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信仰による旅立ち

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1. 信仰による旅立ち

【聖書箇所】創世記 12章1~20節

はじめに

  • 今回からしばらくの間、創世記12章から25章までの14章分にわたって書かれているアブラハムという人物を取り上げて、信仰によって生きるということをともに考え、ともに学んで行こうと思います。
  • アブラハムは神の民であるイスラエルの祖先であり、人類全体の信仰の父(信じる者の祖先)と言われている人物です。言うまでもなく、アブラハムは最初の信仰者ではありません。すでにアベルやエノク、ノアといった信仰の人々がいました。しかし、アブラハムは新約聖書のローマ人への手紙4章11節で、「信仰によって義とされる、すべての信じる者の父」という称号が与えられているほどに、他の人とは異なる点があったのです。というのは、アブラハム以前にいた人々も確かに神を信じたのですが、どちらかというと、彼らは自分自身のために信じる信仰でした。しかしアブラハムの信仰は、彼自身とその家族のためだけでなく、遠い将来に至るまでのアブラハムの血肉にある子孫のみならず、霊的な子孫のすべてを包み込む使命的信仰であったのです。
  • アブラハムは今から四千年前の人物でありながら、すべての時代のすべての信仰者の生き方に大きな指針を与えてくれる生涯を過ごしました。とはいえ、彼も私たちと同じようにさまざまな欠点や弱さを持ち、しばしば迷い、悩み、疑い、絶望に陥りました。にもかかわらず、それ以上に、私たちが見習うべき模範と仰がれるような偉大な信仰を彼の中に見ることができるのです。そこで今回は、アブラハムの信仰による旅立ちと、すなわち、信仰の冒険の出発点がどのようなものであったかを見ることにしたいと思います。

1. アブラムの召命

(1) 「あなたは」

  • 12章1~5節にはアブラムの召命の出来事が記されています。キリスト教信仰において、「召命」ということは非常に重要です。「召命」という言葉が難しいかもしれません。召命とは、「神がご自身のご計画のために、ある人を呼び出すこと」「個人に与えられる神からの使命、ご計画」と言い換えることができます。
  • 主がアブラムに対して語りかけたことばを見てみましょう。そこには「あなた」ということばがいったいいくつ登場しているでしょうか。

【新改訳改訂第3版】創世記12章1~3節
1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたはあなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」


  • 「あなた」ということばが繰り返し登場しています。これは何を意味しているでしょうか。それは私たち一人ひとりに対する神のご計画や使命の始まりは、個人的であるということです。
  • 私が神学校にいた時、この「召命」「召命感」ということがいつも問われました。この召命が明確でない場合には「基礎科」どまり(一年間)の入学が許可されましたが、明確な場合には「本科」(四年間)の入学が認められました。この区分けはある意味とても重要であることを次第に悟りました。「なぜ、自分はここで学んでいるのか」という思いに対して、もし明確な神の語りかけを聞いていなかったとしたら、おそらく神学校での厳しい訓練に耐えることはできなかったと思います。毎朝、早天祈祷会の後の草むしりの奉仕、たとえ試験の前の日であっても、片道1時間半かけて母教会の夜の祈祷会にも出席し、はらわたを取らずに油で揚げただけのサンマを食べながら、何でこんなことをしなければならないのかと思って、途中で投げ出していたかもしれません。私は以前、折角入学した音楽大学を途中で投げ出した経験がありました。教会の牧師から「投げ出さないで、大学をきちんと卒業しなさい。」と忠告されましたが、ほとんど耳を貸しませんでした。ところが神学校では大学の時とは違って、途中で投げ出すことなく、そこを卒業することができました。それは、私が神学校に入る前に、はっきりと神さまの御声を聞いたからでした。
  • 「あなたは・・しなさい」という神の声は、自分に向けられたものであって、人は関係ありません。かつて、イェシュアの弟子であるペテロがイェシュアからこう言われました。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」と。するとペテロは自分のそばにいたもう一人の弟子を見ながらイェシュアに「主よ。この人はどうですか」と言いました。するとイェシュアは「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」と言われたのです。創世記のアブラムも主から「あなたは・・・を出て、わたしの示す地へ行きなさい。」と言われたのです。それはアブラムに対する神のご計画があったからです。自分の周囲の人はどうであろうと、またどう見ようと、「あなたはどうなのか」と神から問いかけられるのです。信仰とは、神である主が「あなた」と呼びかける「私」の、主に対する応答なのです。このように、私たちひとりひとりの行動や態度において重要なことは、周りの人がどうこうではなくて、「神があなたに対して何と語られたのか、語りかけておられるのか」ということなのです。
  • 聖書の神は、私たち一人ひとりに対して、ご自身のご計画を持っておられ、一人ひとりに対して「あなた」と個人的に語りかけられるお方であるということです。アブラムはどのような神の召しの声を聞いたのでしょうか。先ほどは「あなた」ということばに注目しましたが、ここでは「祝福」ということばに注目してみたいと思います。

