****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

信仰による勝利

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3. 信仰による勝利

【聖書箇所】創世記 14章1~24節

はじめに

  • 旧約聖書の創世記からアブラハムの生涯を取り上げて学んでいますが、今回はその第三回目です。12章、13章のそれぞれの章でアブラムは信仰の試練に遭遇しました。12章ではアブラムが神からの召しに従ったものの、第一の試練にぶつかりました。その試練とはパンの問題です。パンは生存を保障するものです。はたして、信仰だけでパンが食べられるのかどうかという試みです。
  • ある床屋の主人が福音を聞いてイェシュアを自分の救い主だと信じたそうです。ところが、すぐにこの問題にぶつかりました。イェシュアを信じたからには、日曜日の礼拝を守りたい。とはいえ、床屋は昔から月曜日が休みと決まっている。しかしその主人は、床屋にとってかき入れ時の日曜日を休みにして、神第一で礼拝を守ろう、必ず、神は責任を取ってくれるに違いないと確信して、日曜日を休みにする決心をしたそうです。そのために経済的に困ったかというとそうではなく、むしろ神はその床屋の主人を祝福してくださって、経済的に何ら困るようにはさせなかったという話を聞いたことがあります。アブラムの場合はかなり厳しい飢饉という状況の中で、この試みを受けたわけです。アブラムは神の御声を聞かずにエジプトに下りました。確かに、そこでの生活は豊かになりましたが、神からの使命から逸脱し、自力ではみはや回復できない状況に陥ってしまいました。「しかし、主はアブラムの妻のことで、パロとその家族をひどい災害で痛めつけた」(17節)ことて、彼は再び神の召しに立つことができたのでした。この失敗を通してアブラムは多くのことを学んだのです。
  • 13章においてはアブラムとの甥のロトとの間に一つの争いが生じました。この問題にどのように対処すべきか、これが彼に対する第二の信仰の試練でした。第一の試練で彼は失敗しましたが、第二の試練では勝利を得たのでした。彼は何としても争いを避けるために、自分よりも年下のロトに選択の優先権を与え、自分は謙遜にも身を引いたのです。そして、彼は神が自分のために備えておられるものを、たといそれが人間的にはどのように見えたとしても信仰によってそれを受け取ろうとしたのです。案の定、アブラムはより確かな者を神からいただくことができたのでした。
  • 今回の14章においては、アブラムが第三の試練に遭遇したことが記されています。アブラムが14章でぶつかった試練とは何でしょうか。はたしてアブラムはその試練に勝利できたのでしょうか。信仰の道、信仰の歩みというものは、そのままでは決して実を結ぶことはできません。この世におけるさまざまな誘惑に打ち勝ち、さまざまな試練を乗り越えてはじめて成熟したものとなっていくようです。ですから、新約のヤコブの手紙にも「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときには、この上もない喜びと思いなさい。」と記されています。ここでアブラムがぶつかった試練が何であるかを考える前に、少し、14章に記されている出来事に目を向けてみたいと思います。

1. ロトの災禍と救出(1~16節)

画像の説明

  • 1節に多くの国の王の名前が登場しています。ごちゃごちゃして分かりにくいのですが、簡単に言うと、カナン地方、それも南に位置する五人の王(ソドムとゴモラの王も含みます)が、それまで12年間にわたってメソポタミヤの王ケドルラオメルに毎年貢物を納めてきましたが、13年目に反旗を翻したために、メソポタミヤの連合軍が攻め寄せて来て、ソドムとゴモラに住む人々をとりこにし、彼らの全財産のすべてを奪い去って行ったのです。つまり、ソドムに住んでいたロトとその家族、そしてその全財産も奪い去られたのです。
  • 一人の逃亡者が、ヘブロン(マムレの樫の木のところ)に住んでいるアブラムのところへ逃げ延びて、この災禍を伝えました。それを聞いたアブラムはどういう態度をとったでしょうか。「そんなところへ行くから、こんなことになるんだ。自業自得だよ。そもそもそんなところへ行くべきではなかったんだ」と言ったでしょうか。私たちであったらそう言ったかもしれません。しかしアブラムは決してそのようなことは言いませんでした。アブラムの生涯で彼が人と戦って、奪われたものを甥のために取り返したのは、この14章の出来事だけです。アブラムは自分のいのちの危険をも顧みず、いのちがけでロトとその財産を取り返したのでした。

2. アブラムに対する信仰のテスト(第三の試練)

