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信じる者に働く神の力

第10日目 信じる者のうちに働く神の力

1:19
また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

καὶ τί τὸ ὑπερβάλλον μέγεθος τῆς δυνάμεως αὐτοῦ εἰς ἡμᾶς τοὺς πιστεύοντας κατὰ τὴν ἐνέργειαν τοῦ κράτους τῆς ἰσχύος αὐτοῦ



はじめに

17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。


  • パウロがエペソの教会の人々に、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、知ることができるように」と、三つのことを祈っていますが、その三番目の祈りが「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを知る」ということです。

1. 使徒パウロの癖 (同義語、類義語の羅列)

  • 使徒パウロの手紙の癖というか、特徴というか、それは、ひとつの事柄をいろいろな言葉で表現し直すということです。たとえば、「神を知ること」、「知恵と啓示の御霊が与えられること」そして、「心の目が開かれること」はみな同じことを言っているのだとお話ししました。
  • また、パウロは、心の目がはっきりと見えるようになって見えるようになるものを三つあげています。チャートでは、三つに分けることができます。

    画像の説明

  • しかし、1の「神の召しによって与えられる望み」と2の「聖徒の受け継ぐべき栄光の富」とは同じ内容であることを前回に学びました。このように使徒パウロの癖というか、特徴は、同義語、あるいは類義語が多いということです。このことを知っておくと、それほど混乱することなく整理して理解することができるようになります。
  • ところで、今回の3の「信じる者のうちに働く神の力」について述べられている19節のみことばも、実は、同義語、類義語の羅列の典型的な例なのです。もう一度、19節を見てみましょう。

    「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」


●「全能」(イスクス)・・その人が本来備えている固有の力、内在的な力を表す。
●「」 (クラトス)・・敵対する力や妨げになる障害に抵抗して克服するような力を表す。
●「働き」(エネルゲイア)・・「エネルギー」の語源で新約では8回でパウロのみ。力の実際の行使や活動を表す。
●「」 (デュナミス)・・一般的な意味の力を表す。立案し、約束し、開始したことを成し遂げる能力を表す。ダイナマイトの語源。

  • カルヴァンは、「全能」(イスクス)は根の部分、「力」(クラトス)は幹の部分、「働き」(エネルゲイア)はその果実だとその関係を説明します。とすれば、「神のすぐれた力」とはなにを意味しているのでしょうか。それは、私たちを世界の基が置かれる前から選び、神の子とし、やがては御国を受け継がせるという望みの実現に至るまで、そのすべての計画と約束の完遂される力(デュナミス)と理解するのがよいと思います。つまり、信じて救われている者たちに今働いている神の御力のことです。「その力はいかばかりか」と語っているのです。
  • 天地創造の力や摂理の力は、私たちが信じる、信じないは関係ありません。神の救いの力は、相手がどのように信じて受けとめるかどうかが関係してきます。
  • ローマ書1章16節には有名なみことばがあります。そこにはこうあります。「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力(ダイナマイト)です。」「信じる者のうちに働く神の力」―それは神のダイナマイト、どんなダイナマイトかというと、「救いを得させる」ダイナマイトだという。だれにそんな力を与えるのかというと、「信じるすべての人に」とある。「信じるすべての人」とは、特別な人ではなく、信じる者がだれでも、例外なく経験できるということです。パウロの言う「信じる者のうちに働く神の力」とはどのような力なのでしょうか。パウロはその力を知ることができるようにと祈っているのです。それを今朝、考えてみましょう。

2. イエスが驚嘆された信仰

  • 信仰は神の力を知る通路だといえます。電気のことを考えてみてください。発電所で得た電気のエネルギーは電線をつたわって、それぞれの地域に、そしてそこに住む家々にいき、家のコンセントにコードを差し込むことによってエネルギーを得ることができます。そのエネルギーは熱であったり、光であったり、動力となったりしてて働きます。
  • 神の全能の力も、私たちの信仰という通路を通って、ひとつの力となります。それはある行動を促したり、思いや想像を越えた出来事(奇蹟)を引き起こしたりします。困難な問題が解決したり、病が癒されたり、私たちの心にある心配や不安に変えて平安をもたらします。これは信仰によって、神の全能の力が働いたからです。パウロは教会につながる一人一人がより多く、豊かに、神の全能の力の働きを知ることができるように、祈っているわけです。そしてそれは、エペソの主にある聖徒たちのみならず、今日のすべての聖徒たち(つまり、私たち)にその力を経験してほしいと願っているのです。
  • エペソという町は、魔術、オカルト、占いという世界であり、多くの者たちがその支配の中に閉じ込められていました。しかし、パウロは神の力によって霊的な戦いをして、人々を悪霊の支配から解放しました。神の全能の力が働いた結果、エペソの町に強力な教会が打ち建てられました。神が変わることがないように、神の全能の力も変わることなく、今も存在しているのです。ただ、それを引き出す信仰という通路を必要としているのです。
  • ところで聖書の中には、そうした神の全能の力の働きを経験した人たちが多く見られますが、今回は、特に「イエス様が驚かれたほどの信仰をもった人」を見てみたいと思います。イエス様が特別に驚くほど、イエスの心を強烈に動かした人がいました。それはローマの百人隊長の信仰です。

