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兄息子が抱えている深刻な問題

49. 兄息子が抱えている深刻な問題

【聖書箇所】 15章11節~32節

はじめに

  • 今回取り上げる箇所(15章11節以降)は、「放蕩息子のたとえ」話として有名です。たとえの中に登場する父はイエスを通して啓示された父なる神を指し示していますが、このたとえ話の二つの息子のうち、弟息子に注目されがちです。弟息子のその回心へと至るドラマの中に、神の恵みが豊かにあらわされているからです。ところが兄息子の方はそうしたドラマ性は全くありません。同じく父の家に住みながらも、父とのかかわりには大きな隔たりがあります。
  • いなくなった一匹の羊、失った一枚の銀貨、そして父の家から旅立った放蕩息子、いずれもやがて本来あるべき場所に戻ってきた時に喜びがあり、それを分かち合うのは当然だとしている点が共通しています。しかし最後の例え話では、喜びを分かち合うことが当然のように思わない兄息子の存在がクローズアップされています。この父と二人の息子のたとえ話が伝えようとしている重要なポイントは、兄息子が抱えている深刻な問題にあります。そこには人間が抱えている深い根があるように思います。

1. 弟の帰りを歓迎しない兄息子

  • 「私はもうあなたの子と呼ばれる資格はありません。」と帰還した弟息子を、「死んでいたのが生き返り、いなくなったのが見つかったのだから」と言って喜び、歓迎する祝宴がなされました。肥えた子牛がほふられ、音楽と踊りを伴う盛大なものでした。そこに、兄の息子が畑から帰って来て、家に近づきました。しもべから事の事情を聞いた兄息子は、おこって、家に入ろうともしなかったのです。
  • なぜ兄は弟の帰りを喜ぶことができなかったのか。兄の怒りをなだめようとする父に対する兄の言い分が29, 30節に記されています。

    【新改訳改訂第3版】
    15:29
    『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。
    その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
    15:30
    それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

  • 怒りを伴う兄の言い分には、これまで長い間、どんなに一生懸命に父に仕え、父の言われることに従ってきたかという思いがあります。また放蕩三昧をし、財産を食いつぶして帰ってきた弟に対する妬みさえも感じられます。そしてその弟に対する父のあまりにも好意的な振る舞いに対して我慢がならないという思いが見て取れます。
  • この兄の言い分に「同感だ」とする思いが自分の中にもあるならば、その人もこの兄息子と同じ問題を抱えているのかもしれません。父の家に共に住みながら、父の思いを共有することができず、父の心とは異なっています。父の喜びを自分の喜びとすることなく、父の悲しみを自分の悲しみとすることなく、ただよい行いよって父からの好意を得ようとひたすら頑張って生きてきた兄の姿を見ます。そこには、感謝も自由も喜びもなく、文句の一つも言わずに、ただひたすら父に仕え、父に従ってきた兄の姿があります。
  • 兄は弟のように自由奔放に生きた経験がありません。したがって自由奔放によって苦しみのどん底に突き落とされ、その苦痛と孤独を味わった経験もありません。弟が財産を食いつぶして帰ってきたとしても、それは自業自得で、特別に歓迎して祝宴を催すほどの必然性をなんら感じませんでした。ですからそんな弟を歓迎する父に対して腹立ちを感じたのです。「兄はおこって、家に入ろうともしなかった」(28節)という表現にそのことがよく表わされています。

2. 兄息子に対する父の態度

  • 弟に対する妬みと父に対する怒りの心に支配された兄息子に対して、父はどのようにかかわっているかを見てみましょう。

(1) なだめ続ける父

15:28にそんな兄をなだめる父の姿があります。「なだめてみた」と訳されているギリシャ語は「バラカレオー」παρακαλέωという動詞の
未完了形で「なだめ続ける」という意味です。「パラカレオー」παρακαλέωには、「そばに呼び寄せる、願う、頼む、懇願する、さとす、元気づける、慰める、なだめる」という意味があります。この名詞は「パラクレートス」παρακαλητοςで、「助け主」を意味することばです。

(2) 「子よ」と親愛の情をもって呼びかける父

30節では父が兄息子に対して「子よ」と呼びかけています。新改訳第2版にはその呼びかけのことばは訳されていませんでしたが、第3版では「子よ。」と訳され、改変されています。しかし、この「子よ。」という呼び掛けには「テクノン」τέκνονというギリシャが使われています。「子」を表わす語彙としては他に「ヒュイオス」υἱόςがあります。それはルカ15章だけでも8回出てきます。11節、13節、19節、21節(2回)、24節、25節、30節です。子や息子を意味する言葉です。ところが、31節で父が兄息子に呼びかける時には「テクノン」τέκνονが使われているのです。明らかに、ルカはなんらの意図をもって使っていると言えます。

「テクノン」も「ヒュイオス」も同義と言えますが、こと呼びかける所に使われる場合、「テクノン」は親愛の情をもって呼びかけることばのようです。ヘブル語聖書では「ベニィ」בְנִיと訳しています。つまり「わが子よ」という訳です。親愛の情を含んで子に対して呼びかけるにふさわしい訳語の選択はむずかしいのかもしれません。ルカ2:48に、母マリヤが神殿にいたイエスに向かって、「まあ」(新改訳)と訳しています。原文には「テクノン」となっています。この親愛の情をこめた呼びかけを、塚本訳は「坊や」と訳しています。??? 訳語のむずかしさを感じさせられます。「子よ」だけでも親しさの情は表現しきれません。ヘブル語訳の「わが子(息子よ)」の方がそのニュアンスを感じさせられます。

いずれにしても、父は兄を責めることもなく、親愛の情をもってかかわろうとしているのですが、兄の方はその父の情を感じていないようです。最も父のそばにいながら、父の心を知らない現実、そこには大きな淵が存在しています。弟も父から離れていたのですが、兄の方も父から離れているのです。弟が父から離れていることを「死んでいた」と父は表現していますが、そばにいる兄も実は「死んでいる」のです。弟の方は「死んでいた」のが、父の家に帰ってくることで「生き返った」と表現していますが、兄は「死んだまま」です。この兄を父とのかかわりにおいて真に「生き帰らせる」ことはとても困難な状況にあると言わざるを得ません。


むすび

  • ルカの福音書15章にある三つのたとえは、本来、取税人や罪人たちを受け入れて、食卓を共にしているイエスに対してつぶやき続けている「バリサイ人」「律法学者」たちに対して語られたものでした。この「パリサイ人」「律法学者」たちがこのたとえ話に出て来る兄息子にたとえられているようです。しかし、主を信じる者たちの中にも、「兄息子」が存在していないかどうか、探られているのではないかと思います。「弟息子」以上に、「兄息子」の方がより深刻な問題を抱えているのです。

2012.4.19


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