「1あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」


(2) 「祝福する」ということ

  • 主はアブラムに対して、主に従うなら祝福を与えることを約束しています。ここで主は三つの約束をしまいます。
    ①2節「あなたを大いなる国民とする」
    ②2節「あなたの名を大いなるものとする」(あなたの名は祝福となる)
    ③3節「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」
  • 聖書には他にも「祝福」ということばがたくさん出てきます。「祝福」の約束は、商売繁盛、家内安全といった、ご利益とは異なります。どこか違うかと言えば、聖書が「祝福する」という場合には、個人の利益を越えた、よりグローバル的なかかわりを有するのです。つまり、「あなた」が個人的に神に従うか否かは、単に個人的な事柄ではなく、自分以外の者も含まれた事柄であり、それは家族であったり、地域であったり、世界であったりするのです。ですから、そこに大きな責任と使命とが含まれています。そのために起こってくる苦労も含まれるのです。しかし同時に「大いなる光栄」もあるのです。
  • 上記に挙げた三つの祝福の約束は、みなアブラムの肩にかかっているのです。彼の信仰の従順がすべての人に通ずるものとなるのです。つまり「父」としての存在的使命です。ですから、しっかりしなければならないのです。アブラムが神とのかかわりの中で正しく歩むことによって、すべての人が祝福にあずかる道が開かれるのです。そのような責任ある立場に歩むべく選ばれたのがアブラムだったのです。
  • 私たちに与えられる祝福ということもこういうことです。個人の利益にとどまらない、自分を越えて、自分を通して流れていく神の祝福、これが聖書が言うところの「祝福」です。私たちはしばしば「私を祝福してください。」という祈りをします。しかしそこには大きな責任を引き受ける課題が伴うということを忘れてはなりません。ここが、ご利益宗教と大いに異なる点です。

2. 信仰の最初の試練(パンの問題)

