創世記15章と17章に見られる契約の相違について
2. 創世記Ⅰの目次
16. 創世記15章と17章に見られる契約の相違について
【聖書箇所】創世記 17章
はじめに
- 普通、「アブラハム契約」というとそれは神の一方的な契約と考えられています。それは決して間違いではありませんが、創世記17章で結ばれている契約は、決して「一方的な契約」ではなく、むしろ「双務的な契約」です。なぜ、二つの契約が存在しているのでしょうか。その違いと理由について考えてみたいと思いますが、いずれの契約も、「わたしはあなたとの子孫にこの地(すなわち、カナン全土)を与える」という約束がその内容です。
1. 創世記15章と17章にみられる契約の違いについて
- 神とアブラハムとの契約を記す資料が二通り存在していたのではないかという仮説があります。この仮説は「文書資料説」と言われます。「文書資料説」によれば、ソロモン時代にまとめられた「ヤーウェスト資料」とバビロン捕囚以降にまとめられた「祭司資料」とがあります。これは、モーセ五書そのものが創世記の創造の記述やノアの箱舟の記述にみられるように、複数の資料が組み合わされて現在の形になっているとする考え方です。この仮説に立つなら多くのことが説明しやすくなることは事実です。たとえば創造の記事では、1章が「神」という名が使われているのに対し、2章では「神である主」という名前になっています。ノアの洪水の記事においても、箱舟の中に入る動物の数が6章と7章では異なっています。そこには6章では「神」という名が、7章には「主」という名が使われています。
- 文書資料仮説によれば、創世記15章にみられる神とアブラハムの契約が「一方的」であるのに対して、創世記17章にみられる神とアブラハムの契約は「双務的」です。その違いは、創世記15章の契約が「ヤーウェスト資料」に基づくもとであり、創世記17章の契約が「祭司資料」に基づくものだということによってです。
- バビロン捕囚という亡国の経験、精神的な拠り所となっていた神殿の完全な破壊。そうした民族的な悲痛を経験したイスラエルの民は、なぜ自分たちがそのような結果をもたらしたのかという模索の中で、創世記15章に示されるような神の一方的な恵みに対する忘恩の罪こそ捕囚という結果をもたらしたのだと考えたのです。神殿を失った彼らはバビロンにおいて、自分たちのアイデンティティを割礼と安息日の遵守に置き、神とアブラハムとの契約を描くときに人間側の義務としての割礼を表記することによって、神の民としての新たな決意を表明したとも考えられます。
2. イスラエルの歴史における契約の二つの面

- 神と人との契約の歴史においては二つの面があります。一つは神の「一方的な契約」であり、もう一つは「双方的な契約」です。後者を代表するのは「シナイ契約」であり、それが更新したものとしての「ヨシュア契約」などです。前者「一方的な契約」を代表するのは「ノアの契約」「ダビデ契約」、そしてエレミヤの「新しい契約」と言われていますが、神がアブラハムと結んだ二つの契約(15章と17章)には、二つの契約のそれぞれの面が流れていると言えるのではないでしょうか。
- ちなみに、創世記17章のアブラハムに対して「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」(1節)という要求のあとに、原文には2節の頭に「そうすれば」という接続詞「ヴェ」(וְ)があるのです。したがって「そうすれば、わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。・・」となります。17章ではこのようにアブラハムが「神の前を歩み、全き者である」という主体的・自覚的・自発的な信仰を歩むことが契約を確立していく前提となっているのです。これが「改名」の真の意味するところであり、また「割礼を施す」ことの真の意味するところなのです。
2011.8.31
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