****** 詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。******

信仰の使徒であるイエス

第7日「信仰の使徒であるイエス」 

私たちを信仰に導く神から遣わされた完全な使者

はじめに

  • 「大祭司であるイエス」、「救い主であるイエス」、あるいは「王であるイエス」という表現は目にしますが、「信仰の使徒であるイエス」という表現は珍しく、新約聖書ではこの一箇所だけです。「信仰の使徒であるイエス」とはどういう意味でしょうか。
  • まず「使徒」ということばを理解しましょう。「使徒」とは〈ギ〉アポストロス。「使者,大使,特別な使命を帯びて派遣された者」という意味で用いられる語です。使徒となったパウロは自らの使徒職を「人間から出たことでなく,また人間の手を通したことでもなく,イエス・キリストと,キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです」とはっきりと宣言しています(ガラテヤ1:1)。ですから、「使徒であるイエス」とは神から特別な使命を帯びて遣わされたイエスということになります。では「信仰の」とついているのはどのように理解したらよいのでしょう。そのなぞを解くために、もう一度、へブル人への手紙の鍵語を確認しておきたいと思います。
  • 12章2節の前半「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」にある鍵語は「イエスから目を離さないでいなさい。」です。この「イエス」がどういう方かを説明しているのが、「信仰の創始者であり、完成者である」ということばです。イエスのことを「信仰の創始者(パイオニア、導き手)であり、完成者であるイエス」と表現しています。柳生訳では「我々の信仰を初めから終りまで支えていて下さるイエス」と訳しています。つまり、私たちに神を信じることを教え、その信仰を成熟へと導く先導者、あるいは指導者という意味です。言うならば、神(御父)を信じるとはどういうことかを、徹頭徹尾、完全な形において私たちに見えるようにしてくれた方、それがイエスという方なのだと理解してよいと思います。
  • 12章2節の鍵語と類似した言い回しが、実は、3章1節後半のことばです。そこには「私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」とあります。少し比べてみると、「信仰の創始者であり、完成者であるイエス」が、3章では「信仰の使徒」となっています。おそらく同じ意味と考えてよいと思います。
  • また12章の「イエスから目を離さないでいなさい」という表現が、3章では「イエスのことを考えなさい」となっています。「考える」ということばは、イエスの言われたこと、イエスがなされたことを「いつも注意深く、心に深く思いをはせる」という意味です。「イエスから目を離さずに、イエスを仰ぎ見つめながら、たえず自分のまなざしをイエスに固定する」ことと同じです。
  • イエスとどんなかかわりをもっているのか、このことがクリスチャンにとって重要な問題なのです。他のことに目をそらしやすい私たちです。イエスから目を離していながら、神が約束しているものを受け取ることは何一つできません。神の祝福を得たいと願うならば、神が私たちのために特別に遣わされたイエスといつも豊かなかかわりを築いていなくてはなりません。

1. 神の家を建てる忠実な使徒

【新改訳改訂第3版】ヘブル人への手紙3章1~6節
1 そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
2 モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。
3 家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。
4 家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。
5 モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。
6 しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。

  • モーセは神の家のために忠実な神のしもべでしたが、イエスは御子として神の家を忠実に治められる方です。つまり、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるにふさわしい方です。

「3章1~6節までのより詳しい註解」


2. きょう、御声を聞くならば

【新改訳改訂第3版】ヘブル人への手紙3章7~9節
7 ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、
8 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。
9 あなたがたの父祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。

  • 「きょう」というのは、文字通り、[きょう]です。「今」、ここに神を礼拝しに来ている「今」です。明日明後日のことでなく、今まさしくこのところで、という意味です。また、いつか、次の機会に、といった曖昧なことではなく、「今」このとき、確かな決断を迫ることばでもあります。ちなみに、旧約の申命記はモーセの神の民に対する訣別説教ですが、そこにも、「きょう」ということばが強調されています。
  • 御声とは神の声のことです。みことばを通して私たちの内なる霊に語りかける神の声です。あるいは「信仰の使徒であるイエスの声」、あるいは聖霊の声と言ってもよいかと思います。どのような表現であったとしても、神の声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない」ということです。
  • 3章、4章にはこの「きょう、もし御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない。」というフレーズが3回出てきます。もし、心をかたくなにせず、信仰をもって聞き従うならば、神の安息を得るというのがへブル書の著者が強調しようとしていることなのです。神の安息とはへブル語のシャーロームに該当します。シャーロームは神の祝福の総称を意味します。ですから、単なる安心とか、ほっとするといった意味ではありません。「きょう、もし御声を聞くならば、あなたは、神の安息(シャーローム)を経験する」のです。

3. 心をかたくなにした出来事(マサとメリバ)

