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出エジプトの輝かしい勝利の歌(改訂)


12. 出エジプトの輝かしい勝利の歌(改訂)

【聖書箇所】15章1節~21節

はじめに

  • 15章は聖書に記されている最初の歌です。この「新しい歌」は「モーセの歌」とも「ミリアムの歌」とも呼ばれます。モーセとイスラエルの民たちの歌に応答するように、モーセの姉であるミリアムがタンバリンを打ち鳴らし、女たちの踊りの先頭に立ちました。
  • 1節は、モーセおよびイスラエルの民の賛美です。21節は、ミリアムと女たちが同じフレーズを交唱しているのです。
    1節 「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を治められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。」
    21節「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を治められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた」
  • このフレーズによって、神の偉大なみわざのストーリを歌い、かつ、神に対する信仰―「主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神、私はこの方をほめたたえる。私の父の神、この方をあがめる。」を告白したのです。イスラエルにとっての礼拝とは、まず、歴史に現わされた神の大いなるみわざをたたえ、その方をあがめることでした。そしてその救いの目的が何であるかを常に想起することでした。
  • 15章での瞑想の焦点を、エジプトから救い出した神の目的(贖いの目的)に当ててみたいと思います。特に、13節と17節に注目します。

    【新改訳改訂第3版】
    ●13節
    あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、聖なる御住まいに伴われた

    ●17節
    あなたは彼らを連れて行き、あなたご自身の山に植えられる
    【主】よ。御住まいのためにあなたがお造りになった場所に。
    主よ。あなたの御手が堅く建てた聖所に。


1. 神の贖いの恩寵的行為を表わす動詞

  • 15章13節から、神が贖われた民に対する恩寵的行為を表わす二つの動詞を拾ってみたいと思います。

(1) 「導かれた」

  • すでに出エジプト記13章17, 21節にも使われている「導く」と訳された「ナーハー」נָחָהは神が民を導く用語として旧約で39回使われています。そのうち18回が詩篇で用いられています。その多くは「導いてください」という嘆願の祈りの中で使われていますが、詩23篇3節、および、詩78篇14節と53節には、2度、肯定的に神の恩寵としての導きが述べられています。
  • 私たちは、日毎に、神の導きを経験しているかどうか、神が自分の生涯に備えられた道を歩みそこなっていないかどうかを点検する必要があります。なぜなら、「主は、…御名のために、私を義の道に導かれます。」(詩篇23:3)とあるとおり、主の導きは神の子どもに与えられた特権であり、実り多い生涯を送れるようにと神が愛のうちに備えてくださったものだからです。「御名のために」とは、「神ご自身が、ご自分の名にかけて」という強い責任を表わすことばです。
  • また、イザヤ58章11節には「主は常にあなたを導き」とあります。「常に」とは「継続的に」と言う意味です。私たちが意識してもしなくても、神の導きは継続的です。父である神は、本質的に与えることを喜びとする神であり、子である私たちの益のために、つまり、ご自分のきよさにあずからせようとして懲らしめることをする方です (ヘブル12:10)。
  • 詩篇61篇ではダビデが「心が衰え果てた」(2節)危機的な状況の中で、「どうか、私の及びがたい高い岩の上に、私を導いてください」と神の導きを求めて祈っています。「及びがたいほど高い岩の上」とは、ある確かな地位と立場を意味します。つまり支配、力、権威、権力、主権が与えられる地位と立場です。この地位と立場を一度失えば、復権は困難です。しかしダビデはこの状況の中から、いわばあり得ない復権への導きを祈っているのです。
  • 聖書の中には、感動的な神の導きの実例があふれています。しかしそれは決して特別なことではなく、正常なこと、当然のことなのです。私たちが神の子どもとしてふさわしく整えられていくためのあらゆる導き、霊的な成長、選択、決断、経済やセキュリティも含めた日々の生活のすべてにおいて神は当然のごとく導いておられます。「導き」は神の子どもに対する御父の愛なのです。

(2) 「伴われた」

  • 「伴われた」と訳された動詞は「ナーハル」נָהַלのピエル態です。羊飼いが羊を飼う飼育用語です。旧約で10回使われており、「導く、伴う、養う、連れて行く」という意味です。詩篇23:2では「主は、わたしをいこいのほとりに伴われます」とダビデが告白しています。またイザヤ40章11節では捕囚から解放される民に対して「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く(נָהַל)」と預言者イザヤを通して主は約束しています。同じくイザヤ49:10でも「彼らをあわれむ者が彼らを導き(נָהַג)、水のわく所に連れて行く(נָהַל)からだ」とあります。
  • 以上の(1)と(2) は、いずれも羊飼いと羊のかかわりを表わす動詞です。イスラエルの民はそれがどういうことかを良く理解できる比喩であったと思います。主は羊飼いとして。羊を追い立てることなく、ゆっくりと、羊の歩みに合わせながら、優しく導かれるのです。時には休みを与えながら、彼らを養っていくのです。やがて来られるイエス・キリストは、「わたしは良い羊飼いである」と自己宣言されました。
  • その恩寵的行為の「かかわり」を意味する動詞のみならず、15章の歌には、羊飼いである主が羊を導いていくところがあることを示す動詞が17節で使われています。

2. 贖いの目的は民を聖所に住ませること

  • 神が贖われた民を導いていくのには目的があります。21節から、その目的を示す二つの動詞を拾ってみたいと思います。

(1) 「連れて行く」

  • 「連れて行く」と訳された「ボー」בוֹאのヒフィル態(使役形)で、「入る、連れて入る、連れて行く、来させる」という意味で、そこには明確な目的があります。どこへ連れて行くのかといえば、それは「神の住まわれる場所に」です。

(2) 「植える」

  • 「植える」と訳された「ナータ」(נָטַע)は、旧約で59回使われていますが、出エジプト記ではここ(15:17)の一回限りです。どこに植えるのかといえば、出15章21節によれば「主の山」「御住まいのためにあなたがお造りになった場所」「主の御手が堅く建てた聖所」です。つまり「神の住まわれる場所」と言えます。そこに神は民を「連れて行って」、そこに「植える」のです。「植える」とは、神とのかかわりを根付かせるということです。神とのかかわりを神が根付かせてくださるのです。
  • 「聖所」と訳された「ミクダーシュ」מִקְדָּשׁですが、ここでは「ミックダーシュ」(מִקְּדָשׁ)と表記されています。15章17節ではじめて登場する語彙です。出エジプト記25章以降では幕屋建設について記されており、幕屋を造る目的が8節に記されていますがそこにも登場します。「彼らがわたしのために聖所(מִקְדָּשׁ)を造るなら、わたしは彼らの中に住む」と。
  • 神が住まわれる場所は、歴史的に変遷します。最初の場所は移動式の幕屋です。やがて約束の地に入っても幕屋ですが、ダビデの時代にはモーセの幕屋と対比する新たな幕屋、すなわち「ダビデの幕屋」と言われる(至聖所がむき出しにされた幕屋)ところに神は住まれます。さらにダビデの次の世代にはソロモン神殿が建てられます。しかしそれはやがては崩壊します。新約時代における神の住まわれる聖所(神殿)はキリストを信じる者のうちに建てられます。
  • 大切なことは、「幕屋」「聖所」「神殿」と言葉が違っても、いつの時代においても、それが必要とされる究極的な目的は「神が人のうちに住む」ことです。

2011.12.16
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