵み(カリス・メガス)」(4:33)と「大きな恐れ(ホボス・メガス)」(5:11)が臨んだことを記しています。「大きな恵み」とは新しい共同体としての教会に注がれている特別な神の祝福であり、「大きな恐れ」とは神ご自身に対する恐れです。

1. 主を信じる群れとしての教会共同体

  • 初代教会に臨んだ「大きな恵み」とは、これまでにない新しい「生活共同体」「経済共同体」「運命共同体」「家族共同体」「使命共同体」を一括したところの、すべてを共有する共同体が誕生したことです。ちなみに、ここにある「大きな恵み」という表現はここにしか使われていません。

【新改訳改訂第3版】使 4章32 節、34節

32
信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。
34
彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。

自分たちに与えられているものを神からの祝福として分かち合うことで、すべてを共有にすることのできた共同体です。しかもそれは何ら強制されることなく、全くの自由意思によるものであり、自発的な共有であったことに驚きを覚えます。そこには貧富の差は解消され、「ひとりも貧しい者がなかった」と記されています。心と思いの一致、自己放棄、清貧、必要に応じた分配・・、このような共同体は聖霊によるわざは聖霊によるプロダクトで、決して人間的な努力や思想で造れるものではありません。奇蹟的な共同体です。

  • ルカの福音書における固有のたとえ話の多くはお金の問題にかかわっています。イエスが語られたたとえ話は、富や財産から生じる危険と、それらによって危険にさらされている人々に向けられていました。たとえば、「愚かな金持ちのたとえ話」(12:13~21)は、富により頼む金持ちの心理を見事に描写しています。「求道する金持ちの役人」(18:18~25)はイエスのもとを去りました。「金の魔力から解放されたザアカイ」(19:1~7)に対しては、イエスは「きょう、救いがこの家に来ました」と宣言しています(19:8~9)。また、神に対して最も多くささげたのは金持ちではなく貧しいやもめでした(21:1~4)。これらはすべてルカにしかない記事です。
  • このように、ルカは富(マモン)によってもたらされる人間の普遍的危機について警告しています。富それ自体は罪ではありません。それは神からの賜物であり、正しく管理されなければなりません。なぜなら、罪は富を用いて私たちのうちに貪りを引き起こさせ、私たちの目をくらませ、判断を狂わせ、私たちの生活を支配してしまう力をもっているからです。富は人を利己的にします。たとえば、一度、安楽と贅沢を味わうと、それを失うことを恐れ、失うまいといつも緊張し、心配が絶えなくなります。そして他人に分け与えるよりも、いっそう富に執着するようになるのです。
  • イエスは「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということばできません。」(ルカ12:13)と言われました。神と自分の間に「モノ」(富、お金、財産)が入って来るとき、貪りを引き起こします。その貪りこそ「偶像礼拝」であり、デーモン的なすさまじい力をもっているのです。私たちはこの誘惑に自分の力で打ち勝つことはできません。従って、新しい共同体はこのデーモン的な力に打つ勝たなければなりませんでした。そのために彼らは「大いなる恵み」、メガトン級の恵みが必要だったのです。その「大きな恵み」に突き動かされ、導かれた群れこそ、初代教会の姿でした。

2. 「マモン」の力に呑みこまれたアナニヤとサッピラの夫婦

  • 新しい共同体に加えられていた一組の夫婦が神によってさばかれた事件は、ルカの伝えようとしている「福音」の理解と密接なつながりがあります。それは共同体の中に証しされている「大いなる恵み」を根底から覆す罪の問題でした。
  • なぜ、アナニヤとサッピラは地所を売った代金の一部を「自分のために残しておいた」のでしょうか。それ以外は他の人々と同じことをしてます。

(1)「主を信じた人々」
地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置いた

(2) 「バルナバ」
畑(農園)を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた

(3) 「アナニヤとサッピラ」
地所を売り、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた


  • アナニヤとサッピラの夫婦の根本にある問題点は、神に対する不信です。だれが自分たちの生存と防衛を保障してくれるのかというニーズに対して、完全に神に信頼していなかったという点です。単に、ごまかしたということではなく、神への不信こそ、神を欺き、聖霊を欺くことへと発展しました。神の民がエジプトから脱出して以来、神の民の心配はだれが生存と防衛の保障を与えてくれるのかという問題でした。偶像礼拝の問題は基本的にこの「ニーズ」から起こって来るのです。これはいつの時代においても不変のテーマです。
  • アナニヤとサッピラの事件は、旧約時代からずっと引きずっている問題なのです。生存と防衛の保障を与えてくださる神への信仰と、主イエスの復活を力強くあかしすることは同義であり密接につながっているのです。このことについて私たちは、常に神を恐れなくてはならないのです。

2013.2.8


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