  • さて、ロトがソドムに住んだばかりに戦いに巻き込まれ、財産のすべてを奪われたことを聞いたアブラムは、身の危険を冒してまでもそれを取り戻すという勝利を勝ち取りました。ところが、その後で私たちが学ばなければならない第三の試練が待ち受けていました。それは、大勝利なるがゆえに高慢になってしまうという誘惑です。
  • 第三の試練(信仰のテスト)は、大勝利の後に、大成功の後にやって来たのです。アブラムが敵を打ち破り、捕虜となったロトを敵の手から取り返したとき、そのとき彼が最も傲慢になりやすい時だったのです。彼は「自分の家で生まれたしもべ」のわずか318人だけで、メソポタミヤの連合軍に襲いかかり(おそらく夜襲)、敵を追い散らし、奪われたすべての財産を取り戻したのですから、少々、鼻高々になったとしてもおかしくありません。戦いに勝利した後、アブラムを出迎えた二人の者がおりました。ひとりはソドムの王であり(17節)、もう一人はシャレム(今のエルサレム)の王であり祭司であるメルキゼデクでした。この二人の出迎えは非常に対照的です。
  • まず、ソドムの王を見てみましょう。21節にこう記されています。「ソドムの王はアブラムに言った。『人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。』」と。ソドムの王は捕虜となった人たちを返してもらえば、アブラムに全部の戦利品を差し上げますと申し出ました。この申し出はソドムの町の全財産を手にするチャンスが与えられたことを意味します。特に、アブラムはそんな申し出を受けなくても、それらのものを自分のものにできる立場にいたわけです。もう一方のメルキゼデクはどうでしょうか。彼はアブラムのためにパンとぶどう酒を持って出迎えました。これはおそらく戦いの後であったので、アブラムを元気づけるためであったろうと多くの注解書に書かれています。そしてアブラムに言ったのです。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」(19~20節)と。これは「思い上がらないように気をつけなさい。あなたの手にあなたの敵を渡されたのは、いと高き神である。その方は天と地を造られた方であり、その方に栄光を帰しなさい。」という意味でメルキゼデクが語ったのです。
  • ソドムの王の申し出は、「この勝利はあなたの手柄なのですから、奪い返したものを戦利品としてお取りください。ただし、人々だけは私に返して下さい」と条件をつけたのです。ソドムの王の申し出には、この勝利の背後に神の存在を認めていないばかりか、うっかりすると、ソドムの王がアブラムに分け与えているような感じさえ受けます。これは後に、イェシュアに対してサタンが誘惑したことと非常に似ています。アブラムはソドムの王に対してどのように答えたでしょうか。アブラムは以下のことばで神に栄光を帰したのです。

【新改訳改訂第3版】創世記14章21~24節
21 ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」
22 しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、【主】に誓う。
23 糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。
24 ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」


  • 不思議なことですが、アブラムがソドムの王の申し出を聞く前に、メルキゼデクに会ったことは、神の先行的な恩寵ではなかったかと思います。というのは、メルキゼデクから「あなたが敵に勝利できたのはいと高き神のおかげですよ」と言われたことが、アブラムが誘惑に陥らない心の備えになったと言えるからです。今日においても、主は私たちが大きな誘惑にあう前に、いろいろな形で、あらかじめ警告しておられるのではないでしょうか。特に、主は神のみことばである聖書を通して警告しておられます。ですから、私たちはいつもみことばを学び、それを心に貯えておくことが大切です。イェシュアもサタンの誘惑に対して、「・・・・」と書いてあるという言い方で退けておられます。
  • 世界の有名な伝道者であるビリー・グラハム師は「七つの恐るべき罪」という本を書いていますが、その七つの恐るべき罪の中には、怒り、妬み、不品行などが挙げられていますが、第一のものとして挙げられているのは「高ぶり」の罪です。箴言の中にも「高ぶりは滅びに先立つ」とあります。これが他のすべてに先行する罪です。神はこの高ぶりの罪を憎まれ、忌み嫌われます。高ぶりはいろいろな形を取ります。たとえば・・・

    (1) 霊的な高ぶり・・神などいなくても、自分の力で自立することができると考えること。
    (2) 知的な高ぶり・・才能が神によって与えられていることを忘れ、無学な者に対して大柄な態度を示す。
    (3) 物資的な高ぶり・・羽振りのいい生活を人に見せつける。
    (4) 社会的な高ぶり・・権力を得たことで思いのままにふるまう。

  • このように高ぶりはいろいろな形を取りますが、どのような高ぶりであっても、神が最も嫌われる罪なのです。
  • 初代教会の歴史の中にヘロデ王という人が登場しますが、彼は実に多くの悪事を働きました。主の弟子であったヤコブを殺し、ペテロを牢に入れ、彼が牢から逃げたということで16人の番兵を処刑しました。自分の保身のためなら何でもするという人間でした。ところがそんな彼が突然神にさばかれて死んだのです。今述べたような罪が彼を死に追いやったのかというとそうではありません。多くの人から見れば、それほど悪いと思えないようなことが、さばきの死をもたらした理由だったのです。その理由とは「高ぶり」です。彼が人からあがめられるのに任せ、おべっかのことばを退けようとせず、あたかも自分が人々の言われるままに、神になったかのように思ったことが恐るべきさばきの理由だったのです。聖書ははっきりと「ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである」と記しています。当時、虫に噛まれて死ぬというのは、最も屈辱的なことであったようです。
  • 私たちも人から度を過ぎた誉め言葉に出会う時、気をつけなければなりません。もちろん誉められた時には素直に感謝すればよいのですが、高慢になってはいけないのです。「今あるのは、ただ神の恵みです。」「すべては神の恵み」と言える者でなければならないのです。信仰の第三の試練に対して、アブラムは合格できたのです。

2017.6.7


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