(1) 百人隊長の信仰

  • イエス様が驚かれたのは百人隊長の信仰でした。彼は異邦人ですが、本来神の民であるイスラエルの中でさえ、この百人隊長のような信仰を見たことが無いとイエス様が言ったほどの驚きだったのです。その信仰とはどういうものだったのでしょうか。
  • その前に、マタイの福音書には、百人隊長の話の前と後にも奇蹟の記事が記されています。前の奇蹟はこうです。ひとりの「らい病人」(ツァラート)がイエスのもと来て、ひれ伏して言いました。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われました。すると、すぐに彼のらい病はきよめられたのです。当時、「らい病」は最も忌み嫌われた不治の病でした。ですから、この病気にかかった人は、家族からも、社会からも隔離されて生きなければなりませんでした。どんな人でも、すべてのかかわりから断ち切られたのです。いわば、生きながらにして死んだ者同然でした。そんな人がイエスのもとに来て、「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります」と言っていやしをもとめたのです。勇気のいる行為でした。だれもさわることもふれることもなかったらい病人に、イエスは手を触れ、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われたのです。「わたしの心」とは、病や悩む者、疎外された者をあわれむ心です。このらい病人はイエスがそのような方だと信じて「主よ、お心一つで私をきよめることができます。」と信じて、イエスのもとを訪れたのです。すばらしい信仰です。しかし、イエスは特別に驚いてはおられません。
  • 後の奇蹟は、弟子のペテロの姑が熱病で床についているのをご覧になって、イエスが直接手を触れられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなしたとあります。ここも、らい病人と同じように、イエスがその病人のもとにきて、直接、手を触れていやされたのでした。前の記事も後の記事も、直接、イエスが触れています。
  • ところが百人隊長の場合は違います。彼自身が病気というのではなく、彼のしもべが中風になり、家で寝て、ひどく苦しんでいるのを見て、彼がイエスのもとに行って懇願しています。この百人隊長は自分のしもべ(奴隷)のために、わざわざイエスのもとを訪れたのです。
  • 当時のしもべ(つまり奴隷)は、物と同じで人格的に扱われることはありませんでした。使いものにならなければいつでも捨てて代わりのものを使うといった、現代の使い捨てと同じ感覚でした。そんな「しもべ」のためにわざわざ自分がイエスのもとに行って懇願したのです。ですから、この百人隊長はすごい隊長だといわざるを得ません。しかし、このことでイエスが百人隊長のことをほめているのではないのです。彼の信仰に驚いているのです。その信仰とは何でしょうか。

マタイの福音書8章8~10節
8:8「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、わたしのしもべは直りますから。」8:9と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」 8:10 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。

(2) 権威とことば

  • ここには「権威とことばの関係」が見られます。軍隊においては、上官の命令は絶対です。戦争映画など見ていますと、時に、上官と下の兵士と意見が対立する場面がありますが、軍隊の場合には、その時、上官が「このようにせよ。これは命令だ。」と言えば、それで決着です。命令された方は了解するほかありません。百人隊長は軍人ですから、そのような世界に生きていたわけです。
  • 軍隊でなくても会社などでも大勢であれこれ議論しても決まらなかったことが、有力な人や権威ある人の一言でそのまま決まってしまうことがあります。「鶴の一声」です。鶴は鳥の中でも貴重な鳥とされていますし、鳴き声もひと際他の鳥に比べて大きい。
  • 人間の言葉ですらそういう力を持っているとすれば(もちろん人間の言葉の場合には限界がありますが)、神のことばには完全な力があります。神がこうなると言えば必ずその通りになるのです。神がこうすると言えば必ずそうなさるのです。ですから、百人隊長は、「ただ、おことばをいただかせてください。」と言っています。彼は、イエス・キリストのことばの持つ力、みことばの権威を信じたのでした。
  • この百人隊長の信仰こそ、信仰の本質を備えた信仰、これこそ信仰という、私達の目指すべき信仰なのです。彼の信仰が決してありふれたものでなく、イエス様を驚かせたという意味がわかって来るでしょう。彼は本当の信仰ということを知っていたすごい人なのです。キリスト教というのは、御言葉の宗教です。神の御言葉には力があると信じています。
  • イザヤ書55章11節
    「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させる。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰ってはこない。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」

(3) みことばを信じて生きる

①神の約束のみことばを握ること
②みことばを心にたくわえること
③神のみことばに立って実践すること

  • 信じる者のうちに働く神のすぐれた力を、日々、知ることができるように。救いと導きと守りの確信、神の子どもに与えられている祝福などを、信仰によって味わっていきたいと思います。日毎に、また折々に、「主よ、おことばをいただかせてください」、あるいは簡単に、「主よ、みことばをください」と祈る心の構えを持つ者となりたいと思います。

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