  • ところで、「きょう、もし御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない。」というフレーズは、実は詩篇95篇から引用されています。この詩95篇というのは、旧約の人々が礼拝というものをどのように考えていたかということを知る重要な詩篇です。
  • 前半はしばしば礼拝の招きの詞として用いられます。
    「来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。」
  • しかし、後半にある「厳しい警告」の部分、つまり「きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」という双方があって、はじめて礼拝が成立するということを教えています。礼拝は、「さあ、主に向かって。喜び叫ぼう」「来たれ、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前にひざまずこう。」という面だけでなく、後半の「今日、御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない。」という面を忘れてはならないのです。
  • なぜ、このような厳しい警告が必要なのでしょうか。それを知るために、詩篇95篇8節の「メリバでのときのように」「荒野のマサでの日のように」という意味について知らなければなりません。メリバ」とは「争い」を意味し、「マサ」は「試み」を意味します。この二つは常に連動し、いずれも神の怒りを引き起こすものでした。この箇所を引用したヘブル人への手紙では「メリバ」も「マサ」もなく、40年間にわたる「荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように」となっています。神の民の荒野での歩みにおいて、その始めから終わりまで、いろいろなことで主の御怒りを引き起こしました。
  • メリバのとき」とは、イスラエルの民の40年間の荒野での旅の終わりの出来事で、「マサでの日」とは荒野の旅の最初の出来事です。いずれも荒野の旅の出来事で、神の御怒りを引き起こした出来事だったのです。作者はこの荒野の最初の出来事と終わりの出来事を明記することで、荒野の旅全体を、荒野の生活の特徴を表わそうとしているのです。
  • ここで40年間の荒野の最初と終わりの代表的な出来事を取り上げてみたいと思いますが、その最初と終わりの出来事は「水」に関するものでした。

(1) 〔荒野での最初の出来事〕

  • まず、荒野での最初の出来事から見てみましょう。この出来事は出エジプト記15章22~26節に記されています。エジプト軍に追われ、前は紅海という絶体絶命に追い込まれたとき、神はその紅海を分けて、イスラエルの民を渡り通らせました。イスラエルの民が渡り終えたとき、追跡してきたエジプト軍は、隔てていた水の壁が崩れて全滅しました。イスラエルの歴史において、はじめて「栄に満ちた喜び躍る」神への賛美が記されています。その3日後に起こったのが、水が苦くて飲めないという出来事でした。力の限り主に向かって勝利の賛美をしたその舌の根も乾かぬうちに経験した最初の試みでした。
  • 民は、マラというところに来た時、そこの水は苦くて飲むことができませんでした。そしてモーセにつぶやいたのでした。水はいのちです。その水が苦くて飲めないというのは大きな問題です。しかしもっと大きな問題は、このときモーセに対してつぶやいた彼らの心の中にある「苦い根が芽を出した」のでした(へブル12章15節)。マラの水が苦くて飲めなかったというのは、彼らの心の中にある「苦い根が芽を出した」というきっかけにすぎませんでした。主はモーセの祈りを聞かれ、マラの水を甘くされました。神様が彼らをエジプトから救い出されたということは、民に対して全責任をもっているということです。そのすばらしい救いの経験をしたにも関わらず、水が苦いということだけで、神に対して、また指導者のモーセに対してつぶやくという不信仰を明らかにしました。マラの水が苦かったのは、実は、彼らに対する信仰のテスト、神を信じるかどうかの試みだったのです。
  • 民のつぶやき(不信仰から出るつぶやき)は、水だけでなく、食べ物、神の約束、神に立てられた指導者に対するねたみ、それは結果的には、すべて神に対するつぶやきで、神に対する不信仰でした。モーセの姉ミリアムも弟のモーセに妬みを抱いて、兄のアロンも巻き込んで非難したためにツァラアトになりました。そのとき、神はミリアムにこう言いました。「わたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。」と。(民数記12:7後半)

