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信仰は聞くこと、聞くことはキリストのことば

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パウロのイスラエル論

5. 信仰は聞くこと、聞くことはキリストのことば

【聖書箇所】10章14~21節

ベレーシート

  • 10章8節の「みことばはあなたの身近にある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」の「みことば」が、17節では「キリストについてのみことば」に置き換えられています。ユダヤ人は長い間、モーセの書いた聖書(モーセ五書)を読み、聞き、学んできましたが、それは「キリストについてのみことば」であったのです。つまり、キリストという鍵がなければ聖書は正しく理解することができないということなのです。そのことを御子イェシュアも以下のように語っています。

【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書5章39~40節、46~47節
39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。
46 もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。
47 しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。

  • 律法学者で熱心なパリサイ人であったサウロ(後の使徒パウロ)は、ダマスコ途上で、天からの光によって初めて目からうろこのようなものが落ちました。つまり天からの光の啓示によって、キリストという鍵をもって聖書(旧約)を理解できるようになり、自分が迫害していたイェシュアこそ神の子であり、イェシュアこそキリスト(メシア)であることに目が開かれ、聖書の一つひとつのピースが繋がるようになり、パウロはそのことを論証することができるようになったのです。旧約聖書にはキリストについてのみことばがいろいろなところに啓示されているのですが、ユダヤ人たちはそのことに気づかずに来たのです。パウロの論証はユダヤ人たちをうろたえさせました。そのことがパウロを迫害する結果ともなりました。

1. 信仰のことばとは、「キリストについてのみことば」

  • 8節の「みことば」と17節の「キリストについてのみことば」は、いずれもギリシア語では単数形の「レーマ」(ῥῆμά)ですが、ヘブル語では「ダーヴァール」(דָּבָר)となります。ヘブル語の「ダーヴァール」(דָּבָר)は、単に「ことば」という意味だけでなく、「出来事」という意味があります。つまり、「みことば」とは「キリストの出来事」(キリストによってなされる預言的出来事―その中心的な出来事は十字架の死と復活の出来事)の全体を含んだ意味となります。それをパウロは「私たちの宣べ伝えている信仰のことば」と言っているのです(8節)。この「信仰のことば(=キリストのことば)」を聞いて心で信じた者が、その口を通して告白して救われるだけでなく、遣わされる人々の足によって多くの人々に宣べ伝えられ、それを聞く耳をもった者のうちに信仰が生まれます。
  • ちなみに、ローマ書10章ではまさに「キリストについてのみことば」の宣教のプロセスとその循環が、人間の「心」「口」「足」「耳」という器官を用いながら説明されています。それが意味することは、「キリストについてのみことば」は全存在を持って受けとめるべき事柄だということです。

2.「キリストについてのみことば」はすでに旧約で啓示されていた

  • パウロが10章後半で強調しようとしていることは、この信仰のことばはすでに聖書(旧約)の中に啓示されており、神の民であるイスラエルはそれを聞いていたはずだということです。「信仰のことば」に対する当時のユダヤ人の反応も実は聖書の中に啓示されていた、とパウロは聖書を引用しながらそのことを訴えています。
  • 果たしてイスラエルの民は聞こえなかったのでしょうかと問いかけながら、そうではなかったということを、パウロは詩篇19篇を引用して答えを引き出しています。つまり、「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせ」(詩篇19:1)ているように、「その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた」(19:4)はずだとしています。次に、モーセのことばを引用して、イスラエルは聞いていなかったのではなくて、聞こうとしなかったと訴えます。「聞こうとしなかった」とは、神のことばに対して、関心をもって問いかけることなく、主を尋ね求めず、主を捜そうともしなかったということです。そのために引用された聖書箇所は、以下の申命記32章21節とイザヤ書65章1~2節です。

(1) 申命記32章21節

  • ローマ書での引用は申命記32章21節の後半の部分ですが、パウロの頭には21節全体があったと考えるのが自然です。そこで、21節を以下に引用してみます。

【新改訳改訂第3版】申命記32章21節
彼らは、神でないもので、わたしのねたみを引き起こし、彼らのむなしいもので、わたしの怒りを燃えさせた。わたしも、民ではないもので、彼らのねたみを引き起こし、愚かな国民で、彼らの怒りを燃えさせよう。


●ローマ書の「あなたがた」は、申命記では「彼ら」となっています。その「彼ら」が「神でないもの」「むなしいもの」、すなわち、偶像で神の「ねたみを引き起こ」させたこと、神の「怒りを燃えさせた」ことによって、神も同様に、「民ではないもの」「愚かな国民」、すなわち、異邦人によって、彼らの「ねたみを引き起こし」、彼らの「怒りを燃えさせる」としています。つまり、「彼ら」であるイスラエルの民は神のことばを聞こうとしないということが預言されていたのです。


(2) イザヤ書65章1~2節

  • このことをさらに強固に主張するためにイザヤ章65章1~2節を引用しています。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書65章1~2節
1 わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。
2 わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。


●1節には、本来神の民イスラエルに求められていた神に対する重要な姿勢が記されています。それは第一に、「問う」と訳されたヘブル語の「シャーアル」(שָׁאַל)、「尋ねる」と訳された「ダーラシュ」(דָּרַשׁ)、そし「捜す」と訳された「バーカシュ」(בָּקַשׁ)、そして神を「見つける」と訳された「マーツァー」(מָצָא)です。これらの動詞は、いずれも、神に対する神の民のあるべき重要な態度を示しています。ところがこれらのことを神の民がしなかったために、神は異邦人にそのことができるように道を開くという預言です。その預言は預言的完了形で記されており、必ずそうなるという意味で語られているのです。

●では、反逆の民イスラエルに対して神はどうしたのかと言えば、「一日中、わたしの手を差し伸べた」とあります。つまり、途切れることなく、神の恩寵の手は開かれていたということです。にもかかわらず、彼らは今なお神に立ち返ろうとしていないことをパウロは語ろうとしているのです。今日においても然りです。とすれば、神の民イスラエルは神のご計画から永久に外されたのかといえば、「決してそうではない」ということが、次章の11章で語られるのです。この11章こそ、イスラエルについての神のご計画であり、私たちが神のご計画とみこころの全貌を理解する上で、きわめて重要な事柄なのです。


2017.7.19


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