  • これまで述べたような前提のもとに、「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた」(4節)とあります。短いことばですが、とても重みのある決断です。自分の父の家から離れるということは、ある意味では、それまでの生存と防衛の保障から離れて、主にのみ信頼して歩むことを意味します。アブラムは主の約束を信じて、決然とした態度でカナンの地に向かったのです。
  • 人生は賭けであると言われます。神に賭けるか、それとも自分に賭けるか、二つに一つの選択しかありません。アブラムは神に賭けたのです。ヘブル人への手紙の著者は「信仰によって、アブラハムは、・・彼はどこに行くのかを知らないで、出て行きました。」(11:8)と記しています。私たちはいつも自分の目に見えるものを基準としているために、本当に大丈夫だろうかと迷ってしまいます。しかし私たちの必要を一番知っておられるのは、私たちをお造りになった神です。神は私たち一人ひとりにふさわしいご計画をもって導いてくださるのです。その神を信じて従っていくなら、たとえ行き先がわからずとも、必ずあとで神に感謝することができるはずなのです。
  • アブラムが一大決心をしてカナンへ旅立ったということは、これまで求道していた者がはっきりと信仰を言い表わして、洗礼を受け、神とともに歩む道に踏み出したことに相当します。アブラムはその時、75歳であったと記されています。彼の生涯は175歳までですから、今日の人の年齢に換算するならば、壮年期30代の後半位だと思います。アブラムは、見えるものによってではなく、ただ主のみことば(約束のことば)だけを頼りにして、旅立ったのでした。そのとき、「ロトも彼といっしょに出かけた」とあります。はたしてロトは自分の決心でいっしょに出かけたのか、寄生虫的信仰でついて行ったのか、非常に微妙なところです。しかしその微妙さも後ではっきりする時が来るのです。
  • さて、アブラムが行ったカナンの地はいったいどのようなところであったのでしょうか。聖書は6節で「カナンの地」がどのような地かを言い表わしています。「シェケムの場」とあります。それは「シェケム」にある聖所、すなわち宗教活動がなされているところという意味です。そこには「モレの樫の木」がありました。「モレ」とは「うらない」という意味で、「樫の木」は別訳で「テレビンの木」のことです。その木は15メートルにもなる高木です。日本でも立派な杉の木には必ずしめ縄が張られるかけられるようなものです。神に示された地とは偶像礼拝が行われていたところだったのです。そんな彼に、神は「この地こそ、あなたの子孫にわたしが与えようとしている地である」と言われたのです。土地の賦与の約束はこの箇所で初めて語られています。
  • 信仰生活にはっきりと踏み出す。そこに至るまでも大変なことですが、受洗した後の信仰生活の方がもっと大変かもしれません。アブラムとて同じでした。今から四千年前の出来事ですが、今日に生きる私たちと何ら変わらない共通の普遍的問題です。その問題というのは、「パンの問題」です。つまり、生活の問題です。
  • 私が神学生の時に、訪問伝道をしていて、ある方から「私ら宗教やってるヒマなんかないよ。宗教やっててご飯が食べられるか」と叱られました。実際、神に呼び出されたアブラムが最初にぶつかった問題は「パンの問題」だったのです。
  • 一時、日本も、近い将来に食糧危機を迎えることになるだろうと言われました。食べ物が無くなる状態を戦後生まれた者には想像がつきません。戦争の記録で、食べる物が無くて戦友の肉を食べたという話を聞いたことがありますが、どんなに人間が理性があると言っても、そのような限界状況では理性を働かせることは無理のようです。互いに信頼し合っている友人だと思っていても、裏切ったり裏切られたりするのが人間です。ですから、世の中で信じられる者は自分しかいない、と考える人があっても不思議ではありません。考えてみると、人間は動揺しやすい不確かな弱い存在です。信仰生活においても、順調に行っている時には神に信頼して歩みますが、何か不安なことにぶつかると、慌ててしまって、不確かな自分の理性に頼って判断し、失敗してしまうことがよくあります。信仰の父と言われるアブラムでさえも、「食べること」で失敗してしまったのです。その失敗とは、
    ① 食べることで心配になり、神の導きを求めなかった。
    ② エジプト人を恐れて、自分の妻サライが自分の妹だと嘘をついた。
  • いずれも、それは自分の命にかかわる問題でした。すべてはアブラムの思惑どおりに事が運びました。王の手下どもの進言によって王はサライを召し入れるのですが、その結果、アブラムは彼女の兄ということで優遇され、多くの財産を持つようになりました。命が助かっただけでなく、エジプトの社会の中でそれなりの立場と物質的な繁栄を見ることができたのです。しかしそのような表面的な繁栄にもかかわらず、彼の霊的な生活は重大な危機を迎えることとなったのです。つまり、主の約束はどうなってしまうのか。もはや、アブラムの力ではこの危機から脱出して本来の使命に立つことは、不可能な状況となってしまったのです。

3. 神の介入による召しの回復

  • パンを求めるためにエジプトに滞在したアブラム。おそらく彼の頭では一時的な滞在としてしか考えていなかったはずです。しかし妻のサライが王に召しかかえられたことで、彼は莫大な財産を手に入れました。しかし、そのことで彼に対する主の召命は尽きようとしていました。ところが神は、サライのことで、王の家をひどい災害で痛めつけたのです。どんな災害なのかは具体的には記されていませんが、いずれにしても神のあわれみによる介入です。パロにとってはお気の毒な事態ですが、アブラムに対する神の約束は決して変わらないという主のあわれみのデモンストレーションでした。弁解の余地がないほどにアブラムは間違いを犯しましたが、17節冒頭の「しかし、主は」という神のあわれみのゆえに、アブラムは自分の召しに立ち返ることができたのです。この「しかし、主は」の一句の重みをかみしめたいと思います。

2017.6.5


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