(2) 〔荒野の最後の出来事〕

  • 出エジプト後の最初の試みが「水」の問題であったのに対して、荒野生活40年目の最後の出来事も「水」の問題でした。
  • ところで、それまでなぜ40年間も荒野をさまよっていたのかというと、神の約束を信じられないという不信仰という理由が一つ、もうひとつは、次の世代に神を信じて従うということを新たに学ばせるためでした。事実、出エジプトした第一世代ではなく、その世代が死に絶えた後の次の世代の者たちに、神は新たな指導者ヨシュアを与えて約束の地へと導いていきます。昔は40年もあればほとんどひとつの世代が完全に交代できた時代だったのでしょう。
  • かつて苦い水を甘い水に変えられた奇蹟を忘れて、ツィンの荒野のメリバテ・カデシュでも民は水がないと言って、指導者モーセに逆らったのです(民数記20:1t~13、申命記32:51)。これを「メリバの水」とも言っています。これは暗に神に対する不信仰でした。と同時に、これまで、完璧に「彼はわたしの全家を通じて忠実な者である」と神をして言わせたモーセが、荒野の旅の終わりに起こったこのメリバでの水の件で、「神を聖なるものとしなかった」という罪で、約束の地に入ることができなくなってしまったのです。これが荒野の最後のメリバ事件です。なんと厳しいことでしょうか。
  • 水がないという現実に対して、もしここで民に水を与えず、民が死んでしまうということであれば、なにゆえに神は彼らを出エジプトさせたのでしょうか。水も、食べ物も、敵からの防衛も神はもともと保証してくださる方です。もしそれに不足を感じるなら、信仰が試されているということなのです。ですから、こう言われているのです。
  • きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。
  • そして、続いて、「あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。『彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない。』と。それゆえ、わたしは怒って誓った。『確かに彼らは、わたしの安息に、はいれない。』」と(詩篇95:7~11)。
  • 「きょう、もし御声を聞くなら、荒野での試みの日のように、・・・あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」-これが今日のメッセージです。しかもそのことが、神を礼拝するということの重要なポイントです。

4. モーセに勝る信仰の指導者イエス

  • モーセは神を信じるという点においてすばらしい指導者でした。神が「わたしのしもべモーセはわたしの全家を通じて忠実な者である。」と評価したほどです。モーセは神を信じることによって、イスラエルの民をエジプトから救い出しました。
  • しかしモーセもはじめから信仰深いとはいえませんでした。モーセが神からの召しを受けたとき、モーセは二度も言い訳してそれを辞退しました。それは、自分には能力も、伝えるべきメッセージも、権威も、雄弁さも、そして適性もありませんと事態の理由を並べたてました。しかし、神はモーセに言うべきことをその都度教えると約束し、モーセの兄アロンがその代弁者となると言われました。そして、イスラエルの民、特に長老たちに対して告げるべきことを話されました。それは、神がイスラエル人をエジプトの悩みから救い出して、必ずや、カナンの地へ上らせてくださるということでした。しかし神は「エジプトの王パロは強いられなければ、決してあなたがたを行かせないのを、わたしはよく知っている。」とも言われました。
  • エジプトの王パロは一筋縄ではいかない人物なので、エジプトを脱出することは至難の業です。そのために、イスラエル人は苦しみに耐えられず、意気消沈してしまう恐れがありました。それで神は、彼らが落胆しないように、どのような困難があっても必ずエジプトを脱出できることを前もって話されたのです。
  • さて、モーセとアロンは神に言われたとおり、パロのところに行って、荒野に行って祭り(礼拝のこと)をさせてくださいと言いました。案の定、パロは彼らの要求を一言の下にはねつけました。エジプトの王は、当時強大な権力をほしいままにする専制君主であり、神と等しい存在でした。そのようなパロがエジプトの奴隷として寄留しているイスラエル人の願いなど、聞きいれるはずはありませんでした。パロは彼らの要求を一蹴しただけでなく、さらに多くの労働を課しました。やぶへびとはこのことです。イスラエルの民の苦しみは以前にもまして、倍加してしまったのです。
  • ただでも過酷な労働を強いられていたイスラエルの民は、事態がいっそう悪くなったことで、モーセとアロンを恨みました。モーセもアロンも神に従ってやったことが裏目に出たので悩み苦しみました。「やってられるか」とここでモーセがさじを投げてもおかしくないのですが、モーセはここで神に訴えました。そのとき神はモーセに言いました。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたに分かる」と。・・そして「彼はその国から彼らを追い出してしまうようになる」と付け加えました。そして、そのような結果になっていきました。最強の権力をもったエジプトの王の支配からイスラエルの民は解放されたのです。
  • 神を信じるという点では、信仰の指導者としてモーセは私たちの模範です。しかしです。このモーセにも勝る信仰の指導者がいるのです。その方こそ「信仰の使徒イエス」です。信仰の創始者でり、完成者であるイエスです。この方にならって、この方に従って、私たちは信仰による神の祝福のすべてをいただくように求めましょう。信仰は私たちに神の安息を保障しているからです。
  • 信仰が与えられているということはまさに神の奇蹟です。信仰を働かせましょう。現実の生活において、さまざまな試みがあります。それは信仰のテストだと思いましょう。自分の力で何かをしようとすると、必ず、不安が付きまといます。しかし信仰を働かせると神から来る安息がきます。
  • イエス・キリストは言われました。
    「すべて(例外なく、だれでも)、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしの(信仰の)くびきを負って、わたしから(信じることを)学びなさい。そうすればたましいに安らぎ(安息)が来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28~30)

    くびきを負う


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